見出し画像

#243 世代を仕切る壁を超えるために

前期の授業を終え、ホッと一息ついたチンパンジー教授です。

私が勤務している大学は来週から試験期間に突入し、それが終われば8月第2週から50日間の夏期休業に入る。

学生は休業、教員は通常勤務。

授業がない分、勤務の合間をぬって所属するNPO法人の一員として日頃できなかった児童生徒の困り支援・教員支援、サードプレイスのボランティアスタッフとして子どもたちの学習支援をする予定。

真面目な話(私はいつも真面目なのだが)、専門分野の研究もしたい。

夏休みの自由研究で工作や実験もしたい。
夏休み明けに提出しなければ先生に叱られる💦

まずは、担当している5コマの講義について振り返りを行い、深く反省して後期の講義に生かしたい。

現在、これまでの講義資料を整理している。

教職課程では、教科指導、生徒指導、進路指導、教育心理学、教育相談において、子ども達の発達や特性をどう分析しどう対応するかを講義してきた。

振り返りの資料を一部引用してみよう。

たとえば「Z世代」といったように、各世代に名称が付いていることについて、私自身、納得しているわけではないが、話の流れとして一応使った資料がある。

私は「新人類」か・・・・

そもそも、世代をたった一言で「仕切る・区切る」ことによって、余計に隔たりができるような感覚になるのだ。

属性は、国籍、人種、年齢、性別、思想信条、宗教、家族形態、所得・家計などによって実に様々な分類がされ、実際には一人の中に複数の属性がある。

人は自分を特定の属性に位置づけられることによって安心感を得ることができる反面、その考えに縛られてしまい、自己と異なる属性を理解しようとする思考が停止してしまうことがある。

差別的、排他的になることさえある。

私が日々向き合っている大学生や高校生たちはZ世代と呼ばれているが、彼らを観察していると、ある種の傾向はあるものの、それだけで語ることに意味はないと考えている。

個別に見た場合、実に複雑で多様である。

家庭教育や学校教育に直接的的・間接的に関与する親・教師も「世代」で括られる。

文科省の学習指導要領の内容も10年に一度改訂され一括りにして語ることがある。

そこに落とし穴があることは常に念頭に置いておかなければならないと考えている。

私たちは、世代を超越して共に手を携えて生きていかなければならないのである。

互いに罵り合ったり陰口をたたいていても良いものは生み出されない。

主体性をもって自分軸で語ることはよいのだが、そこだけに固執していると「分かり合えなさ」の平行線の幅がどんどん広がっていく。

自らは変わろうとせず若者を「他人」扱いし、若者に「変わること」ばかり要求していると、両者の間に軋轢が生じることになる。

キャリア教育の中で語られる職業観・勤労観や労働に対する価値観がどんどん変わってきている。

当然、そこに世代間ギャップもあるのだが、「働き方改革」の中で社会の変化に合わせて柔軟に対応できていないのは上の世代である。

大人は往々にして若者に貼られたレッテル、イメージで語ることが多い。

「近頃の若いモンは・・・・」と。

どれだけの大人が “ 近頃の若いモン ” と真っ正面から向き合っているのだろう。

街で偶然に見かけた若者や、会社内にいる数名の若者の振る舞いを見て、それをもって若者のすべてを一括りにして評価しているとしたら、それは違うだろうということになる。

巷間ささやかれているような若者だけでなく、いい若者もたくさんいるのである。

「社会全体で子どもたちを育てる」という言い方をすると、責任の所在が曖昧な分、大人は大人としての当事者意識が薄らいでしまう。

大人であるなら、子どもや若者と直接関わる場面があったとき、そこで大人として何かを与える人であってほしいと思うのである。

子どもっぽい私が言うのもなんだが・・・・・

学校だけでなく、新入社員を教育している企業の現場からも嘆きの声が聞こえてくる。

「近頃の若いモンはダメだな」と愚痴を言っても、組織や仕事が上手く回らないことの免罪符にはならない。

むしろ、自分自身、若者に何の影響力もない無能な先輩・上司だと思った方がいいくらいだ。

私と大学生は40歳以上も離れている。

しかし、ジジイと若者は地続きである。

私は若者に「過去の私」を見出し、若者は私に「未来の自分」を見出し、そこから「ヤベぇぞ、こんなジジイにはなりたくないな」と思えばいいわけだ。

いろんな場面で若者と向き合っているのだから、自分にも責任はあると思っている。

我も通ってきた道であり、彼らもやがて通る道。

彼らは先人の歩んできた安全な道を歩むことが多いが、途中で独自に新たな道を開拓する可能性を秘めた存在でもある。

若者は理解し難い存在ではない。

若者はヤバイわけでもなく、批判したり悲観したりする対象ではなく、むしろ希望を託すべき存在だ。

「飲み会に参加したがらない若者」だっていいじゃないか。
飲む席だけが対話の機会ではない。

むしろ、素面しらふの時こそ、何気ない言葉のピースを拾い集めてジグソーパズルを完成させ理解を深めるべきだろう。

ガチガチのマインドセットを解除する必要がある。

前期は、教育(学校、教師、生徒理解)について広く浅く、学生たちと共に学び考えてきた。

足りない部分もあったので、後期へ向けて仕切り直しをしたい。

ただし、世代を仕切ることはしない。