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「褒めても何も出てこない」2024年9月26日の日記


この日記も今日で5日目を突破したわけだが、僕は何もしていない日を5日過ごしてしまったことが可視化されて驚きと戸惑いを隠せない。

「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」という言葉があるが、本当にそうだと思う。僕があまりにも自分について、あるいは他者や社会について深く考えられていないことはこの歳にして恥ずべきことであると思うが、そのことについてすらこの日記を始めるまで気づいていなかったと思うと少しは成長したのかなとも感じる。

話は逸れるが、僕は文の終わらせ方を「思った」「感じた」「考えた」の3つ以外に知らない。と言っておきながらこの2文はそうではないのだが。

僕はこのようなメタ的な表現が好きだ。過去に作ったことのある短歌に「もう二度と僕は倒置に逃げません言った側から逃げたよ僕は」がある。noteマガジンの『無意味連載』とか『再利用されたコンテンツ』あたりでもこれを好んで用いていると思う。

メタ的な表現の良さは、手軽にセンスがあると錯覚できることにある。制約をハックすれば別に誰でも可能な表現ではあるのに、自分しか気づいていないだろうの顔で投稿する快感が堪らない。


最近、なぜかよく褒められる。僕がやっていることは中1で拗らせた厨二病と、死にたいムーブと、稚拙なポエムの執筆から何も変わっていないというのに。

バスケ部の部長をしていたのに、同学年の部員の中で自分だけ彼女ができなかったのは、あるいは、委員長や学年生徒会副会長などを片っ端から歴任したのにも関わらず友だちが少なかったのは、僕の卑屈さや稚拙さや嫌われていると決めつけるところにあるのかもしれない。自分からリーダーに立候補したように見えて、実態は過剰に褒めて持ち上げることにより普通に生きていたら当然引き受けたくないであろうリーダーという責任の所在を押し付けられて神輿を担がされていただけなのかもしれない。

褒めを受容するのは、簡単なことではない。褒められることは褒められていない自分の側面を否定することになり、人様から見られているという余計なプレッシャーとストレスと恐怖が日常生活に増える。でも、死ぬほど嬉しい。褒められるために僕は生きているし、創作をしているとまで言い切れる。

誰かに認められたいという願望は誰しも持ち合わせているだろう。では、誰かとは誰であろうか。それが自分なのかもしれないなと最近思う。

また、思うで締めようと思う。

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