月の光

ドビュッシーの「月の光」の旋律が、音楽室を満たす夜、私はそのドアの前で、涙を流した。

田口さくらは、私と同じピアノ教室に通う、高校1年生だ。私と同じ時期に通い始めたことや、年齢が1個しか違わないことなどから、私たちはすぐに仲良くなった。さくらは活発で、私より背が高く、どこか垢抜けていて可愛い後輩だ。小学生の時は、一緒に同じ曲を練習した。

とはいっても、ピアノ教室での発表会では、各々が好きな曲を弾いていい事になっていたので、先生も何気なく、曲が被らないようにしていたらしい。彼女が子犬のワルツを弾くと、私はメヌエットを弾いたし、彼女がもののけ姫を弾くと、私は千と千尋の神隠しを弾いた。

私はどちらかというと内気で、小学校にはあまり友達もいなかったから、ピアノ教室でさくらとたまに会う時が、1番楽しい時間だった。

中学3年生の時、私は入試で忙しくなり、ピアノ教室へは通えなくなった。特にプロに育てるためではなく、単純に、小さい頃から音楽に触れると頭が良くなるんじゃないかという発想だった私の両親は、特に咎めることもなかった。勉強に集中するために教室を辞めた。

その頃さくらは中学2年生。ピアノ教室に通い続けていたらしい。運か幻か、私は県内有数の進学校に入学した。1年後、さくらが同じ学校に入学してきたとお母さんから聞いた時は、とてもとても嬉しかった。さくらは勝ち気で、おしゃれが大好きな高校生になっていた。さくらの周りにはいつも大勢の女子がいて、彼氏もいたらしかった。

私は高校に入っても、特にぱっとしない、普通の生徒だった。ピアノはというと、私は趣味で弾く程度、さくらは未だに教室に通っていて、素人の私にはプロ級に思えた。

ある日、職員室に提出物を出した帰りに、さくらに会いに行った。特に理由はないが、調子が良ければ久しぶりに遊びに誘おうとも思っていた。

さくらの教室の扉を開け、適当にいた男子に話しかける。
「あの、田口さん、いる?」
「え、知らない。おいかずき!田口さんは?」
かずき、と呼ばれたその子は、さくらの彼氏らしかった。彼は、私の方に歩いてきて、
「ああ、あいつなら、暇な時音楽室にいるよ。」
ぶっきらぼうに私に言った。

内心、仮にも私先輩なんだけど、と思ったが、聞き流して音楽室に行ってみた。
音楽室のある3階に上がると、ピアノの音がした。
さくら、ここで練習してるんだ。と思い、ドアに近づくと、聞き覚えのある曲が聞こえてきた。

ドビュッシーの「月の光」。映画やドラマでもよく出てくる、素敵な曲だった。私は少し廊下に突っ立って、その演奏を聞いた。ピアノがなり止んだあと、音楽室の扉を開けると、そこにはさくらがいた。

「久しぶり。ピアノ、凄かった。」
「あ、水美ちゃん。ありがとう。あ、今は水美先輩か。」
「そうだね。」と、私は少し笑った。
さくらは綺麗に束ねてある髪と、先生にバレないナチュラルメイクで、高校1年生とは思えないほど、大人びていた。
「この曲、知ってる?」
「知ってるよ。月の光でしょ。私、この曲好きだよ。」
「私も大好き!ねえ、久々に連弾しない?」
「えーできるか分からないからいいよ。」
「大丈夫!ほら、座って。」

ピアノ自体、家でもしばらく触っていなかったので、弾けるか不安だったが、さくらが弾きやすいパートだけを私にやらせてくれたのもあり、最高に楽しい演奏だった。

演奏が終わったあと、私はさくらを週末、お茶に誘った。

「これ、すごく美味しい。」
「めっちゃ美味しいね。ふわふわで甘すぎず、どんどん食べれちゃう。」
「分かる。これ食べてたらすぐ太っちゃう。」
パンケーキを食べながら、私とさくらは離れていた時の溝を埋めるかのように、ずっと話し続けた。幼なじみとは不思議なもので、どんなにくだらない話でも、永遠に笑っていられた。私にとって、かけがえのない時間だった。

さくらが入院したのは、その1ヶ月後だった。連日見舞い客が訪れてはお菓子や寄せ書きが届いた。さすがは人気者である。私も入院した翌日、チョコレートを持って、見舞いに行った。

病室に入ると、さくらのお母さんが、「あら、水美ちゃん。久しぶりね。」と、少し驚いた様子で私を迎え入れてくれた。中に入ると、見舞いに来ていたのは、私だけでは無かった。

「水美ちゃん!来てくれてありがとう!
あ、そうだ。紹介するね。こちらかずきくん。」
かずきくんは私を見て、思いついたように、
「ああ、あの時の。」
と言った。
「あ、うん。あの時は教えてくれてありがとう。」
「いえいえ。先輩でしたよね?僕、タメ口だったし、めっちゃ態度悪かったかもしれないっす。すいません。」
「え?ああ、大丈夫大丈夫。」

軽く挨拶をして、私とかずきくんは、さくらの病状をお母さんに教えてもらった。どうやらあまり良くないらしく、より多くの検査が必要なため、1ヶ月ほど入院するそうだ。

その翌日も、私はお見舞いに行った。すると、かずきくんも来ていた。私は何故か、もやっとした。
「こんにちは。」
と軽く挨拶をした後、ふたりで病室に入った。
しかし、そこにさくらはいなかった。

看護師さんによると、さくらは集中治療室にいるらしい。昨日の夜、悪化し、今までずっといたそうだ。

それから、病室に戻ってきたものの、すぐに、さくらは余命宣告を受けた。

その日の晩、私は部屋に籠って泣いた。理解し難い現実を受け入れられなかった。もう一度、もう一度だけ、連弾がしたいと、私は神様に祈った。

余命宣告から3ヶ月が経った。さくらはすっかり元気を無くしていたが、可愛さは変わらなかった。少しよくなって、一時帰宅で、学校にも1度挨拶に来るそうだ。

私はその日、さくらが登校する日、休み時間になって、すぐにさくらの教室に向かった。しかし、さくらはいなかった。あれ、と思い、かずきくんを探したが、彼もいなかった。

放課後、お母さんに電話をすると、さくらは、朝少し登校し、すぐに帰ったそうだ。確かに冷静に考えると、病人が一日中授業を受けるはずが無かった。

ああ、今日は会えなかったか。と、一息つき、下校しようとした。冬の日の入りは早く、下校時にはすでに真っ暗になっていた。憂鬱が押し寄せた。やるせない思いで、ふと、ピアノを弾けばいいかもしれないと思った。

急いで音楽室に向かうと、ピアノの音がした。しまった。使われちゃってる。と諦めようとした時、私の耳に入ってきたのは、「月の光」だった。それは流れる水の様に、緩やかで、繊細、触れたら壊れてしまいそうな、聞いたことも無い、美しく切ない音色だった。直感で、さくらだとわかった。
新月で月の無い夜空に、神々しく光り輝く旋律が鳴り響いていた。

さくらが亡くなって半年、夏が来た。私はピアノ教室にもう一度通うことにした。理由は、天国で、さくらと連弾がしたいということ、もうひとつは、さくらのピアニストの夢を、私が代わりに叶えてあげたいということからだ。

ドビュッシーは、月の光を、ヴェルレーヌという詩を元に作ったという。さくらへの気持ちが、恋だったのかは分からないが、24歳になった私は、彼女と同棲している。ピアニストにはなれなかったが、調律師として、ピアノに関わる仕事に着いた。かずきくんは、23歳、医者になるための勉強に励んでいた。私たちは、さくらの影響を受け、人生を選択した。これからもそれは続く。

ヴェルレーヌの詩「月の光」の訳

貴方の心はまるで人の闇の部分を感じる風景画や
繊細な仮面と宮殿的なベルガモのダンス(ベルガマスク)の様だ
リュートを奏で、踊りながらも
心の底の悲しみをおどけた様子で仮面の下に隠してしまう。

哀愁漂う物悲しい短調に乗せて歌っているのは、
愛や充実した時を手に入れた人生についてだが
決して幸せを信じてはいないのだろう。
その歌は、清らかな月の光に儚げに溶けていくのだった。

美しくも悲しみを含んで、静かに降り注ぐその月の光は
木の上で羽根を休める鳥を夢へと誘うだろう。
それはまるで、悲しみに暮れ恍惚の波に揉まれることや
はじけて煌く噴水から溢れ出す水のように。

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