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ピアノを尋ねて
台湾のクオ・チャンチェン氏の「ピアノを尋ねて」を読みました。
最後のあたりに面白いところがあったので、無断で抜き書き。
1999年、NHKの深夜のテレビ放送で30分ほどの音楽番組が放送され、無名の70歳近いある老婦人がピアニストとして紹介された。1932年、ドイツのベルリンで生まれたフジコ・ヘミングは、父親がロシア系スウェーデン人の画家で建築家、母親がドイツに留学していた日本人のピアニストであった。5歳のときに一家をあげて日本へと戻るが、父親が日本での生活に馴染めず、母子3人を残してひとりスウェーデンへ帰国してしまう。1961年、フジコはようやくドイツ留学の機会を得るが、異郷で罹った風邪のせいで聴力に支障をきたし、学業も半ばで諦めざるを得なくなってしまった。
海外で独り30年以上さすらい続けたフジョは、1995年にひっそりと日本へ帰国すると、ピアノの数師をしながら生計を立てていた。普段はほとんど注目されることのなかったこの番組が、放送後になぜか大きな反響を引き起こした。この風変わりなスウェーデン人と日本人の間に生まれた老婦人が、神秘的でどこか哀愁を感じさせたせいかもしれない。
数か月後、フジコは最初のアルバムを発売した。そこでわずか3か月の間にCD30万枚を売り上げるという奇跡的な記録を打ち立てたのだった。
あんたがフジコのテクニックをそこまで高く評価してないのは分かるよ。あれは古い学校で学んだ典型的な模範生のそれで、驚くことなんてないって言いたいんだろ?
でもそのことはとりあえず脇に置いておこうよ。わたしはただフジコを例に、あんたがいなくなった世界がどんなふうに変わったのかってことを伝えたいだけなんだ。
どれだけ優れたテクニックをもっていたとしても、結局物語のある人間には敵わないんだ。あんたたちの世代の音楽家からすれば信じられないだろうけど、余命幾ばくもない人間が逆境から立ち上がってみせた方が、光り輝く神童なんかよりもはるかに人目を惹くもんなんだ。
グールドが生きていたら、どんなふうに愚痴るかな?
彼は音楽を録音することこそが王道だって倍じてたから、コンサートを開くことを断ってきたわけだけど、彼は忘れてたんだ。あの時代にはまずコンサートで名をあげてからでないと、誰も自分のレコードになんて注目してくれないってことを。
ある意味、フジコはその主張を完全な形で実践したわけだ。コンサートで有名になるステップをすべて省略した上で伝説を作り上げた。もしもまだ21世紀に入ろうかという時代ではなくて、ネットで大注目されていなければ、あんな深夜番組が繰り返して放送されるなんてこともなかっただろうし、老婦人の奏でるフランツ・リストの楽章だって、群集の喧噪に埋もれてしまっていたはずだ。
いまじゃフジコのCDの売り上げは150万枚を超えている。奇しくも幸運の神さまに選ばれたフジュは、CDが大盛況を博してからの20年間は休みなく世界各地でコンサートを開いてきた。まるでそうすることで、自分が存在していた事実を証明するみたいに。
90近くなったいまでは、パリにベルリン、東京にニューヨークと、それぞれの土地に住処を購入して、相変わらずひとり冷ややかな表情を浮かべながら暮らしているらしい。たぶん、そうした流浪の生活にもとっくに慣れていたんじゃないかな。
結婚したことがなく、恋愛すらしたことがないと公言していたフジコは、人生の大半を寂しくさすらってきたけど、その生活がどんなものであったのかは、フジコ本人にしか分からない。
もしもまだあんたの肉体に血肉が貼り付いてるならさ、ジョセフ。あんたもこんなふうに年老いてみたいと思うかい?
それともこんなふうに強く生きることなんてとてもできないって、おとなしく負けを認めるのかな?
今年の4月にフジコ氏が亡くなられました。
ご逝去の後は、沢山関連の番組もありました。
確かに「ピアノを尋ねて」に書かれているように、私はフジコ氏が頭抜けて素晴らしいピアニストとは聞こえませんでしたが、とても物語性を持たせるのが上手だということはよく理解できます。
「ショパンの面影を探して~スペイン・マヨルカ島への旅~」というNHKの番組では、ショパンがジョルジュ・サンドと暮らした家、多分ピアノもそのままなのかな?でのフジコ氏の演奏なんかはあまりに俗すぎてどうなのか…と思いましたが、それが「物語のある人間」ということなのでしょう。
物語性といえば佐村河内守ですね。聴覚障害偽装、ゴーストライターの彼ですが、まさに音楽ではなく物語で持ち上げられた方でした。
今はグルメサイト同様に、自分の舌なんて信じていないので、他者の評価をそのままうのみにする世界です。舌だけではなく耳も同じなんでしょう。
訳者あとがきに(倉本知明)にとても的確な箇所があって、ああ、確かに金閣寺だと思いました。三島が割腹自殺してから25日で54年。命日の「憂国忌」に合わせて新たな発見もあるようです。
そのあとがきでの一部。
極めて繊細で、ともすれば千切れかねない感情の糸が複雑に絡まり合った世界の美しさと残酷さを描いた本作は、ソナタ形式で書かれた三島由紀夫の『金閣寺』を連想させる。実際、自らを縛る美を破壊したい衝動をこころに秘めながら、最終的にそれを実践することで主人公が生きていく決心をする結末にいたるまで、両作品にはいくつか共通する点がある。
たとえば、醜い容貌と吃音にコンプレックスを持つ『金閣寺』の主人公溝口は、生まれつき美しいものに拒絶されているといった意識を抱え、テクストではそれらを繰り返し破壊していくモチーフが描かれている。翻って、『ピアノを尋ねて』における「わたし」もまた、邸先生やピアニスト、エミリーや林サンといった自身に共鳴してくれる知識を求めては、それとのすれ違いや裏切りを繰り返してきた。両作品の大きな相違点は、溝口にとっての金閣寺が彼の孤独を生み出してきた元凶であったことに対して、「わたし」にとってのピアノとは、むしろ醜悪な現実において他者とのつながりを維持する原罪であると同時に、ある種の救いでもあったことにある。だからこそ、「わたし」は若かりし頃に醜い傷をつけてしまったピアニストのスタインウェイを追想しては、いつまでもその行方を尋ね続けているのだ。
金閣寺放火に至る美/絶対性への破壊衝動には、戦後の日本社会に何とか適応しようともがいてきた三島由紀夫自身の思想が隠されているが、「聴覚小説」によって他者と自己の基線の在りかを尋ね求めようとした郭強生とはいったいどのような作家で、なぜこうした作品を書くに至ったのであろうか。
本当だ。