大人と子どもが抱えている問題の構造って一緒だなって思う
子どもが教える学校は、子どもが先生となり授業を行う学校です。
私が今なぜこの学校に必死なのかというと、会社を辞めてひとりで仕事をすると決めた3年前の私と、子ども達の授業に向けて不安と葛藤している構図が全く同じに見えるからです。
当時の私にとって、会社という場に頼らず自分で仕事を作っていくことは、富士山くらいのハードルに感じました。
子ども達にとって、学校の授業という枠に頼らず自分オリジナルの授業を作っていくことは、ちょっとした冒険で挑む山のように感じたかもしれません。
サイズ感はもちろん違います。
でも、子ども達と接していると、大人の世界は関係者も多く、利害や因果関係などでとっても複雑に思えるんだけれど、大人のハードルと、子どものハードルって全く構造が一緒だなって思います。
つまり、子どものうちにトライが多ければ多いほど、大人になってからどれだけ役に立つか、って思うのです。
起業当初の私は、会社の名刺を置いて、自分が「何ができる」と言えるものが何一つ見当たらなかったです。だけれど、私がやっている事は「目の前の人の思考整理だ」それに「ヒモ解き」という言葉で自ら名づけることで、自分の居場所ができたうな気がします。
自分が何者か分からない時は、どこかで誰かと競ったり、似たようなスキルの人を心の底で排他することでしか、自分の居場所を確保できなかったけれど・・自分が何者かを自分の中ですっと腹落ちしたとき、本当の意味で人とつながるのが怖くなくなったな、とも思います。
きっと子ども達もそうだと思います。既定の教科の枠にいるときは、その点数の序列でしか自分を人を測ることはできない。だけれど、そうではない自分の中のオリジナルのものさし(子ども達でいうと授業テーマ)を持つことで、自分に自信がついてくる、それが行動につながってくるのだと思います。
大人も子どもも、みんな一緒だなって思っています。
私は子どもを子どもと扱っていません、ミニチュア版の大人だと思っている。問題の構造が大人より比較的シンプルで、短い期間でそれらを「ヒモ解く」ことができる。
情熱さえ着火できればあとは自走できる。
いきなり教育分野や育児に入ったけれど、それって私にとってはこれまでと何も変わらず、人をヒモ解くということに他ならないのです。
そしてその原動力は、自分とは全く違う人生を歩んでいる「未知の存在」として一人の人として興味関心「面白い」というスタンスです。
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