掌編小説『無精髭』

 青年は、頭の中で粘液がうごめくような、ぬめりとした違和感に目を覚ました。昨夜からつけたままになっている照明は冷たく、瞼がしきりに痛んだ。
 青年は、鉛のように重たい頭を強引に振りながら、胴体を起き上がらせる。ベッドから立ち上る獣じみた臭いが、カーテン、天井に染みついていた。力が入らない足で懸命に体を支える。さも暗闇の中にいるかのように一歩、一歩、足を引きずる。手は壁を求めてさまよい、左手で白い壁に触れる。
 誰もいるはずがないキッチンへとやってくると、冷蔵庫に入れられたバナナをおぼつかない手で取りだす。皮が黒く変色したバナナを食した後、白い錠剤をまるで酒を煽るように流し込んだ。
「畜生」
 青年は、洗面所の鏡に映る自分の顔を十秒覗き見てつぶやいた。顎から口の周りにかけて、黒いピンとした髭がぽつぽつと生えていた。
洗面所の蛇口から水道水が、ぴちゃ、ぴちゃ、と音を立てて落ちた。彼の眼には洗面所は灰色に映った。
「外へ出よう」
 しゃがれて、張りの無い声でぼそっとつぶやいた。
 青年は、棺桶のようにじめじめとした部屋を抜け出し、外へ出た。灰色の塀、白い壁、黒い瓦。蒼穹。住宅街は太陽に照らされて輝くように鎮座している場所もあれば、隣の家の影に呑まれている場所もあった。
 あてどもなくさまよう。彼の目に光は無い。
 幼稚園。立ち止まる。彼は二人の男児に釘付けになった。二人は向かい合って立っていた。太った男児は、しきりに体を揺らし、落ち着かない様子で、無邪気な笑顔を浮かべていた。もう一方の男児は、ほっそりと肉付きが悪く、斜視で、皮膚は透き通るように白かった。
 太った男児は大きく口を開けて笑うと、まるで目の前にいる男児をそのまま食べてしまおうとしているかのように、勢いよくもう一方の男児に飛びかかった。
 飛びつかれた男児は、その勢いのままに吹き飛ばされた。幼稚園の固い土の広場に倒れ込む。彼は、むくりと起き上がると、左目を小さな左手で隠し、唇を引きつかせながら左ほおにぎゅっと力を入れた。
「食われてやる」
 青年はひとりごちた。青年の口が、男児の唇と共鳴したようにひきつった。手で口を押えると、生えてきたばかりの、まだ子供の髭が手に突き刺さった。
 青年は勢いよく空を仰いだ。降りそそぐ太陽光が目に飛び込み、世界は真っ白になって、消えた。

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