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#334 内に宿る臆病な自尊心と尊大な羞恥心

自分が才能あふれる特別な存在だとは思っていないにしても
「あの人より自分のほうが優れている」
「この人は私より劣っている」

といった類の感情を抱くことはないだろうか。

若い頃は過剰な自尊心の壁を打ち破ることができず、もがいたり、生きづらさを感じることがあった。

それが難しいから人は悩み苦しみ、時に争い、時に傷つくのだろう。

中島 敦の『山月記』に出会ったのは国語の教科書だった。

それが中学のときだったか高校のときだったか記憶が定かではない。

主人公の李徴りちょうは高名な詩人になりたかったが夢叶わず、同僚たちは出世街道まっしぐら。
李徴は人として心が保てずやがて虎になってしまう。

そんなことになってしまったのは、自身の臆病な自尊心、尊大な羞恥心、切磋琢磨をしなかった怠惰のせいであると告白したのだった。

私が教師になってからも、やはり国語の教科書に乗る定番の作品だった。

ある時、私のクラスの日直当番が学級日誌に次の言葉を書いていた。

臆病な自尊心
尊大な羞恥心

ちょうど国語の単元学習が『山月記』だった。

学級担任のコメントとして「なんか難しいこと書いているな」と脳天気なコメントを書いた私である。

翌日の学級日誌には、その日の日直当番の生徒がリレー方式で解説を書いていた。

こんな内容だったと思う。

自尊心を傷つけられることを極度に怖れる心理
羞恥心を隠すために尊大に振る舞い他人を寄せ付けない心理

このコメントをきっかけに、クラス内でコメントをリレーすることが流行り出した。

全員女子のクラスだ。
女子だけの集団は若輩の私にはコントロールすることが難しく苦労の連続だった。

ところが、高校3年生ともなると、自己の進路のことも考えるようになり、少しは落ち着いてくるものだ。

「卒業式の日まで、日直として学級日誌に必ず意味あるコメントを残そう」
と誰かが言い出し、そこから生徒だけでなく、学級担任の私にも試練が課された。

「先生も何か書き残してください」という話になった。

生徒より優れているはずだという自尊心があった。
教師がものを知らないことは恥ずかしいと思い、虚勢を張っていた。

万事そんな私だから、気が付いたら人間ではなくチンパンジーになっていた。
27、28歳の頃だ。

私の中に憑き物みたいに潜んでいた自尊心や羞恥心が暴かれたような感覚だった。

彼女たちは高校3年生としてクラスで団結したいという思いに駆られたのだ。

私は団結より断絶したいと思っていたが、彼女たちの団結は凄かった。

全校合唱コンクールで念願の優勝を果たし、担任も参戦する学祭のクラス揃って歌合戦では準優勝し(来る日も来る日もカラオケで練習させられた)、学祭の教室展示部門で3位‥‥泣いたり笑ったり、悔しがったり、生徒も私もいろんな思い出が詰まっている。

彼女たちはちょうど10歳年下で今は54歳。

もちろん、派閥のようなものがあったけれど、今でも派閥ごとの懇親会に呼ばれてワイワイガヤガヤやっている。

先日、街なかで偶然、その教え子の一人に出くわし、「先生、そろそろ集まりましょうよ!」となった。

クラス担任として3年1サイクルで4度卒業生を送り出し、それぞれの世代にいろんな思い入れがあり、愛おしさも抱くのだけれど、最も若かった時の「自尊心」と「羞恥心」のあのクラスが最も印象深い。

いろんな意味で教師として試され覚悟を持つに至った時期だったからだろうか。

臆病な自尊心
尊大な羞恥心

そのすべてが消え去ったわけではない。

今でもときどき、顔を出すことがあって厄介な存在だ。

それでも、還暦を迎えて定年退職した時に、あらゆる肩書の鎧(教師とか校長とか聖職とか)が一旦リセットされて、心に余裕ができたお陰なのか、少しは心のさばき方が上手くなったような気がする。

先日書いた「老いて華やぐ」の心持ちか。

いや、油断は禁物だな。