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IT時代の舞踊論、身体論 2
(IT時代の舞踏論、身体論1の続きです)
3. コロナ禍にも関わらずアルゼンチンタンゴー言語文化を超えて
アルゼンチンタンゴはことの外ウイルスと相性が悪い。ポストコロナ、ウィズコロナが新しい社会のルール、倫理を作るとすれば、アルゼンチンタンゴは間違いなく悪いもの、眉をひそめさせるもの、アウトロー、アウトサイダー的なもの、反社会的なもの、限りなく黒に近いグレー、まあその程度に分類されるであろう。コロナ禍では、本場アルゼンチン、ブエノスアイレスでさえ、窓から人がタンゴを踊っているのを見ていると、住民が密告して、警察が乗り込んでくる始末である(パレルモ地区の外れのバーの常連さんによれば、さすがは独裁の長かった場所、密告制度がありお金がもらえる、という伝統もあるらしい)。
アルゼンチンタンゴは権力と相性が悪い。そもそもがアンチ権力である。というより、舞踏史を紐解くと、ダンスとは反権力である場合も多いのである。西洋中世では教会に禁止された民族舞踊がどれだけあったことか。奴隷のアンチ権力の踊りのカポエラをはじめ、植民地時代以降は黒人のダンスは圧政からの解放の旗印であったであろう。この日本でも盆踊り禁止令から、ダンスホールでやんちゃ騒ぎを禁じる風営法まで、枚挙にいとまがない。
かたや権力にうまく食い込んだ舞踏もある。やはりバレエがその筆頭であろう。そもそもが民衆の合唱曲に合わせて踊られた宮廷の気晴らしであったものが、ルイ14世の肩入れにより、華々しい貴族の文化となった。とはいえ、バレエもロマン主義には反権力と結託することになる。ここの経緯は複雑なので、また別の場所に譲る。能、狂言、歌舞伎もうまいこと権力に入り込んで、政府の支援を受けてきた。
19世紀末、ラプラタ川の場末の貧民街で産声をあげたタンゴも、元々は眉をひそめられるような、いかがわしい踊りだった。娼婦やポン引き、ヒモの類の踊りなのでそりゃそうである。だがうまいことフランスで評価され、20世紀初頭ヨーロッパでタンゴ扇風が吹き荒れることに。カトリックに潰されそうにもなったがなんとか切り抜けて(ここも面白いので、また別稿に)ユネスコの無形文化財として認められ、今に至る。なんとか権力に取り入った格好だが、如何せん汚職の巣窟である政府がデフォルトをネタのように繰り返すので、政府からの援助があまり期待できない。実際ミロンガに通う人たちは、働いてない人も多いので、やっぱりいかがわしいところはある。普通の家庭生活とは両立が難しい、ダメ人間の踊りという側面も否定しがたい。
コロナが来る前から、グレーゾーンを漂っていたアルゼンチンタンゴ。残念ながらコロナでさらに黒い方へと傾いてしまった感があるが、しかしながら、AIと機械に仕事を奪われていく人間が、その身を寄せ合い、人間にしかない身体性を使って、発展させる文化があるとすれば、私見ではそれはアルゼンチンタンゴでしかあり得ない。アルゼンチンタンゴは、アブラッソ(抱擁)と呼ばれる独自のシステムを通した、ペア同士の身体の対話、美しいボディランゲージによって成立している。そしてこれは非常に創造性が豊かで、アブラッソの中でいくらでも新たに新しいステップを創作することができる。文学研究者として、異文化理解を生業としてきたが、やはり今の時代は言語によるコミュニケーションが限界を迎えているように思う。文化相対主義の元、個々の文化が自分の正当性を主張し、真理の基準が失われた世界。当然の帰結としてナショナリズムが高まり、外国人差別が横行する。その中でいくら言葉を発しても、どうしても伝わらない、ヘイトスピーチに代表されるような、攻撃的な無理解に陥ることが多々ある。そんな流れに対抗するために、アルゼンチンタンゴができることがある。それは、身体の対話を通じ、互いの自由を相互承認すること、しかもそれが独りよがりの自己主張ではなく、互いの身体性を祝福するような、そうした非常にレベルの高い相互承認。その相互承認は、国籍を超え、言語を超えて世界に拡散してきたし、今もしつつある。IT時代、コロナで人々が分断される中、必ずや人と人の身体的な繋がりが大事になってくる。アルゼンチンタンゴというシステムはどんなにグレーゾーンに堕ちようとも、必ずやコロナ時代を生き抜き、IT時代にもっとも花ひらく文化となると信じてやまないのである。