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前期課題「コラムを書く」、木曜4限

木曜4限の「メディア社会学方法論ゼミ(2年)」の前期の課題「コラムを書く」をまとめました。
《課題 2 授業を振り返り、コラムを書く <作文>
 全体を振り返ってみて、この授業で一番興味を持ったことや自分で発見したテーマなど、最も「伝えたいと考えたこと」を、多くの人に読んでもらえるような「コラム」の形にして書いてください。コラムのタイトルも考え、読み手を引きつける見出しになるように工夫してください。文字数は800字程度。
 多様なことに取り組みましたが、一つのテーマに絞って、人に読ませる文章を書くようにしてください。読み物として、自分なりに「いい文章」だと自信を持てるように仕上げてください。》

◆「SNSに対する意識」
 なぜ会ったことも話したこともない、何の関係もない赤の他人(タレントなどが被害にあうことが多いが)に対して、SNSでは人々は簡単に中傷を行えてしまうのだろうか。
 誹謗中傷は、こちらもインターネットやSNS上でよくあるビーフの応酬や口喧嘩、けんか腰な議論とは本質的にモノが違う。誹謗中傷は一方通行であり、双方向に発信されあうものではない。実際の人と人のコミュニケーションでそういった一方通行な中傷というのは起こりにくい。目の前の人に、突然中傷をすれば、暴力を伴った喧嘩になるか、被害者が警察に通報するかだ。なぜ、SNS上ではそんな対面のコミュニケーションでは起こりえない異常なことが起ってしまうのだろうか。誹謗中傷を失くすために、厳罰化や法改正というのは有用な手段の一つだと思う、しかしそれ以外にも安易にSNSで誹謗中傷を行えてしまう理由をしっかりと考えなくてはならないと思う。
SNS上で安易に誹謗中傷を行えてしまう原因として私が考えることの一つに、SNSやインターネットに対する匿名性の意識のずれ、がある。2000年代の掲示板文化などと現在のSNSでは、匿名性が全く異なる。かなり多くの人がSNSを実名で運用しており、アカウントは自分の分身や身体の一部のようなものである。誹謗中傷を簡単に行えてしまう人は、SNSのアカウントと自分自身を切り離しており、全く別の世界のものであると考えているのではないだろうか。そういった匿名性の意識のずれが、幼いころからSNSに触れていた年齢層とそうでない層でかなり大きいと思える。
 もう一つ私が考える原因は、SNS上での言動への当事者意識の欠如だ。先述した自分の身体とSNSのアカウントを切り離してしまっていることがこれの原因なのだろうが、自分が発する言葉がどのようなもので、それが他者にどういった効果を持つか、もし自分の言葉で他者が傷つけられたらどうするのか、といったことがあまりにも考えられていない。だから、面と向かってでは言えるはずのない言葉をSNS上ではいとも簡単に吐き出せるのであろう。
 SNS上で誹謗中傷が引き起るのにはほかにもさまざまな理由があると思う。法改正などの消極的解決だけでなく、それを引き起こさないようにする解決策が見つかることを祈る。

◆「誹謗中傷の被害者にかかる負担」
 SNSでの誹謗中傷が問題視されている中、今年四月に改正プロバイダ責任制限法が成立した。これによってインターネット上に誹謗中傷を書き込んだ人物の情報を迅速に開示することができるとされている。しかし法律が改正されたものの、被害者の負担が未だに大きいままであると考える。
 NHKの「フェイク・バスターズ」を視聴した。この番組ではインターネットの掲示板で誹謗中傷を受けた被害者の母親が、書き込みをした人物の情報を請求する発信者情報開示請求という手続きを行った例が取り上げられていた。結果としてこの手続きによって一部の投稿者を特定し、裁判を起こすことができたのだが、私は被害者にとって三つの点で負担が大きいと考える。まず経済面で、自費で裁判を起こす必要があるという点だ。被害者が多額の費用を負担するとなるとなかなか裁判などの行動を起こせず、誹謗中傷がエスカレートする可能性が考えられる。また手続きをするまでに手間と時間がかかるという点だ。裁判を起こすためには、誹謗中傷にあたる投稿をまとめなければならない。そして最も懸念されるのは精神面だ。心に傷を負った被害者が、金銭や時間を負担して加害者の情報を請求するのは不条理ではないか。法律が改正された後でもこのような問題点が挙げられる。
 このようにプロバイダ責任制限法の改正後も、被害者にとって加害者の情報開示を求めることは難しい。裁判を起こすことのハードルの高さから被害者が問題解決をあきらめることも考えられる。誹謗中傷の被害を受ける人を減らすためには、より簡単に手続きを行うことができるようにさらに法律を改正することが必要なのではないか。なぜなら「匿名で投稿したとしても書き込んだ人の情報は分かる」ということが社会的に浸透することで、インターネットで誹謗中傷をする人が減ると考えるからだ。被害者に寄り添うような仕組みが求められる。

◆「『ルール』は果たして正解か」
 今年4月にプロバイダ責任制限法の改正案が可決された。これにより、SNS上で誹謗中傷を行った人物の特定を今までより速やかに進められるようになった。ネットの発達に対し、法律や規則が追いついていないと批判されることも少なくない中、この法律の可決は前進ととらえられるだろう。SNSが発達したことで、行き過ぎた言動や誹謗中傷が増えたのは事実であるし、SNSの規制は徐々に厳しくなっている。 
 では、SNSの一番の強みともいえる「言論の自由」はどうなるのだろうか。
 SNSは誰もがいつでも自由な発信者になることを実現した。自分の考えを共有し、不特定多数と気軽につながることができる。匿名機能でより自由な発言を可能にし、人と直接会わなくても会話ができる。SNSは今ではなくてはならない存在である。しかしTwitterはSNSによる誹謗中傷や偽りの情報発信の増加を受け、Twitter内を循環し誹謗中傷にあたりうるコメントやセンシティブな内容、投稿数などに規制をかけるようになった。規制の対象は増えており、個人を守る機能が追加される一方で発信できる内容が狭まっている。SNS事業者がコメントを制御するのは言論の統制にあたるという見方もある。また、SNS上の問題や誹謗中傷がメディアに取り上げられることで注目が集まり、上記のような法律がつくられたり、様々な規則がきびしくなっていることも言論の自由を奪っている原因といえる。人々がSNS上の問題や誹謗中傷を知り、SNSでの発信、情報の受け取りの際に、「これは中傷にあたらないだろうか」「規制の対象にならないだろうか」と考える瞬間がうまれた。SNS上の誹謗中傷を防ぐ上では非常に重要なことだが、情報を見たときにまず「これは規制を受けないだろうか」と考えている時点で一種のバイアスを自分自身にかけ、自由な発言を制限することになっているということをどれだけの人が考えているだろうか。そもそもが法律で国民の権利として認められている言論の自由や誹謗中傷といった言葉がどこまでの範囲をとるのかがはっきりしていないことも問題であるが、誹謗中傷を減らすための規制と言論の自由のバランスは非常に難しく、先の見えない問題になってしまっている。
 世の中が便利になるということは規制や法律が増えることにもつながる。規制や法律が増えれば自由が制限され人々の行動は徐々にパターン化されていく。生活は便利になりかつ安心も増える一方、人の心はルールが増えるにつれ常識やきまりにとらわれ単調で無個性に、そして不自由になっているということをわすれないでほしい。

◆「『人生百年時代』を生きるために」
 武蔵大学鈴木ゼミの第13回目の授業では、ゲストスピーカーとして、八丈島に住む岸田さんをお招きして、お話を頂きました。そのお話の中で、「今は、人生百年時代である」という内容がありました。私は、それについて取り上げたいと思います。
 まず、人生百年時代とは、現在の寿命が100歳前後まで伸びていることを指し、それにあたって、国・組織・個人がライフスタイルの見直しを迫られていることを表す言葉として使われます。岸田さんは、この「人生百年時代」をキャリア形成の観点から捉え、一つの仕事を定年まで続けることは現実的ではないというお話をしていました。「昭和の人生すごろく」という言葉がありますが、「60歳で定年し、その後は年金生活」というのは、国の財政面からみても、もはや現実的ではないのです。今後、平均寿命が100歳前後まで上がるということになったら、80歳前後まで働くことが考えられ、今までの前提から仕事をする期間は、20年延びるわけです。これから示唆されることとしては、社会人になってからも「学び」を続けなければならないということです。我々のような大学生は、一般的に自分たちのことを学生だと認識できる最後のフェーズであると言えます。そのため、「学ぶ」ことに関しても、最後になるのではないかと考えている学生が多くいるかもしれません。従来の日本では、仕事に従事するため教育の場から離れるケースは一般的でしたが、人生百年時代では社会人が新たな知識やスキルを身に付ける必要が出てくるのです。人間の寿命が延びている一方で、会社の寿命の短命化は進んでおり、定年まで一つの会社で勤めあげることが稀になってくるからです。私は、岸田さんのお話から、大学を卒業した後も、自分から学んでいく必要があることを実感しました。
 人生百年時代と聞くと、「長いな」とネガティブな気持ちで捉える人も少なくないでしょう。しかし、働き方や価値観も多様化する中で、従来よりも自分らしく生きることの追及がよりしやすくなってきている時代だと言えます。この変化を好機とみるか、脅威とみるかは人それぞれです。この百年時代にみなさんはどのようなキャリアを築いていきたいでしょうか。

◆「『今日という日が最後なら』を見て感じたこと」
 授業内で、柳明菜が監督・脚本を務めた、『今日という日が最後なら』という映画を視聴した。この物語は、幼いころに離れ離れになった双子の姉妹、聖子と舞子が20年後に再会するところから始まる。八丈島で自由奔放に育った舞子と東京で親のいうことを聞いて育った聖子は、性格も考え方も正反対の双子であった。絵を描く夢を諦めきれない聖子は、舞子に連れられ、八丈島を訪れる。自然あふれる八丈島での経験は、双子の心境に変化をもたらしていく。
 この映画には、自然や島民性、伝統的文化といった、八丈島のアピールポイントがたくさん詰まっていた。例えば、伝統的な草木染の絹織物である黄八丈や八丈太鼓などが作品の中に取り上げられていたのだ。これらの要素によって、この映画は、八丈島の魅力を視聴者に伝えるPR的な役割も持っていると感じられた。私たちが、ゼミの活動として行っている、ツアー企画にも、活かせる点が多かったように思う。しかし、八丈島の良い所がアピールされていたのに対して、都心は堅苦しく、自由が利かないというイメージを与える作品でもあったと思い、この点においては違和感を感じた。確かに、八丈島には、都心にはない自然や伝統的文化があるとは思うが、都心にも八丈島にはない魅力があると思うので、都心にマイナスのイメージを与えることなく、八丈島をアピールできればより素敵だったなと考えた。
 また、この映画は、コロナ禍における私たちにも良い影響を与える作品だと思った。というのも、この映画に出てくる自由奔放な舞子は、「今日という日が最後なら?」と自分自身に問いかけ、やりたいとこに突き進んでいく、前向きな人物であった。コロナ禍であることを言い訳に、何にも挑戦せず、変わらない日々を過ごしていた私は、彼女の前向きな考え方に刺激を受けた。きっと、私だけでなく、この世界の状況に様々なことを諦めている人は多くいると思う。そのような人々にも、ぜひ一度見てもらいたい作品である。(813字)

◆『アイデアが町の救世主!!』
 「廃校活用」は、町おこしに対して非常に大きな可能性を持ったものであると考える。実際、廃校を利用してユニークな取り組みをすることで、人気を集めているところも多くある。例えば、高知県室戸市岬町にある椎名小学校である。椎名小学校は、2005年に廃校となったが、2018年に水族館として生まれ変わった。その水族館は、「むろと廃校水族館」という名前であり、室戸産の生き物たちが展示されている。深刻な人口減少に悩まされていた町が、ユニークな発想から生まれた廃校活用によって全国から注目を集めているのである。このように、アイデア一つで過疎の町に観光客を呼び込むことができる。つまり、「廃校活用」は、町おこしに対して非常に大きな可能性を持つのである。
 しかし、廃校活用には課題もある。例えば、町の条例に基づいた使用しかできないことや立地条件が悪いことでできることが制限されてしまうことなどがある。他にも、廃校活用を進めていく上で、その地域に住む人々と意見が合わないという問題が生まれてしまう可能性もある。八丈島の地域おこし協力隊の新井さんは、「大切にしていることは、地域の方と一緒に楽しみながら進めることである。」と話されていた。廃校活用をする上で、地域の人たちと協力していく事は非常に大切なことである。そのような問題点も考慮しながら、ユニークな発想で廃校活用に取り組むことが大切なのである。
 現在は、東京への一極集中の影響により、地方の人口減少や高齢化が進んでいる。このような現状下で、地方に人々を呼ぶために、廃校活用は大きな可能性を秘めていると考える。廃校の校庭を利用してドライブインシアターをするなど、興味を持つことで様々なアイデアを思いつくことができる。年齢や性別に問わず、多くの人が「廃校活用」について興味・関心を持ち、様々なアイデアを持ち寄ることが、地方の町おこしにつながり、より充実した町おこしになるのではないかと思う。

◆「『何もない』風景を切り取る」
 早く地元を離れたい―。慣れ親しんだ街には何もなく、都会に出れば何かが変わるような気がして、私はひとり暮らしを始めるために実家を出た。ひとりで過ごす日々に寂しさを感じたとき、何度も思い出すのは、親が運転する車の窓から見える地元の街並み、広い空や海、開放的に茂る草木の緑ばかり。何もないと思っていたはずなのに、東京との違いに気付き、長く過ごした街の風景が、心に刻まれた風景になっていたことを思い知った。
 私たちはご縁に恵まれ、授業を通じて八丈島に関わる方々と繋がることができた。八丈島を舞台にツアー企画を構想したりゼミ合宿を計画したりする中で、まだ見ぬ景色を想像するとわくわくした。
 ある時、八丈島の高校生と関わる機会を得て、私たち島外の人間が知らない島の情報を頂ければと思っていたのだが、高校の先生から、島の高校生は地元のことを良く知らないと伝えられ、はっとした。長い期間ある一定の場で日常生活を送っていると、その街が持つ文化や歴史の重要性は希薄化し、特有の風景はあたりまえの景色になる。そして、深く知ることのないうちに、地域の外の人に地元の良さを語ることができなくなっていることに気付く。
 地元の観光サイトを見て、実際の風景とのギャップに思わず苦笑いがこぼれることも少なくない。ただ、他の地域の観光地が魅力的に見えたとき、私たちは写真や映像の切り取り方に印象を操作されているのかもしれない。しかし、これが「外の視点」なのだろう。
 海外から訪れた観光客の目に、日本の風景が新鮮に映ることは存分にある。自分の住む街から離れてみることは、地元の特徴を客観的に捉える1つの手段である。
 まさに灯台下暗し。何もないと感じる「内の視点」をおざなりにせず、いつもの風景やあたりまえを知っている人しか語れないことを地域の外の人に伝える。地元の風景を想起して、誰かと分かち合える風景に昇華してみるのも良いのではなかろうか。

◆「身近な南国八丈島」
 自分が授業を通して興味を持ったことは、八丈島についてです。八丈島(はちじょうじま)は、伊豆諸島の火山島で、日本の気象庁によると火山活動度ランクCの活火山である。隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。東京都心から南方287kmの海上にあり、行政区分は東京都八丈町である。自動車の登録は品川ナンバーである。くさや、明日葉、ハイビスカス、島焼酎が特産品で、1964年には富士箱根伊豆国立公園に指定された。伊豆諸島の最南端にある八丈島。飛行機でなら羽田空港からわずか55分で行けるため、東京から1番近い南国といわれています。亜熱帯の豊かな自然があふれ、温暖な黒潮の海に囲まれた小さな島には、本州とは違う独特の魅力がいっぱい!
 八丈島のおすすめスポットとしては、八丈富士・見晴らしの湯・島寿司・八丈富士牧野・ふれあい牧場・底度海水浴場・大越アロエ園・八丈おさかな朝市・登龍峠・裏見ヶ滝・ジャージー牛乳スイーツと魅力は沢山あります!大自然を思い切り堪能できるスポットばかりをご紹介しました。アクティブに楽しみたい人にはトレッキング、のんびりしたい人には温泉とタイプに応じて楽しみ方は様々!1泊からでも十分楽しめるので、気軽に出かけられそう。島の空気を浴びて存分にリフレッシュしてくださいね。ダイビングやサーフィン、釣りといったマリンレジャーはもちろん、島のシンボル的存在である八丈富士ではトレッキングや自然観察も楽しめるアウトドア天国なんです。美しい海に囲まれた八丈島に行ったら、史跡・名所よりもまずはアクティビティがおすすめです。「初めてだから」「体験したことがないから」と不安にならなくても大丈夫。地元ガイドが案内してくれるツアーに参加すれば、丁寧に教えてくれますし、何より深く八丈島の自然を理解し、楽しめますよ!

◆「貴重な機会を掴むために」
 大学は、専門的な内容を詳しく学ぶところだというイメージが強かったが、新たな発見を見つけることができる場所であると捉えるようになった。
 高校から大学進学の時点で、学部や学科の選択をしなければいけないが、高校卒業の時点で将来の明確な目標が決まっている人はそれほど多くないだろう。大学には必修科目があるが、ほとんどの授業を自分で自由に選択することができるため、将来について明確な目標が決まっていない人は、できるだけ様々なジャンルの講義を選択し、そこから自分の興味のある分野を見つけ出すこともできる。また、既に将来の目標が決まっている人も、少しでも興味のある内容の講義であるのならば取ってみるべきであると思う。なぜなら、より様々なジャンルの内容に触れることで、新たなジャンルの発見や魅力を見出すことができるからだ。確かに興味のある分野を特化して学ぶことは、より知識を深めることができるため大事なことであるが、高校までの知識で将来を決めきってしまうことはもったいないとも感じられる。まだ自分が出会ったことのない知識や経験との出会いの機会を失ってしまうかもしれない。将来職に就いたら嫌でも職に関する知識に特化しなければいけなくなるだろう。なので、自分で自由に選択することができる大学時代に少しでも様々なジャンルを学んでみるということは非常に貴重な機会になると考えられる。受動的になんとなく自分の学科の講義を受ける大学生活を送るのと、自らで考え、選択しながら大学生活を送るのとでは同じ4年間でも得るものが変わってくるのだ。
 このように、大学の4年間でより新たな発見を見つけることができるのだ。そのためには、学科などに囚われることなく、自分の視野を広く持ち、能動的に行動を起こしてみることが大事である。

◆「今夏、パラ選手達の勇姿を見逃すな!」
 世界中で新型コロナウイルスが感染拡大している中、2021 年 7 月 23 日に東京オリンピックは1年遅れの開会式を迎えた。オリンピック開催にあたり賛否両論はあるものの、日本人選手の連日の活躍もあり、大きな盛り上がりを見せている。一方で、特に我々日本人はオリンピックの閉幕後に行われるパラリンピックへの関心は非常に薄く、イマイチ盛り上がりに欠けるのが実状である。しかし、今回は自国開催ということもあるため、是非パラリンピックにも注目してもらいたい。
 私がパラスポーツに関心を持ったきっかけは、IPC(国際パラリンピック連盟)と WOWOWの共同プロジェクトである「WHO I AM」というパラスポーツ選手を特集したドキュメンタリー映像を視聴したことである。選手によって障がいの重度は違えど、それぞれがハンディキャップを背負いながらも、悲観することなく前向きにスポーツに打ち込む姿は胸を打たれた。同時に、何不自由なく生まれてきた私は今後どんな困難に立ち向かったとして
も、逃げてはならないと思った。また、私は日本パラスポーツ界を牽引する国枝慎吾選手の本編映像を視聴したが、勝利への執念や東京パラリンピックに賭ける思いは凄まじかった。きっと、他のパラ選手も同様の熱い思いを持っていると思われる。確かに、技術面・迫力という点では健常者のプレーには敵わないかもしれないが、パラリンピックにはオリンピックには無い魅力がたくさん詰まっていることは間違いない。例えば、我々がスポーツ観戦を通して享受することのできる生きる勇気や感動といったものはオリンピックの時と同様、またはそれ以上に感じることができるのではないかと考えている。
 さらに、テレビをはじめとした各メディアにはパラリンピックが盛り上がるようにオリンピックと同様の報道をするよう心掛けてもらいたい。東京オリンピックの開会式の大きなテーマの1つに「多様性」が掲げられていたことから、このテーマを遂行する意味においても各メディアにはパラリンピックを大々的に報道する責任があると私は考えている。
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◆「音楽とヘアスタイルの社会学」
 みなさんは音楽が好きだろうか。音楽と一口に言っても、それは決して歌物だけではなく、クラシックやゲーム音楽なども含む。そう考えてみると、老若男女、おそらくほとんどの人が何かしらの音楽が好きだろう。「邦楽は聴かないけど洋楽は好き!」「ゲームが好きだからゲーム音楽が好き!」「K-POPアイドルに憧れている!」等、さまざまだと思う。そんな音楽の中から、ここでは「音楽とヘアスタイルの社会学」というテーマで論じようと思う。
 日本では、これまでにさまざまなヘアスタイルがアーティストやアイドルの影響で流行している。主な例を挙げると、ビートルズのマッシュルームカット、YELLOW MAGIC ORCHESTRAのテクノカット、松田聖子の聖子ちゃんカット、チェッカーズのチェッカーズカット等が挙げられるだろう。
 ここではテクノカットと聖子ちゃんカットに注目してみたいと思う。
 YELLOW MAGIC ORCHESTRA、通称YMOのテクノカットは、もみあげを鋭角に剃り整え、襟足を刈り上げたヘアスタイルである。今日でも男女問わずテクノカットの方は見られる。
 松田聖子の聖子ちゃんカットは、眉の下まで重めの前髪がありレイヤーカットされたサイドは外側にブローされバックは内側にゆるくカールさせたヘアスタイルである。松田聖子の代名詞とも言える聖子ちゃんカットだが、実際そのヘアスタイルにしていたのは1980年4月1日リリースのデビュー曲「裸足の季節」から1981年10月7日リリースの「風立ちぬ」あたりまでの2年弱だけというのは、意外ではないだろうか。松田聖子以後にデビューする中森明菜や小泉今日子を始めとした多くのアイドルが聖子ちゃんカットをしていた。今年、松田聖子がおよそ40年ぶりとなる聖子ちゃんカットを披露するとネットニュースのトップに乗り、情報番組やワイドショーでも取り上げられた。髪型一つでここまで話題になる松田聖子の凄さ、80年代の勢いというものを私は感じた。
 当時の日本では、長髪は不良、短髪は真面目とされる時代だった。しかし、流行に敏感な層がテクノカットをしたことにより、テクノカットを禁止した学校もあったという。このことは昨今話題になっているツーブロック禁止の校則に親しいものがあると私は思う。当時からヘアスタイルの関する偏見的で校則で生徒を縛り上がる管理教育的側面は変わっていないと言えるだろう。聖子ちゃんカットに関しては、数年前の某ドラマでも話題になり、そのヘアスタイルの与える社会的影響力や経済効果といったものに注目したら興味深いものとなると思う。
 現在でも、米津玄師のような目に刺さるような前髪のヘアスタイルが一部で流行したりと、音楽とヘアスタイルの関係性が社会に与えるものは非常に大きいと言えるだろう。

◆「成功するためには」
 本講義を通して、私はあらゆる視点を持つという意識が最も印象に残った。しかし、この意識が重要であることは明らかで、講義のみならず、日常生活の中で人に教えられるどころか、自然と意識させられるくらい、社会の中で重要であって、必要不可欠なものであるのだが、講義の中で人に話をして頂き、当たり前のことを改めて意識させられるということがあったため、特に印象に残ったのである。
 それは、5月20日の長田さんの話である。長田さんは、八丈島と関わっているいくつかの会社の経営が成功していて、その経験を活用して、授業で取り扱っている八丈島と関連させたマーケティングの話をして頂いた。その中で、どうして私は成功したのかという話題があり、八丈島と東京を行き来していたことで、双方の欠けているもの、良いところを遠目で分析することが出来て、他の人とは違った作戦が立てられたからだと話されていたのである。この話から、一度、自らが関わっていたことから身を引いて、第三者として物事を考えるのは難しいことであるが、どのような事においても、成功するためには大切なことであると考えた。
 長田さんには、ビジネスにおける話をして頂いて、あらゆる視点を持つことの重要性を学んだが、最初に述べたように、それはビジネスに限らず、日常の対人能力など、様々な場面で必要な能力である。1つの視点を持つためには、その観点から考えるための知識が必要であるため、常日頃からあらゆる事に興味を持って、分からない事があれば、それを知ろうとすることがより良い生活に橋を掛けてくれるのではないだろうか。

◆『コロナ禍で考える人との繋がり』
 人はひとりでは生きることができないと聞いたことがあるが、本当にその通りだと私は考える。その理由は金銭面や精神面など様々あると思うが、私が考えるには、人間の多様性にその理由があると思う。
 人はそれぞれ生き方が違えば、考え方も違う。よって、他の人と話すことは今までに自分の中には無かった知識・情報・考えを得ることができる可能性が高い。これは自身の人生を豊かにしてくれるものだと考える。例えば、私は前期の鈴木ゼミを通して、八丈島という存在や魅力を知った。これは人から教えてもらわなければ出会わなかったものである。八丈島は自然が豊かで星空が綺麗だ。私は現在関東圏に住んでいるが、関東でも星空が綺麗に見えることがある。その度、今までは「綺麗だな」の一言得終わっていた感想が「八丈島ではどれくらい綺麗なのだろう」「これが日常で見られるなんて素敵だな」など、星空一つに対して様々なことが頭の中で連想されるようになった。他には、断らずにチャレンジしてみるという生き方をしている方の話を聞いた。その方はそのチャレンジ精神から様々な経験をしていた。それぞれの経験は決して無駄ではなく、他の場面でも生かされているものが多いという。私自身、消極的かつ迷うことが多いが、このお話に背中を押され、以前の私に比べ、積極的になることができていると感じる。
 ひとりでは限界がある。ひとりでは考え方に偏りが出てしまう。人とのつながりが増えれば、自身の人生において、考えの選択肢の幅が増え、結果ひとりではたどり着けなかったところに行きついたりする。今現在はコロナ禍で、自粛などが要請されている。新たな人との出会いも少ないだろう。また、一人暮らしをしている大学生の中には孤独を感じている人も多いだろう。この文章が人とのつながりを持つための行動を後押しするものとなればと願っている。

◆「SNSに蔓延るウソ」 
 古くから、社会を揺るがすような事態が発生した際には社会に偽の情報が蔓延り、偽の情報であると見抜けず事実として受け取ってしまった人々が新たな問題を起こすという構図が生まれる。最近では、「トイレットペーパーの多くは中国で製造・輸出しているため、新型コロナウイルスの影響でこれから不足する」という偽の情報がSNSを中心に広がり、それを信じてしまった人がスーパーマーケットに押し寄せ、全国的にトイレットペーパーの品薄・品切れが続く状態となった。このときに問題になるのは偽の情報を発信した側であるのか、それとも偽の情報を鵜呑みにして拡散してしまった側なのだろうか。私は、どちらにも事態を起こした責任があると考える。偽の情報を発信した側は、その情報が嘘であると分かっていながら発信するという悪意のみでの発信が大半であるので、その発信者に規制をかけるなどの対策があるかもしれないが、あまり有用に働いているとは思えない。したがって私は、偽の情報を鵜呑みにしてしまった側に目を向け、事態の対策を考えたい。その一つとして私が考えたのは、SNSのアカウントを開設するにあたってファクトチェックを義務化することだ。私もファクトチェックを体験したのだが、自身の政治的な思想を広げるために載せた情報のどこが誤っているのか、を自分で見抜くノウハウを身につけることができたと実感した。これがSNSユーザーに浸透すれば、全体的にネットリテラシーが向上し、SNS上での同じような事態は防げるのではないだろうか。

以上

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