#381 絵本『翻訳できない世界のことば』 繊細な心情をあらわす言葉たち №2
読書日記&エッセイ 1,500字
通番348で書いたものが私にしては思いもかけず過分なる数のスキをいただいたので、柳の下の2匹目のどじょうをつかまえて柳川鍋にでもしようかと企んでみた。
絵本の言葉を自分の原体験に重ね合わせてみることにする。
commuovere
イタリア語:感動して胸が熱くなる、感極まる
馴染みのあるローマ字だから発音はコンムオーベレ
心情をあらわす言葉は翻訳しきれない繊細さがある。人によって感じ方に差はあれど、それでも差を埋めて思いを共有しようと言葉を幾重にも編んでゆくのが人間。チンパンジーの私でもそこはわかる。
私が緘黙の世界に潜伏していた小学生の頃の話になる。
国語の教科書で宮沢賢治の短編『虔十公園林』に出会った。小学生向けなので表記は「けんじゅう公園林」だったと記憶している。
知名度の高い賢治作品は数あれど、小学生当時の私には『虔十公園林』が最も心に強く刻まれている。感じることはたくさんあったけれど、それを言語化できず涙だけがこみ上げてきた。
そう、commuovere だ。
国語の授業では、単元学習の最初に作品を全文音読で読み通すという決まりだった。先生から何名かが指名されてみんなの前で朗読するのだが、私にとって人前で声を出すことは恐怖でしかなかった。
それをわかっていた先生は、私だけ10行程度読めばよいと救いの手を差し伸べてくれていた。でも、私は消え入るような小声でしか読めなかったので、いつもクスクス笑い声が聞こえた。
だから、自分が音読で指名されるであろう日は、休んだり遅刻したり保健室に逃げ込んだりしていた。そんな子でありながら、私は売られた喧嘩は買うし、凶暴な上級生相手に石を投げつけて怪我をさせるなど、困ったチャンすぎる子だった。
(担任との思い出は固定記事に動画掲載)
主人公のけんじゅうは、知的障害の子どもだ。周囲から馬鹿にされ、からかわれたりしていた。
何も欲しがらない子だったけど「杉の木がほしい」と母親にねだった。
けんじゅんの父親は言った。
「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何ひとつだて頼んだごとぁ無がったもの。買ってやれ。」
私はもうそれだけで涙が出そうになった。その当時の自分の生きづらさと、その心情を理解してくれていた私の父と母の姿を投影したのだった。
けんじゅうが野原に植えた杉は後年すばらしい杉林となり、町のみんなの心の拠り所となった。木を植えてから歳月はかかったけれど、けんじゅうが町の人々に幸せを与えた。
commuovere だ。
私は歳を重ねてずる賢くなり、すっかり汚れてしまったので、オトナの言葉を駆使して表現している。それでも表現しきれないことだらけだ。
時折読み返す賢治の詩集・童話からいろいろなことを発見し学び直している。賢治の思想の底流にある「幸福」は一貫して全作品に息づいている。
それが“知的障害”であったり、“デクノボー”であったり、そして「最も愚鈍なるもの最も賢きものなり」と表現されている。賢治が紡ぎ出した数々の言葉を何度も何度も唱えながら、賢さとは何か、そしてどこに幸せがあるのか考えてみるのである。
ほんとうの「賢さ」とはなんだろう。
名は体を表す。“賢”治が生涯にわたって追求したテーマだったのかもしれない。
文学には人々の心を揺さぶる力が宿っている。
私は教え子たちの人生の物語の中で「チンパンジーみたいな先生がいたなあ」と語られるのだろうか。
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
【青空文庫】無料で読める名作