見出し画像

#103 読書日記11 人を助ける者は自分も救われる

自助論

ということで、私を助けてください。
そうすれば、あなたも救われます。

そして、私もあなたの手助けができれば・・・・
「情けは人の為ならず」というじゃないですか。

自分の助け方は心得ている。
常に「ご機嫌だぜ!Well-being!!」と叫んでいればいい。
思いを口にすれば叶う。
念ずれば花開く。

・・・・・などと、そう簡単にいかないのが人生。
私の勝率は2割9分9厘。

サミュエル・スマイルズの『自助論』を読んで、
「なりたい自分」
「ありたい自分」
を思い描きつつ、教育現場でぶつかる数々の困難についてあれこれ思いを巡らせている。

教職課程の授業教材のネタを探していたら、10年ほど前に中学校教員向けにおこなった自分の講演会の記録がフォルダの中にあるのを見つけた。

主催者が記録として送ってくれたもので、削除する前にこういうものも授業やnoteに使えるかしれないと思った。

いかにして手を抜くか・・・・いや、合理性の追求だ。

多様な学習歴と背景を抱える生徒を受け入れている高校に勤務している時に講演した内容だ。

よく読んでみると支離滅裂な部分もある。
文字に起こしたらひどいな💦

現在に通用するかどうか分からないけれど、差し障りのある部分はカットし要約してみた。

教師の苦悩と脳の誤作動

<講演>
30年ほど高校教師をしていますが
「我は何者ぞ」
「自分はどこから来て、どこへ行こうとしているんだ?

と思うことがしばしばあります。

そう考えると「自分探し」は思春期だけじゃないんですね(笑)

歳を重ねるからこそ見えてくる問題があり、新たな悩みを課題として設定して取り組んでいかなければならないのだと思います。

私たち教師は、生徒の「お悩み相談」をしていて・・・・
カウンセリングでは、よく “ クライアント ” という呼び方をしていますが、やっぱり“相談者“という言葉が妥当ですかね。

相談者には二人として同じ人はいません。

実際にはケースごとに多様な対応をしています。

人格特性の見定めや対応ケースを検討する際、心理学ではいくつかの分類が示されていますが、
「こういう特性や思考の癖がある場合、こう対象するのがベターではないか」
という事例集があります。

時としてそういう事例が邪魔をする場合もあります。

結構あると言ったほうがいいかもしれません。

そう感じたことありません?
そう、ありますよね・・・・
現実の対応は難しいです。

大体において相談される側のティーチャーやカウンセラー、コーチャーなどは、過去の経験に基づいて構築した自分の言葉や振る舞いによって相談者に接しています。

でも実際のところ答えはひとつじゃないし、相談者にマッチする言葉も違います。

上手くいく場合もあれば、上手くいかない場合もあります。

生徒の感情を感じ取り、それを受容し、ときどき相手の感情を疑似体験しながら処理していきます。

でも、共感・同調しすぎて、こっちがメンタルをやられてしまうこともあります。
きついですよね。

それで飯を食っているプロのカウンセラーが苦悩したり、自傷、過食しているという話も見聞きします。

プロの方々もプロフェッショナルとしてカウンセリングするために、時として自分がクライアントになってカウンセリングやコーチングを受けて悩みや苦しみを解消したりしながら精進しているわけです。

ほんとに頭が下がります。

デリケートな問題とどう向き合うか

実際に人の心を扱うのは非常にデリケートで、相談者がやっと口を開き話し始めたのに、こちらの言葉のかけ方ひとつで心を閉ざしてしまうことだってあります。

思春期特有の悩みや不定愁訴は、聞き手の性別が影響する場合もあります。

防衛心が強くなると感情処理が上手くいかなくなります。

「人格適応論」を学んでも、さまざまな困難にぶつかります。

それでも相談者に寄り添うためにどうしたらよいのか、そういう姿勢を探究するのも私たち教師の仕事のひとつだと思っています。

ティーチャーはティーチングしたがりなので要注意です。

揺れ動く10代への対応で先生方の仕事は過酷さが増すばかりです。

子どもの心を呪う言葉が、家庭内、学校内に、社会に溢れています。

多くの子たちがストレスフルな中で生きています。

教師は思うのです。

「教師として何とかしなければ!」

「この子を救えるのは私だ」

そうした正義心が災いして、教師自身の心が蝕まれてしまっては元も子もありません。

そういう時こそ
誰か助けて!
と言えるのが生きる力なのではないでしょうか。

子ども達の生きる力だけじゃなくて、教師の生きる力も必要です。

いいえ、世の中の大人みんなに必要なことです。

心の叫びを表に出したときには、イコール「休職する」「ひきこもる」では悲しすぎます。
そうなったら当然休んで回復すべきです。

そうならないよう予防的な取り組みも必要です。

先生方の心身の健康も考えるのが教育委員会や私たち管理職の仕事だと受けとめています。

何のために文科省や教育委員会が予算を付けてSC(スクール・カウンセラー)やSSW(スクール・ソーシャルワーカー)を配置しているのか、今一度その意味を考えてみる必要があります。

臨床心理の世界も様々な資格があって、よくわからないカウンセリングもあります。

※この当時はまだ国家資格としての「認定心理士」は存在していなかった。

教師にもカウンセリングマインドが必要だと言われて久しいのですが、生半可な知識や技術だけで対応できないほど、子ども達を取り巻く環境は複雑化しています。

時には「アウトリーチ、外の手」に委ねる勇気も必要じゃないでしょうか。

その境界線が曖昧で、だから私たち教師は冷静さを欠いて、全部自分ひとりで解決しようとして、いろんなことに振り回されて疲弊していくんだと思います。

「こどもの貧困」の問題ひとつとっても、現政権は「国家予算には限りがあるから民間の力とおカネも導入して・・・・」などと言っています。
首相の言葉です。

「教育は国家百年の大計」と言います。

国家予算が膨らみ、どこにどれだけ使うのかと見てみると、
「おカネのかけどころが違わないか?」と思うわけです。

あっ、これって私だけですか?
そう、違いますよね。
共感していただき恐縮です(笑)

もちろん、民間の力はありがたいですよ。

でも、行政にもう少し頑張ってもらいたいわけです。

今日は教育委員会の方もいらっしゃっていますが、どうかお願いしますね(笑)

この後、スクール・カウンセラーのスーパーバイザーをされている○○先生のお話も拝聴できます。
私の話なんて鼻クソみたいなもんですよ。

私自身、散々お世話になり、今もなお尊敬してやまない○○先生のお話です。

皆様と共に思いを共有し、今日はたくさん勉強して学校に持ち帰りたいと思います。