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公私混同ヨロシク
近来稀に見るお粗末なトップのようです。
私はこれはありません。それは稲盛塾長の教えを守っているからです。
稲盛塾長のフィロソフィーのその部分を引用しましょう。
「公私のけじめを大切にする」
仕事をしていく上では、公私のけじめをはっきりつけなければなりません。
プライベートなことを勤務時間中に持ち込んだり、仕事上の立場を利用して取引先の接待を受けたりすることは厳につつしまなければなりません。勤務時間中の私用電話の受発信を禁止したり、仕事を通じてのいただきものを個人のものとせず、みんなで分けあっているのもそのためです。これは、ささいな公私混同でもモラルの低下を引き起こし、ついには会社全体を毒することになってしまうからです。
私たちは、公私のけじめをきちんとつけ、日常のちょっとした心の緩みに対しても、自らを厳しく律していかなければなりません。
私は、会社をつくった当時から、このことを厳しく言い続けてきました。
極端なことかもしれませんが、一つの例として、勤務時間中の私用電話は、受発信とも禁止しています。会社にプライベートな電話がかかってくることも、また、プライベートなことに会社の電話を使うことも一切許していません。
社内では、先ほどお話しした「有意注意」で、皆真剣に仕事をしているわけです。そんな時に、プライベートなことで友人から電話がかかってきたからと、簡単にそれを取り次いで「次の日曜日に遊ぼう」などと話をしている。そんなことでは仕事にならないわけです。勤務時間中は、必死に、真剣に仕事をしてもらわなければ困る、そう思っていますので、公私のけじめをつけるということについては非常に厳しくとらえています。
また、私が「公私の区別をつけろ」と厳しく言っている背景には、もう一つの理由があります。それは、「一事が万事」というように、一つ許せば際限なく公私混同が起こっていく恐れがある、ということです。
例えば、仕事上の「役得」ということがあります。職務上の自分の立場を利用して個人的にうまい汁を吸う。例えば、会社で大口の発注を行う立場にある人間が、注文欲しさに何とか取り入ろうとする売り手側から、盆暮れの贈り物を個人的に受け取ったりすることなどがそれにあたります。売り手の人間にとって、発注者にいい印象を持ってもらおうと思うのは当たり前のことですから、このようなことはそう珍しくはないわけです。
そうすると発注者は、「自分はそういう立場にあるのだし、まあ菓子折の一つや果物箱の一つぐらいいいだろう」と思って、ついつい受け取ってしまう。ところが、最初は五百円や千円の菓子折一つだったのが、だんだん高価な贈り物を受け取るようになっていく。
そして、一度そういう役得を経験してしまうと、それが習い性として身に付いていって、人間が次第に卑しくなっていくのです。つまり、卑なる人間、卑しい人間が、会社の中で育ってしまう。
人間の中でいちばんレベルが低いのは、「卑しい人間」だと私は思います。作家の城山三郎さんの作品に、『粗にして野だが卑ではない』という本があります。つまり、礼儀作法を知らない「野人」であっても、「卑しい人間」であってはならないということです。
人間としていちばん低俗であるこの「申しい人間」を育てるようなことをしてはいけません。そのためには、厳格過ぎるくらいに、公私の分別をはっきりさせる必要があるのです。
それ故に私は、盆暮れに贈られてくる仕事を通じてのいただきものは、会社全体でまとめるようにし、後で全社員で分けるようにしました。そして、一切個人として受け取ることのないよう、社員に強く言い聞かせてきたのです。
本来なら全部断るべきなのでしょうが、それでは角が立ち過ぎるという場合もあります。それならば、会社としてちょうだいし、全社員で分け合うようにすればいいと考えたのです。
堅過ぎると思われるかもしれませんが、そうすることによって、私は会社のモラルを守ってきました。
会社の経営に携わって四十年になりますが、そういうルールはどれほど厳しくしても、し過ぎることはないと実感しています。人間というものは、自分の欲望を満足させるためには、仕事上の立場さえ利用しかねないものだと、これまで世界中で仕事をするうちに分かってきました。
(中略)
会社の立場を利用して個人的に利益を得るということは、仲間に対する「背任行為」です。心をベースとした経営を目指し、社員同士の結びつきを大切にする京セラでは、この「公私のけじめ」ということを、非常に大事に考えてきたのです。
その通りなんですね。誰かから贈物が来る。相対でもらうことはあまりありませんし、そういう場合でも1対1でなく、社員が一緒の場というが普通です。つまり貰ったということ自体を見られているわけです。もちろんお中元とかで送られてきた場合も、宅急便を受け取った人、それを私に持ってくる人が間にいるわけですから、兵庫県庁もそうでしょうが、「貰ったこと」は知られているわけです。
この記事の中で
「一方で、『地元産品をPRすることは他自治体でもある』『高価ではない特産品、手土産であれば、知事以外も含め、社会通念上の範囲で受け取っている事例は多くあると思われる』など、斎藤知事を擁護する意見も複数あった。」
とありますが、それは稲盛さんも言うように受け取らないと角が立つ場合もありますからある話だと思います。
だけど間違ってはいけないのは、それを「公」のものとするか「私」のものとするか、そこに大きな違いがあり、その人の倫理観を明確に知ることができるということです。
とくにリーダーである以上、何より大事なのはこの「公私のけじめ」に沿うことです。稲盛塾長の教えを厳守しているお陰で、私は一切個人では受け取りません、私物化しません。仕入先が持ってきた手土産のお菓子などは直ぐに皆に配ります(1個は味見でもらいますが…)。届けられたものには送り状だけ貰い、礼状を書くだけですが、それでもとてもスッキリします。
斎藤さんはそういったスッキリ感というのを感じることはないのでしょうね。逆に兵庫県職員は不快感、不信感が募るわけです。
稲盛さんの教えからいえば
県知事の立場を利用して個人的に利益を得るということは、県職員、県民に対する「背任行為」です。
ということなのですが、そのことに斎藤さんは気が付かないのでしょう。
いつも書くことですが、お金儲けをする場合も、悪いことをしないのならいくら稼いでも良いと思いますが、大事なのはそのお金をどう使うかなのです。
企業家、起業家でお金持ちの人はあまたいますが、彼らが立派なお金の使い方をしているというのはトンと聞きません。
お金は稼ぎ方よりも使い方でその人の生き方、哲学が見えてきます。豪華な自宅、外車、宇宙旅行…を選ぶのか、人類社会の平和・幸福のために使うのか。結局そこでその人に対する評価が決まります。
身近な所で言えば「ふるさと納税」も結局は見返りを求める「私」ではないのでしょうか。
自民党の裏金議員はグレイなお金を派閥からのものとしてシレッと貰っていますが、どう使っているかは一切口にしません。それは自分のために使っているからでしょう。自分の為とは別に銀座で飲むとか、いい服を買うとかではなく、自分の議席確保のために地方議員に陣中見舞と称して金を配るということです。
今回の総裁選もそこを言わない黒き血のイレブンですから、勿論使途は公開しない=その程度の倫理観しかない、公私混同ヨロシクという方々でしょう。
今日のタイトル写真は、会社の近くで見かける毎朝ウォーキングの方。暑い最中もゴミ袋とごみバサミ持参で綺麗にして頂いています。通勤途中の道でも見かけたのでおそらく1キロ以上の広い範囲を清掃かたがたの朝のウォーキング。誰のためでもなく、皆のための人知れない行為。本当に頭が下がりますし、このかたの心の広さを感じては、自分も無私で今日も努めようと心する、私の名前も知らない師です。