#375 追憶の断片04 珈琲との出会い
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中2のときの話だ。
雪解け後の4月、近所の空き地にコンクリート打ちっ放しの怪しげな建物ができた。それは、すぐに近所の奥さん達の噂になった。
ちょっと、ちょっと奥さん!、あの妙な建物って画廊喫茶なんですって!
(今風に言えば、カフェギャラリー?)
まあ!なんてことでしょう!こんな田舎にそんなモダンなものができたのね。今度、奥様会で行ってみませんこと?
(いや、そんなお上品な言い方じゃないと思う)
やがて夏を迎えた。3か月立っても客が入ってないという噂が広まった。
カフェのマスター(28歳くらい?)が曲者だというのだ。近くに住む金持ちの子息だということは判明していた。東京の美大を卒業した後、バイトしながら絵を描く生活をしていたという。心配した親が「田舎へ帰ってきて画廊喫茶店でもやってはどうか」となったらしい。
容姿が話題になっていた。時代的には、60年代のアメリカンヒッピーのカルチャーが日本独自に変化を遂げた頃だ。まあ、アーティストっぽいと言えばいいのか。
“アンドレ・カンドレ”と名乗っていたシンガーソングライターの井上陽水を彷彿させる感じ。私の世代だとそんなイメージだ。
マスターの姿をちょくちょく見かけた奥様たちは躊躇した。
私がイメージしていた画廊喫茶じゃないのよ!
絵でも眺めながら美味しいコーヒー飲んで楽しいお話をして・・・なんて思ったけど、あれじゃぁねぇ・・・(マスターはたまに外に立ってムスッとした表情で日向ぼっこしていた)。
ウチの娘があそこの前を通るたびに心配で、登下校の時は遠回りしなさいって言ったのよ。いえ、別に変質者とかそういう意味じゃないのよ。でも、やっぱり心配じゃない?
そんな奥様たちの話を、母が鼻の穴を膨らませながら懸命に話してくれるものだから、僕と父はゲラゲラ笑いながら聞いていた。
隣に住む同級生のアツシもそんな話を母親から聞かされていた。
アツシと僕は「画廊喫茶、覗きに行ってみようか」となった。
その頃の僕は“無口が服を着て歩いている少年”だったので、ただアツシのお供として画廊を尋ねた。
驚いたことに、僕ら2人が初めての客で、マスターのニコニコ顔で大歓迎された。
アツシが言った。
「お金がないので絵だけでも見せてもらえたら・・・・」
「いいよ、コーヒーはご馳走するから」
僕らは本格的なコーヒーなんて飲んだことがないお子様である。知っているのはコーヒー牛乳かインスタントコーヒーくらいだ。人生で初めて飲んだコーヒーの豆はマンデリンだった。
うーん、これがコーヒーなんだ!
そのときは美味いとは思わなかった。でも、すごくオトナになった気分。
僕らは何度そのカフェに足を運んだかわからないくらい入り浸った(と言っても3か月くらい)。
壁にはいくつかの抽象画が飾られていた。マスターは絵の解説を聞いてくれる人がいることが嬉しかったのだろう。僕らはコーヒーの対価を払う代わりにマスターの話を辛抱強く聞いた。
絵のタイトルは「宇宙の爆発」とか「無限」みたいな感じだ。テーマと視覚で捉えた印象とがなかなか一致せず戸惑った。
「わかんない」と言うのも失礼だと思い、「へえ」とか「すごいですね」「カッコイイな~」と言うアツシはお調子者だなと思った。
僕はマスターの話に頷くわけでも感嘆するわけでもなく、ひたすら沈黙していたので、少年らしくない奴だと思われたに違いない。
やがて冬を迎え、コンクリートの建物は深い雪の中に埋もれた。
春を迎えてもカフェが再開されることはなかった。そしてマスターの顔を見ることもなかった。
母さん、あのカフェ、どうしたんでしょうねえ?
ええ、冬、なかなか除雪車が来ないあの場所で
雪に埋もれたあのカフェですよ
母さん、あれは好きなカフェでしたよ
僕はあのときずいぶんくやしかった
だけど、いきなり雪が積もったもんだから
あれから50年、僕は毎日コーヒーなしでは生きていけない人間として生きてきた。
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、珈琲を愛し、珈琲を敬い、自分を慰め、自分を助け、その命ある限り、真心を尽くす ことを誓ったのである。
それにしても、コーヒー豆の歴史的価格高騰は痛い。