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IT時代の舞踊論、身体論 1

 世界舞踏史の流れの中にアルゼンチンタンゴを置きつつ、IT時代の身体論について考えています。
 今回はさわりだけ。冒頭の写真はフランスの旧石器時代の遺跡(Trois frères)にある壁画です。人間が動物に生成変化し、音楽に合わせて踊る身体を表しているのではないか、と考古学者は分析しています。身体に刻み込まれた原始のリズムと躍動感を感じてゾクゾクしてしまうのは僕だけでしょうか。

 世界舞踏史の流れの中からみるアルゼンチンタンゴ、そのイントロの素描です。目次はこんな感じです。

1. IT 革命と「主体性」
2. 新たな身体論へ
3. コロナ禍にも関わらずアルゼンチンタンゴー言語文化を超えて

1. IT革命と「主体性」

 時代の変化についていけないー多くの人が感じていることであると思う。特にデジタル・ネイティブではない昭和生まれの人間に取っては切実な問題である。全く、社会の構造変化が激しすぎて、頭がついていかないのに、子供を抱えてなんとか生き延びていかないといけない。やれやれ、である。

 とはいえ、見方を変えればこんなに刺激に満ちた面白い時代もない。農業革命、産業革命に続くIT革命を今我々は生きていて、これまでの世界観が役に立たなくなる。正解を知っている人は一人もいない。新しい世界観が待たれている。知らぬ間に抜き取られている個人データ、つまりGoogleの検索履歴、フェイスブックの閲覧履歴、アマゾンの購買履歴、ネットゲームのプレイ履歴などから、自分の弱い部分にジャストヒットする広告やニュースに晒される。ネットを使えば使うほど、知らず知らずにGAFAに脳をハッキングされていく。『サピエンス全史』の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが言う様に、感情までハッキングされる日も遠くないであろう。いや、Netflix の普及具合を考えれば、すでにされているとみてよいだろう。

https://courrier.jp/news/archives/159645/

 人格を人生を、ライフそのものをハッキングされる。デカルトをはじめ、近代哲学の創始者達が力強く歌い上げた自由意志、イエスとノーをはっきり判断できるという至高の価値としての判断力、人間の尊厳であるはずの理性、知性など信じられるはずもない。啓蒙主義を経て打ち立てられた様々な市民社会の価値観、革命や市民戦争など多くの血を流して勝ち取ってきた民主主義の制度、自由、平等の価値観も、くだらない嫉妬から来るSNSの炎上の前には色あせてしまう。AIの圧倒的情報処理能力の前に、「主体性」を持って人生を謳歌しようとすればするほど、単なる操り人形と化してしまう時代。

2. 新たな身体論へ

 その時代に、ネットのパワー、AIのパワーに対抗するのではなく(そんなことはもうできない)その圧倒的な影響力を利用してすべきこと、その一つに、「新たな身体論」の探求があると思っている。

  ここでちょこっと西洋思想史の話。嫌いな人は読み飛ばしてください。デカルトに端を発する近代哲学の発生から20世紀半ば、サルトルくらいまでは、人間の尊厳は、身体の動物性を自由意志の力で乗り越えるのがエライ、それが魂の偉大さ、理性的存在たる人間の面目躍如、思考の自由万歳、主体万歳みたいなところがあった。それに対して構造主義、ポストモダンの時代では、そうした主体の地位に激しい批判が加えられる。今ではそうした反主体の哲学に対する反動もやってきている。

 ところがテクノロジーの進歩はこうした哲学、思想の議論のはるか先から、「精神的主体」にとっての痛恨の一撃を見舞ってくる。伝統的な主体はIT時代では、ビックデータを元にしたアルゴリズムによって簡単にハッキングされてしまう。今や世界のグローバル化は留まるところを知らず、文化相対主義の中で何が正しいのかまるでわからなくなる。どう生きるべきか?何が正しいのか?誰もちゃんとした答えを持っていない。目の前に広がるのは、科学の皮を被った混乱した情報だけ(つまり出来の悪い新興宗教、束の間の安心を与えるもの。そして誰も人のことは言えない、といった状況)。エビデンスは?と聞いてくる輩のどれだけが科学史、哲学史的観点から見たエビデンスの概念を説明できることか。ツイッターなどで見かける論争の殆どが無駄で終わりのない挙足取り、自己満足のための議論としか思えない。理性的存在であるはずの我々人類は、他者の意見を取り入れ、より賢くなり、より良い社会のモラルを打ち立てるはずだったのに、今や自分達が開発した道具の奴隷と化してしまっている。自由意志、理性的存在としての権威と偉大さも地に墜ちたかと思われるほどである。

 その最中にあり何一つ変わらず、我々が生きているかぎり手にしている、最大の財産として、この身体が存在する。百万年単位の生存競争を勝ち抜いてきて、自然淘汰、性淘汰によって洗練され、ヴァージョン・アップされ続けてきたホモサピエンスとしての身体。かつてはハンドアクスの使用によって、火を使った調理によって、集団生活によって、脳と消化管、筋肉組織、手足の骨格のデザイン、脳の構造を進化させてきた、ホモサピエンスの身体。今という時代は、この身体をIT,AIという人間が生み出した凄まじい道具によって新たに進化させ、適応させることを余儀なくされているのである。シャドボルド・ナイジェル、ハンプソン・ロジャーが『デジタルエイプ』でまとめている通りである。

進化生物学、遺伝子工学の成果を踏まえた、人類誕生の太古の世界からIT時代まで通用する、新たな身体感覚、身体と世界の関係論が必要である。

 とはいえ、進化生物学、遺伝子工学、AI研究にはてんで疎いので、僕ができることは旧来の哲学、思想、文学などで描かれた身体のイメージ、身体論をどう変革させるかを考えることである。それもアルゼンチンタンゴ、という稀代のボディランゲージコミュニケーション、ノンヴァーバル(非言語)コミュニケーションの容態分析から見えてくる未来の身体論を考えることである。

IT時代の舞踊論、身体論2へ続く

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