見出し画像

「そば」の次は「うどん」と「モナリザ」

昨日は亀高そばの話でしたが、今日はうどん。
新聞の記者のコラムを読んであまり感心しませんでした。

「資さんうどん」が広島県にも登場というのは何かで読んだことがありますが、別にね~。
こういうので思い出すのはスタバの長野への誘致を当時の田中知事に直訴したという話。確かにスタバのコーヒーによっておいしくない喫茶店は駆逐されたというか、飲む側の評価が変わったということはありますけれど、だからといってスタバを誘致というのはどんなものか。
地方でも銀座を味わうみたいな話に類するものだと思います。

おいしいものはご当地に行って、その空気とか雰囲気と共に味わうべきもので、それを自分の町で食べて何の意味があるのか?と思うのです。それは私が酒を飲むこともありますが、全国の美味いお酒をいまはネットで頼むことができるようになりましたが、それでも一番おいしいのは当地の酒を、当地の水で育った野菜、またそれが流れ込む海でとれた魚と一緒に食すこと。そもそもその酒は当地の水と当地の米で生み出されたものだから、そう思っています。
まあルーブル美術館のモナリザを見ることは、単にモナリザだけでなくルーブル宮殿の他の作品の中で見るからであって、特別展とかで東京の国立美術館で見ても、一品料理の評価でしかないという違いかもしれません。とはいえ私もモナリザをルーブルで見たことがありますが、それほど感銘はうけなかったという目の濁った観光客に過ぎませんが。

結局のところ、最も安い所で作り、最も高いところで売るという流通、商売の原則に過ぎないのだろうと思います。
付加価値が価格でしか付きにくいアパレルはどんどん安く生産できる国に工場が転々としていきます。
毎年冬場にテレビでよくやる大間のマグロ漁と築地・豊洲の競りも、一番高く売れる所という一面だと思います。
東京はお金が一番集まる所、かつ今は流通が発達して全国から食材が集まる場所なので、銀座あたりで新潟の酒を、大間のマグロと、京野菜、さらに松坂牛で食べるというアホみたいな光景が生まれるのだと思います(行ったこと、食べたことないので定かではありませんが)。
新潟の酒を新潟の地元野菜で飲む、青森の酒をマグロと共に飲む、伏見の酒を京野菜を炊いたものと一緒に飲む、西条の酒を広島の酢牡蠣で飲む、さらに当地の空気と方言に浸りながら、それに勝るものはありません。
だって実家でお袋の料理を、親父の小言を聞き過ごしながら、地元の酒を飲むのが一番、慣れ親しんだ空気の中一番リラックスして飲み食いできるでしょう、それと同じですよ。
資さんうどん、結構だと思いますが、それは本当の価値の本の一部でしかないこと、また残念ながら全国展開をするということは、全部とは言いませんが、当地でなくどこかの工場で作られた食品を食べるようになるということ。「どこで食べる」ということを考えるきっかけを作るのが良い記者さんではないでしょうか。

ちなみに毎週金曜の朝ETVで王林さんと飯尾氏が「おむすびニッポン」というご当地おむすびを紹介する番組をやっていますが、いつも思うのは「美味しそう」「当地に食べに行きたい」ということです。
全国どこでもおむすびの食材時代なのだと思いますが、その場所に行って食べないと本当の味ではなくなるのだと思っています。

昨日は「『砂の器』と木次線」(村田英治)の紹介をしましたが、映画「砂の器」の脚本を山田洋二とともに担当した「橋本忍」氏が、なぜ亀高で撮影しなければならなかったのかということを紹介しているところがあります。

「『砂の器』って何回か考え直してる間に、僕にはやはり一番印象に迫ってくるのはお米のおいしさと餅とそれからそばなんですね。どうしてなんだろうと考えるんですけどね。お米っていうのは全国どこにでもあると。餅もそうだし、そばだってどこにもあるよっていう。でも、そこのところで、非常においしいところと、さほどでもない、いろんな差が出て来るんですね。ひょっとするとそういうものは、風土と人、そこの風土でなければできないし、そこの人とそこの風土がないと、なんかできない味かもしれない。そうすると『砂の器』というものは、そういう風土と人、あるいは人と風土というものは、作り方の根本にあるんじゃないか」

映画のつくり方の根本としては、他のどことも違う当地の風土と人が醸し出すものによって真実性、映画の空気感が高められるのだということなのでしょう。まさにその通りだと思います。
村田英治さんのコラムも、資さんうどんのことを書いた記者と同じ地元紙なんだから、もう少し考えて欲しいものです。

このタイトル写真は木次線の起点にある備後落合の「おでんうどん」です。

いいなと思ったら応援しよう!