たぶん一生捨てられない、ボロボロのリュック
この記事は、世界各国の物書きによるリレーエッセイ企画「日本にいないエッセイストクラブ」への寄稿です。第3回目のテーマは「思い出の一品」。9人目の最終走者として、イタリア在住・すずきけいがお届けします。文末に前回走者の紹介と、次回以降のお知らせがあります。
過去のラインナップは随時まとめてあるマガジンをご覧ください。
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断捨離がどうも苦手だ。
モノを減らすことに憧れる気持ちはある。もう何年も履いていない靴とか、アフリカ旅行の前に衝動買いしたジャンベとか、そういう不要なものを捨てれば、もっとスッキリとシンプルに生きられそうな気がする。
必要なものだけに囲まれる生活を目指して、断捨離をしようと一念発起したこともある。何度かある。でも、そのたびに「いやこれは捨てられないでしょ、これも一応取っておこう」なんて気持ちがむくむくとわきあがり、元の場所にしまい直してしまう。
そんな捨てたいけど捨てられないものの筆頭が、自分にとってはこのリュックだ。
10年以上も前にアジアや中東を旅行しようと思った時に買ったリュック。これを選んだ理由は単純で、ファスナーに南京錠が付けられるからだ。
でも正直に言うとこのリュック、自分の体にはあまりフィットしていない。背中のあたりがいまいちよろしくないのだ。しかも、サブの収納スペースの形状が独特で物を詰め込みにくかったりもする。
それに気付いたのは、準備がほぼ終わって荷物を詰め込んでいるときだった。明日飛行機に乗るって段階で気付いてももう遅くて、まあいいや、見た目は気に入ってるしと自分を納得させてそのまま旅に出た。
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そんな風に、いまいち気の合わない恋人のような出会い方をしたリュックだったが、何ヶ月も自分の身を預けているとそれなりに愛着も湧いてきた。着替えや洗濯用品、ノートパソコンなどのアイテムはリュックの中で定位置が決まり、いまいちモノが詰め込みにくい独特の形状のスペースには、救急用具を入れたポーチがピッタリ収まることが分かった。
だけど毎日のように手荒く扱われ、長距離バスの運転手に放り投げられたリュックは、だんだんボロボロになり、ほつれも目立つようになってきた。
シリアで街歩きをしている時に(当時はまだ旅行ができた)地元の子供にくっつけられたガムは、網目の中にしっかりと入り込んでもう取れないし、繊維にしっかりにじみこんで落ちない砂ぼこりもある。
なにより、毎日ぎゅうぎゅうぱんぱんに荷物を詰め込まれて左右に引っ張られ続けたファスナーは、もうあまりうまく噛み合わない。ファスナーを締めてもちょっとズレていて、爪やボールペンを突き立てれば簡単に開いてしまう。こうなると南京錠をつけても何の意味もない。
ファスナーを取り替えればまだ使えると思ったこともあったけど、修理費用はもう少しで新しいリュックが買えるほどだったし、なによりこのサイズのリュックを使う機会がそもそもなくなってしまった。結婚して子供も生まれると、旅行のスタイルも変わってくるのだ。
そんなわけでもう使う機会のない、しかも壊れてしまったボロボロのリュック。断捨離するなら真っ先に候補に上がるべきものだけど、旅行を思い出すとどうも捨てられない。捨てられない理由は、そうすることで旅の思い出が消えてしまうような感覚になることもあるかもしれない。
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この記事の写真を撮るために、リュックを久しぶりに取り出してみた。
相変わらずファスナーは壊れているし、旅行にせよ日常使いにせよ、これを使う場面はもうあまり思い浮かばない。だけど、自分にとってはあちこち開いて、当時入れていたものを想像するだけでも楽しい。大きくて収納に困るしもう使い道ないけど、捨てられない。そんな思い出の品が一つくらいあってもいいのかもしれない。
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前回走者、スイスのアリサさんの記事はこちら。
アリサさんの「思い出の一品」は、なんとバジル風味の豆腐。とはいえ日本のあの柔らかくなめらかな豆腐ではなく『TOFU』とでも表記するべき全く別の進化を遂げた食べ物です。文化が交じるってこういうことっていうのを目の当たりにできる記事、ぜひ読んでみてください。
というわけで、世界各国の物書きによる「日本にいないエッセイストクラブ」の第3巡目はここにてゴールです。
次回、第4巡目のテーマは「お腹の空く話」。どこに住んでいてもお腹は空くし、食べることは生活の楽しみでもあります。トップバッターはネルソン水嶋さん。どんな話が飛び出すか、どうぞお楽しみに!