#123 面白半分日記20 読書百遍義自ずから見る
学生に聞かれた。
「先生はなぜ読書を薦めるんですか?」
「真理を探究するためさ、フフフッ」とクールに答える・・・・
そんなわけがない。
歳を重ねるごとに答え方は変節している。
根本的な主義主張が変わったわけではない。
学生は比較的自由な時間が多いので、今のうちに思考を要する評論や小説を読みなさいと言っている。
以前noteに書いたアンガス・フレッチャーの『文學の実効』によって、自分自身の読書への向き合い方が重層化したような気がする。
書籍は理路整然と端正に整ったものばかりとは限らない。
情緒的な個人の思いであったり、時には殺意に満ちた攻撃であったり、人間の心の内にある闇を切り取って「ほら、お前の中にもこんな醜い悪魔が潜在しているんだぞ」と突きつけられることもある。
混沌としているな・・・・
私の心にも鬼や悪魔が潜んでいる。
しかし、このnoteを
『 DEATH NOTE 』
にするほど悪魔ではない。
■よい本に出会うために
良書には教養の獲得や強化、信頼感、安堵感を得るといった効用があることは確かだ。
良い本に出会うためには、読み続けるしかないと思っている。
宝くじを買うよりはるかに当選率は高い。
読書を重ねれば嗅覚が鋭くなり、個別最適な良書と出会う確率は高くなる。
良い本を引き寄せる力が身に付くと言うべきか。
今は出版社や書籍販売サイトには、目利きによるレビューが掲載されており、それを参考にして購入を検討することが可能だ。
しかし、他人の書評に振り回されたくはない。
自分の目利きを高めることのほうが大切だと思っている。
読書百遍義自ずから見る
読書百遍意自ずから通ず
中国の三国時代、魏の儒学者である董遇が弟子達へ向けて放った言葉だ。
私自身、行間を読み解いたり裏読みする能力がそんなに高くないので、何度も読み返すことがある。
一度はあきらめて数ヶ月から数年間寝かせ、あるとき、はたと気付いて理解が深まることがある。
私たちは、本との関係も人との関係も、何とか理解して魅力を見出そうとする。
本や人とのお付き合いはそういうものなのだろう。
もちろん、愛想を尽かすこともある。
人生はそうしたことの連続とレイヤー(重ね合わせ)で成り立っている。
ことばの力(語り口、言い回し)、内容・物語性、プロフィール、装幀・外装(人間でいうところの見た目、服装や装飾)を意識的・無意識的に情報として取り込みながら評価したり判断したりしている。
付き合えば付き合うほど相手の魅力が見えてくるのは楽しい。
トゲトゲしい日常の人間関係を緩和してくれたり課題解決のヒントを与えてもらうことがある。
心がほっこりすることもある。
人生、捨てたもんじゃないな、もう一度、出会いなおしをしてみようかと思うことだってある。
本と人との決定的な違いがある。
本は、「コイツとは考えが合わない」「受け入れられない」「嫌だ!」と思ったら、ためらわずに本を閉じたり処分する(捨てる、売却、譲渡する)ことができる。
人間関係でもそういうことはあるが、ドロドロしていて縁切りは簡単ではない。
特にビジネスの場面では、嫌だけど共に手を携えて仕事をしなければならないことはいくらでもある。
対価をもらっているからだ。
本の対価は買い手が支払い、それ以降、どう処理しようが買った者にすべての決定権がある。
本と人は別物というより、相互補完の関係にあるんだろうなと思うのだ。
どちらも人の思いが作用している。
そんな話をしたのだが、学生はわかったようなわからないような不思議な感覚に陥ったようだ。
そりゃそうだ。
話している私自身、何となく上手く言語化できていないと思う。