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いはれなきかなしみにもだえ
3日の「縦軸 横軸 脱線」で紹介した関千恵子さんの毎日新聞の記事ですが、著書を図書館に取りに行った時に、図書館に毎日新聞も置いてあり読んでみました。
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電子版の無料版では読めなかった続きの一部は
「8月6日は全市を挙げて建物疎開の作業が朝から始まっていた。原爆資料館によると、現在の平和大通りを中心とする現場には、市内の旧制中学や国民学校高等科40校か8000人以上が動員された。犠牲者は約6000人にも上った。
生き残った負い目とともに生きた関さんは、死の前年まで級友の慰霊で東京から広島を訪れていた。著書では「お国のために」と信じた結果の惨劇に怒りを込め、「殉国学徒」と呼ばれることに「勤労働員を美化してなんになるのか」と書いた。
建物疎開の跡地は戦後の都市計画で、緑地帯を備えた幹線道路になった。壊滅した広島の再生と復興の礎になったのが、75年前の49年8月6日に公布・施行された一本の特別法だ。
「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設する」(第1条)。特別法施行に伴う住民投票は91%の賛成があった。高尚な理念をうたった「広島平和記念都市建設法」により、国家事業として平和記念公園などの軽備が進んだ。51年には「平和大通り」の名称が公募で決まった。
「75年は草木も生えない」とまで言われた焦土を見た人々が、緑に希望を託したことは間違いないだろう」
さらに地元紙も5日の朝刊の一面トップが「8月5日で止まった日記 13歳の女学生 戦時下の日常つづる」とあり、詳しく8面に記事がありました。
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この二つの新聞記事を見て知ったこと(既知のものもありましたが)は
① 終戦間際、生徒はもはや授業はなく、高校生と中3は工場で労働奉仕に駆り出され、中1と中2(ちょうどこの二つの記事に該当する生徒)は建物疎開作業を毎日していた。だから建物疎開作業中に原爆で遭難したのは13歳から14歳が多いのです。
② 建物疎開作業は市内中心部の重要な建物設備を延焼などから守るために周辺の建屋を壊すもの。記事にもありますが、今の平和大通りは防火帯として壊された後をそのまま利用したものなので、建物疎開作業で死亡、被爆した中学生の慰霊碑、遭難碑はその遭難場所である平和大通りに多くある。
③ 原爆が投下された地点Hypocenterは島病院にありますが、建物疎開作業の場所の多くはそこから2キロ以内の所が多く、即死、大怪我の後に生死不明も多く、またその家族、親類縁者も原爆死した場合は、本人の確認、遺骨の引き渡しが出来ない状態が生まれ、それが平和公園内にある「原爆慰霊塔」にいまだに置かれ、毎年この時期に名簿公開等を全市町村に依頼して行われています。これは堀川惠子氏の『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』 に詳しいです。
ここからは関千恵子氏の「広島第二県女二年西組」からの感想です。
関氏は当日体調不良で建物疎開作業を欠席し宇品の自宅にいたため当日の建物疎開の場所である現広島市役所近くにはいなかったが、広島第二県女の同級生はほとんどが現地で被爆した。引率していた教師により日赤に向けて移動も、大怪我や大火で散り散りバラバラとなり、当日死亡した者も多く、また奇跡的に病院や、学校までたどり着いたものもいて、同級生の顛末の記録が伝聞も含めて関氏は手にすることが出来ました。
関氏は一人ひとりの最後の記録を残していくことが自分の使命とし、遺族や友人などからそれぞれの女生徒の人物像や家族の背景を聞き取り、この1冊にまとめられました。故に各章は「炎の中で」「学校に帰った級友たち」「南へ-業火に追われて」「島へ」「8月15日」とそれぞれ亡くなった日が章立てであり、さらに各章の各項はそれぞれ生徒の名前で、それぞれの生徒の運命が丁寧に書かれています。
私は関氏の思いとして、戦没者が「第二県女」の2年生の生徒38人、教師3人という数字でまとめられるのではなく、一人ひとりが生き生きと生きていたこと、無念にも無くなった足跡をしっかりと残したいという気持ちで書かれたこと強く思いました。もちろん遺族にとっては、原爆による遭難がそれぞれ受け止め方が違いますが、愛する娘が突然無慈悲に、また無残な姿で送るしかなかった悲痛さの中で、また娘に対する愛情を片時も忘れたことがないことがわかり、それも胸を突きます。
関氏は戦後早稲田に進み、毎日新聞の記者になられたようです。その縁もあり今回毎日新聞にも取り上げられたのかもしれません。
関氏は終章以降に「耐えて生きる」「原爆と靖国」という二つをくわえておられます。「耐えて生きる」とは生き残った同級生、家族が何かしら負い目と悔恨を抱えていること、それが原爆に対して寡黙にさせてしまう苦しさを書いています。
「原爆と靖国」には驚きました。全く知りませんでしたが、建物疎開作業は軍の命令であり、一種の軍属としての役割だったので、戦後彼女たちは軍神として靖国神社に合祀され、叙勲されていること、またそのことにより遺族には遺族年金や弔慰金が渡されていたのですね。
私は靖国神社は明治維新により勤王派のために作られた政治的な神社だと思っています。他の神社のように古来の大御魂があったわけでも、あるいはある特定の個人が権威付けのために神として位置づけられる(楠木正成の湊川神社、東郷平八郎の東郷神社みたいな)ものはご都合主義で嫌いです。
そもそも誰が「あなたは神様にしてあげる」なんて言えるのでしょうか?神様にできるのは神様だけじゃないのかな?そういう嘘くささがあるから私は神社は好きだけど、こういうご都合神社にはいかないです。
もちろん軍神として合祀されてお喜びの遺族もいるでしょうから、それはそれで喜ばれたら結構でしょう。
でも13、14歳の女生徒をそこに追いやった責任は「神にしてあげる」側の人が果たしたんでしょうか?国家総動員の戦時下だったから仕方ないよね、とりあえず事後ということで、名誉とお金を渡して片をつけよう、そういう扱いだったと思います。
私が仮にその頃の親の立場だったら、神にするより娘を返せという思いは生涯決して消えないと思います。この本にもそういう親御さんがおられ、思いの深さを知ることが出来ました。
本日は79回目の原爆記念日。そのタイミングでとても良い本を読むことが出来ました。ただガザやウクライナ、あるいは世界の戦時下にある国の13、14歳の女生徒はこの本にあるような無慈悲な状況にあると思います。そのことに対する責任は私も含めて負えていないと強く思う79回目の記念日です。
最後に本にもありますが、女生徒が亡くなる間際に呟いたという髙村光太郎の詩の一節を紹介し、彼女たちのご冥福を祈ります。彼女が苦しい戦時下の先に生きたかった意志と希望を強く感じる詩でした。
或る夜のこころ
七月の夜の月は
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
かすかに漂ふシクラメンの香りは
言葉なき君が唇にすすり泣けり
森も、道も、草も、遠き街ちまたも
いはれなきかなしみにもだえて
ほのかに白き溜息を吐けり