#130 面白半分日記23 問わず語り
■ 問わず語りをする意味
高校教師だったときも、大学教師になってからも、私は「問わず語り」が多いほうかもしれない。
生徒や学生の思いなんか無視して「ねえ、聞いて聞いて」と、やっているわけではない。
興味がなくても、関係がなさそうな話でも、物事はどこかでつながっているものだ。
科目の内容と社会の動きが紐づいていることに気付いてほしいから、そこを可視化するために問わず語りをしているようなものだ。
それも教師の役割だと考えている。
学生から質問を受け付けないわけではない。
それは授業の後半戦にとっておく。
授業の初っぱなは、私から仕掛ける。
例えば「もしトラ」問題。
もしドナルド・トランプが再び大統領になったら日本と中朝露関係はどうなる?
もしドラえもんがドラッカーの『マネジメント』を読んだら、「もしドラドラ」になるのか?
物事の深淵を見るためには、思考を連鎖的にふくらませる必要がある。
もしかしたら、既成の知識や記憶だけを頼りにスケッチしていたら、真実から遠ざかるかもしれない。
ジョン・レノンのように「イマジン!想像してごらん♩」と歌えばいい。
それでも戦争や紛争は依然としてなくならないけれど、僕らは平和を祈り続けなければならない。
■ なんのために学ぶのか
これまで「知育偏重」「認知能力偏重」と言われながらも、現場の教師の多くは、子どもたちのために創意工夫を重ねてきたのだ。
知識豊富が悪いわけではない。
ただし、蓄積した知識を活用するには、頭を使って「なぜ?」「どうして?」と自ら新たな問いを立て脳内で汗を流す必要がある。
政治学入門、経営論、マネジメント論、マーケティング論、データ分析、教育心理、教育原理、教育法規、生徒指導論、進路指導論・・・・・
私の担当は教育関連科目なはずなのに、毎年、未経験科目で試練を与えられ、未知を探究している。
やっと後期の授業も終わり、少しだけ肩の荷が下りた。
国家公務員志望の学生が研究室にやってきた。
一緒に二次方程式の解法に取り組んだ。
経済学などでは微分することはあるが、ちょっと遠ざかっている分野は冷や汗が出る。
「方程式の解法のコツがわかればいいわけだよね。
式を変形するポイントは、両辺に同じものをかけたり、ひいたり、わったりするだけ。
えこひいきせず両辺に同じことをしてやるってこと。
平等の精神が大事」
「ああ、そういうことですね。高校時代の数学を思い出してきました」
「大谷のホームランも放物線を描く二次方程式だよ。
つまり、これは○○で△△だから、××であり・・・・・」
「自分で調べろ!」などと、きつい言い方はしない。
ある意味、神から与えられた私への試練だと思っている。
そう、私には「失敗の神」がついている。
怖いものはない。
数学の例題を読み解きながら記憶の糸をたぐり寄せ、汗をかきかきやってみた。
数学のことについては、以前にNo.7で書いたが、授業がつまらないと「数学嫌い」が拡大再生産されていく。
「算数→数学」の過程で苦手意識をもってしまった学生には、解法そのものより、数々の数式がどんな分野で使われているか「問わず語り」をするなかで苦手意識を薄め、気付きを与えるようにしている。
何より私自身が「気付きなおし」をしているようなものだ。
私の中にも教育の中で発生した認知バイアスによって様々な「苦手意識」の刷り込みがされている。
せまくて浅い知識の私である。
名刺の肩書きを浅学者にでもすればいいのか。
教務課から「この科目を担当していただけませんか」と言われたら、要請に従い引き受けるようにしている。
泣いても笑っても一日は過ぎてゆく。
齢63ゆえ、恩送りの人生。
残された人生、恥をかいてでも学生と共に学びなおそう。
つまり、妻の言葉に耳を傾け、従えってことだな。
あと7年頑張って70歳になれば、思うままに振る舞っても人としての道徳規範を逸脱することはないらしい。
孔子さん、それってほんとうですか?