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#363 LGBTQ+を読みとく

読書日記51  1,600字

『LGBTを読みとく』森山至貴 

 一気に何本かアップして、年末はnoteから離れて、大掃除と心の片付けをしようと思う。

 今回はLGBTQ+について。

 著者が指摘しているとおり、セクシュアルマイノリティについて知ったつもりになって「良心」をもって接するだけではダメだという話に納得した。

 無知や浅学せんがくが当事者を傷つけることもある。
 私自身、16年ほど前から当事者(教え子、同僚)と向き合いながら失敗と修復を繰り返してきた。わかっているようでわかっていない。わかったフリをしていただけかもしれないと反省することが多かった。
 だからこそ、今も講演や支援活動ができているのだと思う。

 岸田政権はLGBTQ+をめぐる同性婚等の問題に関してドタバタ劇と曖昧な対応を繰り返してきた。
 関係者は怒り心頭である。あらゆる問題を丸投げされた石破政権がどこまで踏み込めるのか。


 長らく日本社会にはびこってきた性差別の本質が少しは改善されるのではないかという見方もある。
 少しは理解が深まっているのかもしれない。しかし、実際に当事者のそばにいると、まだ入り口の前で立ち尽くしているような感覚だ。

 当事者が吹っ切れているのかどうかは個々によって異なるが、メディアで活躍する彼ら彼女らも少数派だ。
 苦しんでいる人は潜在的に総人口の10%と推計されているから約1,000万人はいることになる。

 問題の本質は、「同性婚を許容する」とか「ゲイやレズビアンを認める」という単純なことではない。
 もっと根深いところに視座をおくべきなのだろう。人類の文明論とか存在論を踏まえつつ、理解し得ない新しい価値観をどう受容するか、その深さがどれほどのものか容易には測れない。

 私が「男性」で、あなたが「女性」もしくは「T」(トランスジェンダー)だとして、両者で話し合えばわかり合えるのか。
 何かしらの居場所や環境を整えれば安心して生きられるのか、そんな簡単な問いでは意味がない。
 もともとの問題がヤワでないだけに時間がかかって当然なのだろう。

 学校現場では「LGBTQ+」が性自認や性的指向を示すものであることがわかればそれでOK、あとはそれぞれで考えてね、という教師もいる。

 トランスジェンダーは文字どおり、ジェンダー(性)をトランス(越境)するという定義だから「性別をとび越えた人」と解釈したいところだが、実際にはそういう理解では足りない。

 何が足りないのかと言っても、いろいろ足りないことがあり過ぎて、対応する人によっては「理解不能!」と言ってサジを投げてしまうことが往々にしてある。
 依然として「あちら側の人」として扱い、腫れ物に触るような状況はそこらじゅうにある。

 本書を読むとわかるのだが、「セクシャルマイノリティ」とは「性的少数派」という直訳では捉えきれない。
 「当たり前」や「普通」(ノーマル)の「性」を生きなさい、という人類がつくりあげてきた「常識」に基づく社会的圧力と何気ないひとことで「傷つく可能性のある人」のことを指している言葉である。

 私が「こちら側の人」で、マイノリティは「あちら側の人」という意識を持っていると、おそらく永遠にわかり合えない状態が続くに違いない。

 金子みすゞの詩集『わたしと小鳥とすずと』にある「みんなちがって、みんないい」という言葉が、理想と現実の狭間に突き刺さり、私たちはそこに佇んでいる。

 ダイバーシティ・多様性が叫ばれているものの、社会には太くて長い根が生えている。受け入れがたい場面の連続だ。

「ワンチーム、足並み揃え一丸となってみんなで取り組んでいこう!」
みんな違って、みんないいとは言えない。
「お前も俺たちに合わせろよ!」と言いがちだ。
悲しいかな、「みんなと違う人」は自ら身を引くこともある。

「わたしと小鳥とすず」
 私が両手をひろげても
 お空はちっとも飛べないが
 飛べる小鳥は私のように
 地面(じべた)を速くは走れない
 私がからだをゆすっても
 きれいな音は出ないけど
 あの鳴る鈴は私のように
 たくさんな唄は知らないよ
 鈴と、小鳥と、それから私
 みんなちがって、みんないい

金子みすゞ 『わたしと小鳥とすずと』