
#358 こころの置き場所 アウトリーチに感謝
1,600字
■ サードプレイス(第三の居場所)
子どもの居場所づくりの形態はさまざま。
私が住む街には約120の「子ども食堂」がある。単なる “ 腹ぺこ解消 ” が目的ではない。
相対的貧困に位置づけられる家庭の子は、普通家庭の子が経験しているようなことが圧倒的に不足している。
友達との遊び、交わり、勉強、習い事、スポーツ、近所のオジサン、オバサンとの対話なども含めて、子ども支援の必要度はますます高まっている。
10年前、貧困家庭の子の支援活動を始めた。
当初、可視化されていな現実を知り、想像以上に深刻な状況であることにショックを受けた。
学校・地域と子ども達とがつながっている糸は細くて今にも切れそうだった。いったん糸をつかんだら「その手を離すな!」と、どこかから声が聞こえてくる感覚だった。
ひっかけるフックとかアウトリーチという呼び方をすることもある。
いったんつかんだ糸は手元にたぐり寄せて、こよりにしたり縦横に編んで強固なつくりにしなければならない。
1人の支援者の背景には何本もの糸(支援者同士のつながり)が潜在しているので、間接的な支援をいただくために頭を下げて回る。
学校内にも居場所カフェをつくって貧困支援や発達支援をおこない、行政との連携で問題対策検討委員に選ばれて支援のあり方を提起し模索し、個人的にも「まちなか居場所づくり」に駆けずり回った。
次第に小学生や中学生にも目がいき、私ができることは絵本を読み聞かせたり、一緒にゲームをしたり受験勉強を教えるくらいだったが、その居場所から私の高校へ入学し「支援者」になった生徒もいた。
食材調達では、近隣市町村の農家にお願いし、流通からはじかれた不揃いのデコボコ野菜を無償で譲り受けることを実現した。
ボランティアスタッフの中にはキッチンカーを走らせて、それを見た人が協力者になり、どんどん支援の輪が広がっていった。
私は、できる範囲のお手伝いをしているだけだが、中には、えっ!と驚くような大手の会社を辞めてキャリアダウンしてまで尽力する方もいて頭が下がる思いだった。
私は先輩が立ち上げたNPO法人にも加入し今も活動している。
■ 進化する居場所
そこに行けば家庭の雰囲気が味わえるようにしようと古民家を借りて、爺ちゃん、婆ちゃん、父さん、母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃんなど多世代が支援者としてナナメの関係づくりに尽力し、子ども達と楽しそうにワイワイガヤガヤやっている。
文科省の後押しもあり、ナナメの関係づくりのインパクトは大きかった。
子どもによっては、支援者と性格的に合う合わないがあったり、発達に課題がある場合もあるので、いろんなタイプの支援者や専門家がいてくれるのはありがたい。
個別の支援計画をつくって情報共有し、どこの誰につなげるかの対応も迅速になる。
歳月が流れ、その居場所で育った子達が社会人として支援に回りはじめている。そんな彼らの最初の頃の姿を思い出すと涙が出そうになる。
みんな立派に社会貢献しているのだ。
まだコロナ禍の残像がある。負の連鎖はそう簡単に断ち切ることはできないが、支援者も世代交代が進み、若者ならではのアイディアを創出してくれている。
年寄りの私は、若者からアイディアが出てきたときは「うん、それいいね!」と言って行政に交渉し、あとは若い世代の背中を押すだけだ。
私のような年寄りをおだてて上手く使ってくれればいいのだ。あとは爺ちゃんとして子ども達と遊んだり学んだりするのみだ。
先日、若い世代の支援者に「大したことできなくてごめんな」と言ったら
「いいえ、けーわんさんは陰の黒幕ですから(笑)」と。
「おい!人聞きの悪いこと言うんじゃないよ!
じゃあ君たちは実行犯ということね(笑)」
一同爆笑。
場が和んでよかった。
うまく引き継がれているんだなぁと嬉しい気持ちになった。
居場所を後にして外へ出たら、雪がしんしんと降り積もっていた。
