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#345 加速する年賀状じまい
noteで凡筆堂さんの「年賀状」に関するお話と多くの方のコメントを読んで、皆さん、いろんな思いを抱いていることを知り、それぞれの考え方に納得した。
私もここ数年、高齢の諸先輩から次々と“年賀状辞退”の年賀状をいただいている。中には「欠礼・非礼をお許しください」という丁寧な表現もあって、かえって恐縮してしまう。
別に決別宣言などとは思っていない。それぞれに事情があるのだから仕方がない。
個人的には、出費を抑えられるし手間も減るという思いと、若干のうしろめたさを覚えながら、これで縁が切れるかもしれないという一抹の寂しさを覚えたりもする。
いろいろな種類の懇親会やOB会などに顔を出せば会える方もいるが、中には足腰が弱って行けないとか、病気療養中だ、海外に移住した、認知症が進んでしまったというご家族からの連絡があったりして、もう何年もお会いしていない先輩が結構いる。
「虚礼廃止」という言葉があるけれど、年賀状が虚礼と言われるようになったのはいつからだろう。
起源は平安時代の「儀礼」にあるのだから最初から虚礼だっわけではない。
近場にいる主君や師匠、親族、知人には直接新年のご挨拶回りをし、遠方には年賀状を送るといった慣習だ。
「 旧年中は(ひとかたならぬ)ご厚情を賜り、御礼申し上げます 」という表現は雅で謙虚な大和ことばの系譜なんだとか。
大量生産・大量消費が加速し、お年玉付き年賀はがきの賞品も年々豪華さを増していった時代がある。
師走に入る前から「年賀状のご購入はお早めに(予約購入)」「12月○○日までに投函されたものは元日に届きます」などと、行動をせかすようなプロモーションもあった。
個人的には、気が付けばピーク時は200枚以上の年賀状を書いていて、それがだんだんめんどくさくなって、いつしか心ない形式的なものになってしまったような気がするのだ。
マス・マーケティング戦略に煽られ、とりあえず嫌いな上司やポンコツ先輩にも出しておかないと何言われるかわかんないし、・・・・
これ、正に虚礼!
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昭和の後期、「プリントゴッコ」の登場で一般家庭でも年賀状を増し刷りする時代が到来した。原理は版画の多色刷りなわけだけど、あれはあれで作る楽しみがあった。
やがてPCの登場によって住所録さえ作ってしまえば、毎年、宛名・住所までサクっと印刷できるようになった。インク代がかさむ・・・・
ひと言でも手書きのコメントがあればいいが、それすらないとなれば、これ正に虚礼!
どちらが先に出すのをやめるか、我慢くらべしているのか?
物価高の折、郵券代の値上げも“ 年賀状じまい ” に追い打ちをかけた格好になっているのではないだろうか。
昨年の6月、ライバル関係にあったヤマト運輸と日本郵便がメール便や小型・薄型荷物の領域で協業をスタートして順調にいっていると思っていたら、ひょっとしたら1年も立たないうちに両者の関係は破断するのではないかという情報が出ている。
互いに、不誠実だとか、極めて遺憾であるとか・・・・罵り合うのは勝手だが、迷惑を被るのは消費者だ。
これ以上値上げしたら、もう年賀状は完全にやめるぞ!!
私の場合、4年前の定年退職が年賀状とSNSを使い分けるきっかけとなった。
非礼と思いつつ、退職を機に年賀状をやめる旨の一文を入れたら二百数十枚が百枚以下に減り、3年目以降は親戚5件と、教員生活で縁の深かった方を含めて30枚程度にまで減った。
大半が自分より年上なので「そして誰もいなくなった・・・・」とう時は必ず来る。いや、もしかしたら自分のほうが早くいなくなっているかもしれないのだ。
それなりの繋がりがあった後輩や教え子とはLINEでつながっているので、近況は手に取るように把握できている。
SNSで挨拶すればOKというのが今どきの感覚だとお互いに割り切っている。
文化的・宗教的な儀礼は、社会の中で幾多の変遷を経て今日に至っている。伝統は守るべきこともある。それに反対するつもりはない。
私は、恩義・礼儀・義理人情なんてこの世からなくなってしまえと願っているわけではない。
義理と人情は大切にしたいと思っている。ただ、歳を重ねる中で誰にでも言い顔をする必要はないと考えるようになっただけだ。友達が少なくたって濃くて深い付き合いをしていれば得られるものは大きい。
喜びや悲しみの表現は、私たちが「ことば」を使っている限り、その伝え方の方法や型は何かしらの形で残りながらも少しずつ変遷していくものだと思っている。
心根としてしっかり持ち合わせておくべコト、モノは何であるか、それを考えることが大切なのではないだろうか。
年賀状の話からなぜかこんな話になってしまった。