あたみへ1
車窓には水平線から伸びる虹が見えていた。半円の4分の1ほどの不完全な虹だった。東海道線熱海行きの列車は小田原で人を吐き出し、わたしの乗る車両には6人しか乗り合わせていなかった。つまりわたしとわたしの隣でどうにか努力して眠ろうとする若い青年、それにひとつの家族だけだった。少し歳のいった夫婦と3歳くらいの女の子、それにおそらく夫の母親である白髪のちいさな老婆の4人家族だ。
眼下に海を見下ろす崖っぷちを走る列車は、連続するトンネルの暗闇を何度も抜け、そのたびに青空はどす黒い雲の面積を増やした。虹もいつしか見えなくなり、真鶴を越えたあたりから、窓には水滴の流線が走った。雨の端に列車が触れたのだ。遠くの海はまだ輝いていた。
夫がまた妻に対して声を荒げた。
「雨降ってんのかよ!ふざけんなよ。おれ傘持ってねーぞ」
妻はおだやかな声でこたえる。
「わたしも持っていないよ。天気予報晴れだったんだもん。仕方ないでしょう。駅で買おうよ」
隣の青年はおそらくまだ眠れていない。
「ふざけんなよ!ちゃんと考えろよ!いつもそうじゃねーか。なんで考えねーんだよ」
その声は列車のなかとは思えぬほどに声量を増していた。
「もう帰れよー!帰れ!」
夫は勢いよく妻にハンカチを投げつけた。顔に当たったハンカチが床に落ちた。
「ごめんね、駅で買おう」
妻はおだやかなままにこたえた。ほんの少し笑みを湛えていた。
家族が乗り込んできたとき、妻に対する夫の言動はすでに異様な殺気に満ちていた。老婆はなにも言わず、女の子のことを終始気遣っていた。妻はどこまでも夫に寛容だった。夫がひとりだけ向かいの座席に座って、スマホをいじりだしてもそれを許容していた。
「お父さん疲れてるんだからね、ちょっとお休みさせてあげようね」
そう言って、女の子と老婆と3人でおもちゃのサンドイッチを作って遊んでいた。女の子はキティちゃんのリュックを背負ったまま、ベーコンと卵とレタスをせっせとパンにはさんだ。ベーコンという言葉がうまく言えず、老婆が何度も繰り返していた。
「これはベーコン。さやちゃん食べたことあるでしょ、ベーコン」
「うん、あるかもしんない」
「ベーコン」
「べーかん、べーかん」
「ベーコン、こんこん、きつねさんと同じ。こんこん、べーこん」
「こんこんね、べーこん!べーこん」
老婆の発音はすこしなまっていたが、それを繰り返して徐々に言葉を覚えはじめた女の子の発音は標準的なアクセントだった。
新しい言葉を教わった喜びを足取りで表現しながら、完成したサンドイッチをお父さんの方へと運ぶ。
「サンドイッチできたよーたべてー」
「お父さん疲れてるんだから休ませてあげなね」
お母さんは女の子をとめようとする。
「いいだろこれくらい。ありがとーはい、パクパクしたよ」
女の子はそれを聞いてうれしそうにお母さんの膝の上に戻った。
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