舞踏と狂気と国際コミュニケーションーアルトーからタンゴへ
いけない、アブないお話をひとつ。
人が集まれば必ずルールが出来る。それは暗黙の了解かもしれないし、明文化された法律かもしれないし、マフィアのボスの鶴の一声かもしれない。ともかくルールがあって、それに従わない人には罰がくだり、コミュニティから追い出される。
だから頑張ってモラルを身につける。場合によっては幼少期から散々親に叩き込まれたので、身体の隅々まで染み渡ることもある。例えば“下半身を露出してはいけない” というモラルはあまりに身体に染み付いているので、それを破ろうとも思わないし、自分がそれを破ることは想像できないし、そんなことを強制的にされたらえらく傷つくのが普通である。
ところがこの身体に深く根付いたモラルさえ壊れてしまう場合がある。ひどく酔っ払った時、ドラッグでおかしくなったとき、ボケたとき、疲れすぎてハイになってしまったとき、人はこのモラルを乗り越えることがある。その時人は「変態」と呼ばれるだろう。
変態?社会のモラルからすれば確かに変態である。変態を擁護するわけではないが、我々はもともとみな変態であった。子供というのは、社会のモラルからすれば、まごうことなき変態である。なぜならモラルをまだ身につけていない、モラルが身体化されていないからである。放っておけばずっと排泄系の用語を喜んで叫び、パパ、ママ、おじいちゃん、おばあちゃん、友達全員と大笑いしながらディープキスをする、裸で世界を駆け巡り、思うがままに身体を動かして不器用なダンスを踊る。それはたまらなく可愛い動きだが、もちろん大人がすれば奇怪であやしい動きである。人間の身体から自然と生まれる、生の表出としてのダンス。
ダンスとは、舞踏とは、社会が押し付けるモラルすら、最も身体の奥深くにこびりついたモラルすら乗り越えるパワーを、本質的に持っているのである。古くは古代ローマのデュオニソス祭から、一昔前の日本の性的にゆるゆるだった盆踊りも、あるいはドラッグを皆が使っているヤバめのクラブイベントに至るまで、舞踏はモラルを超える狂気と簡単に結びつく。そこには原初の個性、個々の身体が持つ自然なリズムとムーブメントへの回帰の欲望がある。
アルトーは社会の押し付けるモラル、文法、決まり事から逃れ、原初の身体をみいだし、踊ることを唱える。なぜ踊るのか?
「我々はみな狂っているから」
9年間5回にわたり精神病院に入院させられたにも関わらず、フーコー、デリダ、ドゥルーズをはじめ、ブランショ、クリステヴァ、スーザン・ソンタグなど、20世紀の大知識人、人文系のスター達に凄まじいインスピレーションを与えたアントナン・アルトー。彼は言う。
「我々はみな狂っているから」
もともと狂っており、そこにモラルの轡をかまされて、常識人となる私達。しかしそれは、他の社会、違う社会に属する人からみれば珍奇であり、狂っている(ヨーロッパの常識人は、あまり声高に言わないけど、日本人は狂っていると思っている)。舞踏はその社会のモラルという「束縛=狂気」から逃れ、原初の狂気へと、幼児の狂気へと戻る純粋な手段なのである。だからアルトーは踊りを重視する。ニーチェと同じく、西洋の規範、ルールをことごとく換骨奪胎して、徹底的に1人の、孤立無援の戦いを生きながら。
酒やその他ドラッグを使わないと乗り越えられない心の壁、モラルの縛り、我々は幼少期の頃、その縛りから自由な身体を持っていた。しかし社会がモラルを押し付け、モラルは気がつけばひどく身体化していた。悪いことをすると自然と頭が下がってしまう日本人。モラルは身体化される。習慣は筋肉を形成し、関節は可動域を狭め、ストレスは筋肉を関節を硬直させる。身体は強ばり、しがらみと不安で固まり、醜く歪んでいく。そんな社会のプレッシャーを、歪んだ身体を、舞踏は解いていくのである。
アルトーは命令する!社会化する以前の身体を出現させ、踊れ!と。社会化した身体を強引に解放するので、そこには言葉にならない叫び、苦痛、恐怖、暗闇、空虚、その他おぞましい「残酷さ」が出現する。かの有名なアルトーの演劇理論、舞台理論である。
だが解は一つではない。別のルート、解放のルートも存在する。
踊れ!社会のモラルでガチガチになった身体を、ゆるめ、柔らかく、しなやかに、飛ぶこと。ピラティス、ヨガ、ジャイロトニック、ジャイロキネシス、ストレッチ、何でも良い。バレエ、コンテンポラリー、ジャズ、タップダンス、カポエラ、サンバ、諸々のフォルクローレ、タンゴ、サルサ、バチャータ、センシュアルバチャータ、キゾンバ、ズーク、何でも良い。
踊ることは解放である。生まれ育った社会のしがらみ、身体化した社会のモラルと狂気から逃れること。異文化の踊りを学ぶこと、それは自国の文化の外に強制的に自分の身体を慣らしていくことである。それは社会によって押し付けられた常識=狂気を相対化することであり、その外に存在ごと出る試みでもある。それはモラルの解体、言語文化からの解放、そしておそらくはジェンダーからの解放につながる。
異文化を踊る。これからの国際コミュニケーションは、国境を、言語の壁を、ジェンダーの枠を乗り越え、共に笑うこと、そこにある。
そのために僕はタンゴをどこまで踊れるようになるだろう。
最近よくそんなことを考えている。