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#341 劣化する感性

 先日、札幌市とその近郊に在住する高校の同期同窓(63~64歳)が集まった。

 年金支給前にビジネス社会の第一線から退いた者もいる。現役時代の預貯金や退職金の投資運用益で暮らしているという。
 多くの友人は年金支給まで働き、体が丈夫ならそれ以降も働きたいという意見が多かった。

 私は自分より7歳若い妻に養ってもらい「髪結いの亭主」よろしく何もせず優雅に暮らすことを企んでいる。捨てられたらどうしよう・・・・

 親友のHは、一部上場企業で年収1千万円超だったのだが、「家族に苦労をかけてきたので人生を考え直したい」と言って50代前半であっさり退職した。

 Hはその後も順調な人生を送っている。
「秘訣はなんだ?」と聞いてみた。

「築き上げてきた地位や肩書きは捨て、人的ネットワークに頼らないことかな」と言った。いただいた“ ご縁 ”を完全に切るということではないという。利害が発生しない付き合いは続けているそうだ。立派だなと思う。

 彼は海外支社や国内本社に勤め、会議でも稟議書決裁でも重要な意思決定をする立場だったので、重責を担いつつプライドを持ちながらやってきたのだろう。
 それがあるとき、「でも、そんなの関係ねぇ!」となったわけだ。海パン一丁で・・・・いや、裸一貫で異業種の小さな会社に入社し額に汗している。

 引退して肩書きがなくなっても偉そうにしている人はいる。周囲からは「傲慢なジジイ」「哀れな年寄り」と疎まれているケースもあるだろう。私は「エロジジイ」と言われているかもしれない。
あ~耳が痛い、腰も痛い。

 年老いてもなお「積み上げてきた経験に基づく判断は間違っていない」と考えるのは危険だ。時代の変化は激しい。もはや経験を“積んでいる”のではなく“詰んでいる”状態かもしれないのだ。
 将棋では詰みが判明した時点で「参りました」と言う。私のキャッチコピーは「今日も詰んだ。毎日が参りましたの人生」にすべきかもしれない。

 もちろん、老いてもなお立派な人はいる。さまざまな人間関係の中で、特に若い世代の価値観を受容し、自分の器に合った役割を果たしているのだろう。情勢を俯瞰するメタ認知力や読解力が重要なのだと思う。

 他者との関係性から生まれる「空気を読む」というのはなかなか難しいものだ。これを論理的に説明できる人がどれだけいるだろう。感覚的なことはなかなか言語化しづらい。

 いろんなことが読めない友人がいる。芸能事務所の経営で培ったノウハウで一儲けしようと考えて本を出版した。有料会員制サイトも立ち上げたが、どこか偉そうで胡散臭さが漂って見向きもされていない。
 彼は「今の若いヤツらは社会の厳しさがわかってないんだよ」と嘆いている。

「いや、そりゃお前がわかってないんじゃないか?」と言ってやりたかった。

 親友が私に言った。
「自分と他者との関係性を読み取る感性は加齢と共に劣化するんじゃないだろうか。何を言っても“忠言耳に逆らう”という人って結構いるよね」

感性は劣化する・・・・か。

 私なんぞ、感性が研ぎ澄まされたことがないから劣化しようがない。自分が経験していないことや到達したことのない領域の話をされても、ひたすら「ほぉ、そうなんですか、凄いですねー」と言うしかないのだ。

孔子は論語で説いている。

十有五にして学を志す
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順みみしたが
七十にして己の欲するところに従えどものりえず

 七十になると自分の行動を完全にコントロールできるようになるらしい。でも、よく考えたら逆のような気がしてならない。

 私は今になって学を志している。そう、やっと学び始めているのだ。若い頃と違って記憶力は衰えているが、学び方に熟練し理解の度合いが深いと感じはじめている。
 そう思うようになったときに限ってポックリ逝くものだ。

 学生たちは就活に勤しんでいる。
 彼らには「目的と目標を持て」と檄を飛ばしているが、私も終活の目的と目標を持たなければいけないのか?
 目的は、この世のものとは思えないあの世へ行った時に、ダラダラゴロゴロと暮らすこと。そのためにはこの世でダラダラゴロゴロする効率的な方法を探究することだ。

 毎日、学生たちと向き合い、講義はそのつど真剣勝負だ。強い信念と覚悟をもっている。心の中で「あとちょっと頑張れば冬休みだ。早く来い来い冬休み~♫」と真剣に自分自身に言い聞かせている。
 明確に時限設定すると人は動けるものだ。

 それにしても、親友は感性が劣化するどころか達人の域に達しているんだなあ。内なる臆病な自尊心、尊大な羞恥心、今一度、自戒したい。