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タンゴとポリアモリー 2

タンゴとポリアモリー1
https://note.com/suzukitakami/n/nea92a912ac2f
の続編です。

一夫一妻制、ロマンチックラブ・イデオロギー(完璧なパートナーを見つけて、その人と結婚して家庭を作り、生涯を添い遂げる)、そんな制度が大手を振って歩いている現代。しかしながら、それはもともとある日本文化ではなかった。

古くは歌垣(一緒に山に登って和歌を作ってエッチしよう!最後のトコで「なんでやねん」となる)
さらには妻問婚制度(和歌=ラブレターを送りあって、顔が見えない暗い中でエッチしよう!最後のとこで「顔見えないんかい!」となる)
が存在した。要するに、今でいう「オフパコ」システム、「即ヤリ」「ヤリ目」から「真面目な出会い求めてます」まで、ゆるりとカバーする出会いのシステムがあった訳である。

近代では夜這い制度(ムラごとにしきたりが違う乱交型夜の交流制度)幅を利かせていた。

もともとある日本文化は実に多様だし、時代ごとに変化もしたが、一夫一妻制、ロマンチックラブではなかった。そもそもが昭和の頃までは、かなりの数、妾制度の実例なども残っていたりするのである。つまり日本はポリアモリー的であった。なんと言っても天照の天岩戸神話がある国である。

天岩戸神話とは、天皇の先祖たる太陽神(アマテラスオオミカミ)が、ふてくされて大岩の奥に隠れて、日がてらなくなったので、みんな困ってしまった。そこで皆で相談して考えついたのが、神々によるストリップ会。実際これが大成功。岩の前でドンチャン騒ぎをして、ストリップして、「お、面白そうだなおい」と岩戸から出て来た天照を強引に引っ張りだして、火がまた照り始め皆が幸せになる、という謎の神話である。

神話は本当にバカにしてはいけない。中沢新一のカイエ・ソバージュシリーズや、大嶋仁『神話的思考の展開』を引用するまでもなく、我々の言語文化の基層にある思考、感性の型を作っているのは神話なのである。ジブリ作品の成功、ナルトやワンピースの成功も、この神話体系をうまく翻案したことが大きいのだが、その話はまた別稿で。

ともかく、日本語文化圏の感性の型を作っているのは、キリスト教的モラルではなく、天岩戸的な、神々のストリップ劇場の方である。性の遊びを愉しむ心、性の解放と共に踊り、舞うこと。神聖なる性的舞踏文化。そちらが日本文化のメインストリームではなかったか。

 唯一、日本文化の中でポリアモリー的でない点があるとすれば、当事者間で、嫉妬の問題を含めて、本当のことを言って、腹を割ってとことん話し合う、というコミュニケーションの負担を避けたことである。それはホンネとタテマエシステム、同調圧力システム、みなまで言うな、的な察しの文化の圧力下では、当然の帰結だったと言えるだろう。

日本にあった妾制度を次第に駆逐していく一夫一妻制、ロマンチック・ラブ・イデオロギーだが、これは明らかに明治以降のヨーロッパ文化の移入の際に起こったも現象だ。しかしながら、本当に日本人は、日本語文化圏は、一夫一妻制とロマンティック・ラブ・イデオロギーを受け入れたのであろうか?

この二つの背後には、欧米文化に深く根を下ろしているキリスト教文化の圧倒的な影響力がある。ロマンチック・ラブも、今日本に見られる西欧型一夫一妻制も、キリスト教との関連で発展してきたものである。性的なものを酷く抑圧するキリスト教文化があり、その上で、中世宮廷恋愛が出来上がり、それがロマン主義の時代に再発見され、ヨーロッパの帝国主義とともに全世界に輸出されていく(この経緯については、拙著『恋愛制度、束縛の2500年史』参照)。そして、キリスト教的な文化基盤がない日本にあっては、そのやうな制度の輸入は表面的なものにとどまらざるを得なかったはずである。つまり、最初から最後まで、日本は西欧的なモノガミー+ロマンティック・ラブなどとは、あまり関係ないところで生きていたのである。

繰り返すが、ポリアモリーを一夫一妻制、ロマンチック・ラブ・イデオロギーの否定、と言うならば、日本文化は深いところで「ポリアモリー的」であった。ポリアモリーな生を生きるのが「普通」であった、と言える。

ではなぜこれほど、芸能人の浮気叩きが存在するのか?文化史的な視点から言えば、自分に合わないことをしている際のフラストレーションの吐口ではないか、とさえ思われる。すなわち、一夫一妻制にタテマエ上縛られてしまった日本人、本来なら天岩戸的な自由奔放な性を生きる日本人が、自身にはないキリスト教的な理想を押し付けられ、いつのまにかそのタテマエと同調圧力に縛られ過ぎるようになり、溜まりに溜まったフラストレーションが爆発しているだけなのではないか、と疑いたくなるのである。特にSNSは、タテマエに縛られてホンネで生きることを忘れた不器用な人達の、ストレス発散の道具になり、とてつもないパワーん持ってしまった。俗物のくだらない嫉妬心なぞに、パワーを与えるとロクなことにならないのである。

日本語文化圏に生まれ育ったくせに、ポリアモリー的なものを否定する方が、「不自然」なのではないか。生涯たったひとりの恋人、そんな縛りに、どうして自由奔放な性的欲望が従うというのであろう?

まだタンゴが出てこないですね。次回に続きます。

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