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完全な自己否定は自由以外の何物でもない

つげ義春氏の「貧困旅行記」を図書館で借りて読んでいます。

しみじみ「つげ節だなあ~」と感じながらページをめくっていますが、その中で「ボロ宿孝」というのがあり、秋田の五能線の八森駅の近くのボロ宿からの話が出ていました。
https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1232

無断引用します。

「二十年ほど前のことだった。秋田県五能線の八森近くの海辺に沿う崖道を線路づたいに歩いて行くと、線路下の草むらの中に炭焼小屋と見まごう掘立小屋のような宿屋があった。近くに人家はなく、宿屋の周囲は草ぼうぼうで、およそ宿屋をするにはふさわしくない寂しい所で、人に尋ねて教えられた宿屋だったが、看板もなく怪しく眺めた。片方だけに傾斜したトタン屋根のスソは、土盛りした線路の土手にかぶさり、土手を屋根の支えにしている見すぼらしさで、これが宿屋かと呆然とした。」

まあ中も凄まじく、つげ氏は宿の婆さんに断られて宿泊できなかったのですが、この本は1991年刊行ですから、20年前と言えば1970年頃。もう50年くらい前の日本には、私は泊まったことはありませんが、こういった宿はざらにあったと思いますし、1980年代は私は山登りをしていたので、山里の宿もたくさん見ましたが、確かに炭焼小屋程度の宿もありました。大半がテント泊だったのですが、山小屋も大変なところが普通でした。その山小屋も今は随分様変わり、この本見てビックリしました。

その「つげ氏」は自分がなぜボロ宿に引かれるのかについてこんな考察をしています。

「世の中の関係からはずれるということは、一時的であれ旅そのものがそうであり、ささやかな解放感を味わうことができるが、関係からはずれるということは、関係としての存在である自分からの解放を意味する。私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から脱がれるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには"自己否定"しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に擬そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。」

これは共感します。私も山登りや旅行は一人が好き、別に宿はどうでも良い人種です。まあできれば3つ(安全、清潔、安価)は求めたいと思いますが…。
自分からの解放は自己否定から。
関係や日常の安定からの逸脱により生まれる何かによって得られるものがあるんですね。それがこのつげ氏の言葉でわかりました。
「つげ氏」はまた、マックス・シュティルナーの「唯一者とその所有」からの言葉も紹介

「完全な自己否定は自由以外の何物でもない」

何度か書いたかと思いますが、私は女優の「深川麻衣」さんが推しです。彼女を初めて知ったのはこの番組でした。

今回「つげ氏」のボロ宿孝を読んで、主人公の篠宮春子(深川麻衣)がボロ宿で溌剌としていたのは、ノスタルジーに浸っているというより、自分からの解放がそこにあったからなのかもしれないと思った次第です。

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