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発信しないこと。トランクに服を詰めてた彼女。

 なんか、アーティストの仕事は、なにかを伝えたり発信すること、と誤解?してる風潮が多いなぁ、とよく思ってしまう。そういうふうにいうと、「それは間違ってるっていうのか!」と怒られそうだけど、まちがってるわけじゃないけど、なんかそればっかりじゃなくてよいのでは?と思ってしまう。
 少なくともアーティスト本人がそう思ってることが最近多すぎるのではないか?と思ったりする。
 もちろん、客観的に言えばどこも間違ってなさそうな考え方だ。
 僕は「それって結果的に周りから言ってもらうことであって、それを目指しちゃうと違うんじゃないの?」と思っていたりする。みんなが僕のように思う必要はないのだけど。でもそんなふうに思ってる人もいます、と言うことを書いてみたい。
 言葉って不器用だなぁと思う。そういうことってあると思う。どういうことかというと、たとえば、この人の役割はこういう役割です、って言われて、本人も「ああ、僕の役割はこれね」と自覚してやってることより、その人が気づかないでやってることのほうがよっぽど役に立ってるなんてことは世の中すごく多くて、むしろ世の中はそっちで回ってるんじゃないかな、と思ったりするのだ。
 そして、アーティストはそう言う部分をこそ大事にする人ではないのかな、とよく思う。つまり言葉にならないことや、社会の表では見えない部分を。
 アーティストは何かを伝える人、というのはそれはもちろん優等生的な答えとしてはその通りなんだけど、あまりにそのまんま?それをやろうとしてる人が多いと、???って思ってしまったりする。
 
 言葉で説明しちゃうのってどうなの?って話でもあったりする。

 役割なんて、学校とか、部活とかで、「おまえは〇〇係な」っていうのと似ていて、それはそれで意味がないわけではないけど、そこに本質はないっていうか。
 アーティストとかミュージシャンは特にそういう違いにむしろ敏感じゃないと、って思うんだけど。
 
 もちろん、難しいのはこの文章でそう書いたからと言って、「じゃあそれに敏感になるようがんばろう」ってことでもないんだと思う。
 「言葉で納得して何かをがんばる」みたいなこととは違う種類のことをやるのがアーティストなのでは、と思っている。、、というか、ほんとはアーティストでなくても、そこまでいかないと「仕事」と言えるのかな、とさえ思ってしまう。

 30歳の頃、家出少女?というわけではないのだが、もう大人なんだけど、車のトランクに服やら日常生活の道具を入れて、家に帰らず暮らしてる女の子と一時的につきあったことがある。
 前につきあってた男の人に言わせると「私は性悪女らしいわよ」といって笑う彼女は、でもとても綺麗だったし、すごくピュアな部分があって頭も良かった。
 最終的にはなんだかふられてしまった、と僕は思ってるが、向こうは向こうでそう思ってるのかもしれない、よくわからない終わり方だった。
 彼女によく言われたのは「もっと不良じゃないとね」ということだ。一番こたえた時の言われ方は、「なんか潤くんたちのライブは子供を見守る母親みたいな気持ちになっちゃって全然ぐっとこないんだよなぁ。もっと不良じゃないとね」というセリフだった。
 僕は自分ではそこそこ反抗的にいろいろチャレンジしたり、遊んだりしてきた方かな?と思っていたのだが、彼女が言ってることが妙にすごく痛いところをつかれてる気持ちがして、それだけにすごくこたえたのを覚えている。
 でもそのときにはなんとなくしかその意味がよくわからなかった.
 まぁこんな文章を書いてる時点で、いま彼女にあったとしても、「相変わらず不良じゃないね」と言われるのかもしれないけど、いまになると少しだけわかるのは、当時は確かに今の自分より、まだまだ「たくさんの正解」がどこかにあると思って生きてたんだろうなぁ、と思う。
 そういうのを優等生と呼ぶし、たしかに、そういうのって、
 クソ面白くないよな
と、いまでは、その彼女に100%賛同できる。

 アーティストが発信過多みたいになってる世の中を見てるとよくその彼女のセリフを思い出す。
 不良じゃないなぁ。

 大体なにか大事なことに気づいた時には、それを教えてくれた相手はもういない、というのが世の中の、特に恋愛の常だな、と思う。

2023.12.1
 

 

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