
あたみへ2
女の子はお母さんの顔に投げつけられたハンカチをひろってお父さんに手渡し、そのまま膝の上にのぼった。おぼつかない足取りでキティちゃんのリュックが揺れていた。
「おとうさんうみーうみー。みてみて。うみだよ」
「うん、うみだね」
「うみーみてーみてー」
「みたよー」
「ほんとにー?ちゃんとみたー?」
「うん。でもみえないよ、さやちゃんの手でー」
「うみーうみーみてー」
「みてるよ」
遠くの海は晴れていて、海面が光を反射していた。車窓の水滴が同時に光るようだった。お父さんの腕にしっかりと抱きかかえられた女の子は、どこか得意げだった。
「おばあちゃん、おみやげかおう。おみやげー」
老婆がちいさくうなづくいた。「うん」という声が漏れ聞こえた。しかし吐息のようにかすかなその声は、ちいさな耳には届かなかった。二人の目線はたしかにあっていたが、女の子がほしいのは言葉だった。
「おばあちゃん、おみやげー。おみやげかおうねー」
「うん、うん」
「たくさんかおうねー。たくさんいっぱいね」
声はどんどん大きくなった。
「いいよ、おみやげ聞こえるよ、おみやげ聞こえるよ」
老婆の声は震えていた。次第に海は見えなくなった。
線路はすこしだけ内陸に入り、家々の屋根を見下ろした。湯河原に停車すると、道行く人がみえた。幾人かは傘を差し、幾人かは早足だった。
「パパーどこいくのー」
「あたみだよーホテルいくんだよー」
「パパーどこいくのー」
「あたみだよー」
「やったー、さやちゃんもあたみいくー」
「いこうね」
「パパいこうー。いっしょにいこうー」
熱海にぬける最後のトンネルを出ると雨は止んでいた。隣の青年も荷物をまとめはじめた。わたしは引き続き静岡にむかって東海道線を乗り継ぐ。15両あった列車はここから5両編成になる。
終点の旨の車内放送がはじまると青年は立ち上がり、列車がホームに入る前に階段に近い方のドアへむかった。わたしは腰が重くタイミングを逸した。あるいはひとつ空けて隣に座る老婆になにかを遠慮した。そしてドアが完全に開くまで席に座り続けた。何事もなかったのだ。これから熱海のホテルへ行き、数日してまた家に帰る。そういうことがおそらくこの先続いていく。わたしは時計を見て立ち上がり、重いカバンを背負った。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
ふいに届いたそれは、もう震えてはいない老婆の声だった。夫婦は列車を降りるための身支度に忙しく、その声に気づいていない。わたしはかえす言葉が見つからず、ただただうなづいて駆け足にホームを進んだ。
後ろから彼の声がまた聞こえた。