(M)の部屋
彼女 「たまに、いやたまにじゃないかもしれない。よく、とてもよく、私は色々なことが待てなくなります。たとえば小さい頃、母と約束していた門限は五時でしたが、時計の針が四時をさすと帰りたくて帰りたくてたまらなくなりました。かくれんぼをしている最中、私が鬼だというのに、我慢できずに帰ってしまったこともありました。学校に上がってからはひどいものでした。四時間目まである日は三時間目に、六時間目まである日は五時間目に、帰りたくて帰りたくてたまらなくなりました。いつもいつも、私は最後まで待てないのです。」
彼氏 「僕はその日、休日でした。彼女もまた休日でした。僕と彼女は、彼女の家にいて、僕は仕事帰りに彼女の家に行ったので、前の晩から彼女の家にいて、今はその翌日といった感じでした。朝起きたら雨が降っていて、肌寒いなあと思いながら目が覚めました。横を向くと彼女が寝ていました。僕に背を向けていました。あ、別に、背を向けて寝ているのはいつものことなんです。それから、いつものように、彼女を背中から抱きしめました。そしていつものように、アレがアレだったので、そのままアレしました。そのままだらだらと、朝ごはんには少し遅くて昼ごはんとは言いたくない時間まで他愛もなくふわふわとどこにも辿り着かないような時を過ごしていました。そういう時間は本当に幸せなものです。そして突然、それは本当に突然でした。何の前触れもありませんでした。」
彼女 (ぽつりと)別れたい。
彼氏 え?
彼女 ……。
彼氏 えっとー……聞き間違いかな、
彼女 別れたい。
彼氏 あ、やっぱり。……え!?
彼女 うん。
彼氏 いや、え、ごめん。え、冗談?
彼女 ……わりと本気。
彼氏 ていう冗談?
彼女 本気。
彼氏 わっ。えー、なんでそうなったの? 唐突すぎじゃない?
彼女 私は、唐突じゃないよ。
彼氏 何? てことは、ずっとそう思ってたってこと?
彼女 ……実は。
彼氏 なんで、このタイミングで?
彼女 なんか吐き出しとかなきゃって思っちゃって。
彼氏 ……ちょっと話しようか。
彼女 いや、なんていうか、ほんと私の身勝手だと思う本当に。
彼氏 うん。
彼女 理由、だよね……。理由……。
彼氏 うん……。
彼女 えっと、うん。あのー。
彼氏 うん。
彼女 ……別れたいです。
彼氏 いやいやいや。
彼女 別れたいって理由で別れちゃだめなの?
彼氏 そんなの納得いかないじゃん。
彼女 そんなに別れたくないの?
彼氏 別れたくないよ!
彼女 なんでそんなに止めるの!? なんなの!?
彼氏 俺がなんなのですって!
彼女 私と別れたくない理由が私にはわからない。
彼氏 俺と別れたい理由が俺には分からないよ。
彼女 うわ、今すごいこと言ってるって自分でわかってる?
彼氏 いや、本当に分からないんだって。……嫌いになったってこと?
彼女 ……ごめんなさい。
彼氏 「彼女はそれからごめんなさいしか言わなくなりました。僕は彼女の言葉に面食らっていました。別れるなんて、それまでそんな余震めいたものまったくなかったからです。僕たちはそこそこ、いやかなり、仲のよいカップルだったと思います。それが何故……」
彼女 (被せるように)「私が、」!
彼氏 おわっと!
彼女 「私がめちゃくちゃなことを言っているってわかっていました。でも、自分の感情をどうやって説明したらいいのかわからなくて、でも、口に出さないといけない気がして。私の中では「ごめんなさい」という言葉がただ渦を巻いていました。」
彼氏 ……あ。次、俺のモノローグか。えっと……「僕たちはお菓子が有名な食品会社で働いていて、彼女は僕の後輩でした。とある企画で一緒になって、当時彼女ぜんぜん仕事出来ないんですが、でも話をしてみると、彼女うちの商品のマシュマロがめちゃめちゃ好きらしくて、しかもそれなりに商品について真剣に考えてたんですよね。でも全然仕事はダメで怒られてて、面白い子だなって思ってました。それから気にかけるようになりました。」……あれ? これここであってる?
彼女 「別れを切り出したのは私ですが、私はこの人のことを好きでいました。」
彼氏 え!?
彼女 「彼は、私の身にあまる位の言葉と愛情をくれたと思います。彼はとても前向きな人でした。そして「頑張れ」が口癖のひとでした。私が落ち込んだときには「頑張れ」と言って真っ直ぐな良く通る声で励ましてくれました。私は頑張ることが苦手だったので、その「頑張れ」の声を聴くと不思議と頑張れる事が苦じゃないような気がしたのです。彼はとても仕事が出来たので、彼のように仕事が出来るようになるには、今の私より頑張らないといけないんだと思っていました。「頑張れ」という彼の目には、私への期待が宿っているようにみえて、それがとても嬉しかったし、裏切ってはいけないと思っていました。」
彼氏 僕は……「僕は、何故か唐突に我に返ってしまいました。何故僕は、彼女の横で出来事を語り、感情を吐露しているんだろう。それにいつも僕は自分のことを“俺”と呼んでいたはずで、しかしどうしてだかこの感じになると“僕”としていました、なんで僕は……あ、ほら、やっぱり“僕”だ。確かに“僕”の方がなんだかしっくりくる気がしています。」
彼女 「ある日、あの人は夢を見たといいました。」
彼氏 夢……?
彼女 「その夢には私がいて、彼の横には会社の上司の佐山さんがいたと言いました。いつもキュッと高い位置で髪を結わいて、高いヒールを履きこなす女性で上司でした。佐山さんはひどく悪口を言ってきたそうです。「どうしてあんな女と付き合っているのか?」と。私は会社のデスクにいて、書類の束を床にばら撒き、電話口で先方の会社名を噛み、シャツの胸元にお昼に食べたテリヤキの染みをつけて仕事をしていたそうです。「どうしてあんな女と付き合っているのか?」 なんであんな夢を見たんだろうなあと、彼は笑っていましたが、私はそれを聞いてどこか気が遠くなるような思いがしました。ポニーテールで横っ面をはたかれたようでした。それが彼の夢の中で起きたこと、それだけで充分でした。」
彼氏 「何故彼女は、僕の横でこんなに長々と喋っているのだろう。普段は僕の方が喋る一方で、こんなに喋る彼女を見たのは初めてでした。彼女の言葉が淡々と流れ込んでいる世界で、僕はどうすればいいのか分からなかったし、何より彼女の言っている事は初耳すぎることばかりでした。」
彼女 「私は最近、ずっと胃に不快感を覚えていました。物を食べると、なんか胃が重いなあ、と感じるのです。食べ物が流れ込んできた瞬間に途端に胃が活動を止めてしまうような、そんな感覚でした。食べないと体に悪いと思って、無理やり食べるようにしていましたが、だんだん食べることが苦痛になっていきました。最初は揚げ物が食べられなくなりました。肉が食べられなくなりました。お米が食べられなくなりました。パンが食べられなくなりました。」
彼氏 え、何の話?
彼女 「病院へ行ったところ、この胃の原因がストレス性のものだということがわかりました。ストレスの原因は何か? 考えてみたとき、私はぞっとしました。この胃の重みが彼と付き合ってからということに気がついてしまったのです。彼は私の中でストレスらしかったのです。」
彼氏 待って、何それ?
彼女 「ストレスの根源であるかもしれない彼と一緒にいたら、この未来、私はどうなってしまうんだろう。それを考えると怖くて」
彼氏 そんなの言ってくんなきゃ分かんないよ!
彼女 は?
彼氏 そんなことになってたの? ねえ。
彼女 え、ちょっと待って!
彼氏 ねえ。
彼女 聴いてた?
彼氏 聴いてたよ。
彼女 やだやだやだ信じられない。恥ずかしい死にたい。
彼氏 幸せだねって、言ってたじゃん。 なんで一緒にいて、ストレスなんだよ。会社も辞めて、もう嫌なこともないだろ?
彼女 違うの……。
彼氏 なにが? 言ってみな?
彼女 言えない……。
彼氏 いいよ、聞いてほしいんだろ。
彼女 ほしくないよ!
彼氏 聞いてほしいからやるんだろ。言葉として具現化しないと分からないんだよ、人の気持ちなんて。そのためのモノローグだろ。
彼女 でも言わなくても、知らなくてもいいことだってあるじゃん……。
彼氏 ちょっと、もう少し続けてよ。聞かせてよ。
彼女 いやだよ。
彼氏 なんでよ、聞きたいよ。
彼女 やめとこうよ……。
彼氏 ほら、大丈夫だから。ね。
彼女 でも。
彼氏 頑張れ。
彼女 (俯き)……。
彼氏 (彼女を促すように)「僕は、昔の彼女の言葉を思い出していました。「私ね、ここの会社のマシュマロが好き。小さい頃からいやな事があると、ここのマシュマロ食べてたの。佐山さんに怒られたりして凹んでる時も、このマシュマロを口に入れると、やわっこくて安心した。だから、このマシュマロと仕事がしたかったのかもしれない。」そう言う彼女が僕は好きでした。」
彼女 ……。「彼の前向きで明るいところが好きでした。でもそれとは裏腹に、その明るさに後ずさってしまうところがあります。そして同時に「この人に私は一生理解されないんだな」と、突きつけられるような思いがしました。そんな時私はどうしようもなく孤独を実感するのです。彼に応えたくて、頑張って頑張って頑張って、頑張った結果が“無理”でした。もしかしたらもうひと頑張りすれば、また違う世界が見えたのかもしれない。でもいつも私はどうしても、そのもうひと頑張りが出来ない。結果を待てない。そのもうひと頑張りの向こう側が、私は見通しがつかないのです。」
彼氏 ……うん。
彼女 今が、これが、幸せの形なんだと思う。分かってる。でも……マシュマロは美味しくて安心するから、ついぽんぽん口に入れて食べ過ぎちゃうんだけど、マシュマロでも食べ過ぎると胸焼けする。あなたと一緒にいればいるほど、毒を飲んでいるような気分になった。もっと欲しいもっと欲しいと思うままに飲み込んで、気付いたら死んでいるかもしれない。と思ってしまった。全身に毒が回る前に、自分の意思で動けなくなる前に、回避しなきゃって思ったの。
彼氏 うん。
彼女 私、一人のほうがうまくやれていた気がするの。
彼氏 ……そんなこと言われちゃ。
彼女 というか、思い出したの。
彼氏 え?
彼女 マシュマロ。あなたといて、マシュマロのことすっかり忘れてた。
彼氏 マシュマロ……?
彼女 それがなんだか悲しかった。悲しいと思っちゃった。だから本当にごめんなさい。私、マシュマロが好きだった。
彼氏 ちょっと、よく分からないけど……。
彼女 ね、分からないでしょ。ごめんね。
彼氏 えっと、俺ってマシュマロに負けたの?
彼女 そういうわけではないけど、そうなのかもしれない。
彼氏 ……マシュマロに飽きたら、また戻ってきて。
彼女 うん。
彼氏 俺は、やっぱり、頑張れって言い続けるから。どんなにお前が頑張れなくなっても頑張れって言い続けるからな。お願いだから、頑張って生きるんだよ。
彼女 ……ごめんね。
彼女、去っていく。
彼氏 「ところで、僕は彼女の部屋にいたはずだ。一体ここはどこなのだろう。もう、もはや何もわからない。彼女のモノローグが流れてきて消えていくこの世界がなんなのか、僕には何も分からない。わからないけど、彼女の声が聴こえてきたら、またそっと拾いに行こうと思う。」
16・09