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何者でもない僕でも出版できた

僕は普段の仕事は企業向けの人材教育やコンサルなのですが、いつの日か本を出したいという目標も持つようになりました。目標を持ってから出版デビューまでは数年もかかったほどのどんクサい僕が、どのようにして出版活動を行ったのか。自分の記録としてnoteに書き残しておきたいと思います。何者でもない凡人でもがむしゃらに動けば何とかなるという、「気づきと勇気」の裏メッセージを感じ取っていただければ幸いです。

1.出版したい!はここから始まった。

僕がはじめて出版を志したのは、2002年までさかのぼります。実際に出版デビューが実現したのは2010年5月だったので、デビューまで8年間もかかったことになります。最近の活動しか知らないまわりの方はトントン拍子で出版してきた人。そう僕を評しますが、実際はデビューまでとっても長い道のりだったのです。

その後、2019年5月現在で計11冊を出していることを考えると、年間1冊以上のペースでの執筆です。今では本を出すことが普通の感覚になってきましたが、その昔はとてもとても高い壁に見えていました。

さて、ではなぜ僕が出版を志したのか。これはいたって単純な話です。

本を書いて売れればそこから見込み客からの問い合わせが増える。つまり、仕事を獲得するために知名度を上げる販促ツールとしての武器にしたい。そんな下心からでした。何しろ、当時はコンサルと名乗るものの仕事は閑古鳥が鳴いている状態。食うための出版活動といっても過言ではありません。

2002年にはメルマガも配信していたので文章力もそれなりには自信だけありました。広告予算はないし、人脈もない、それなら出版デビューで一気に知名度アップを狙おう!こうして意気揚々と出版デビューを夢見て出版活動を始めたのでした。

そして、本を出すためにまず何から手を付けたかというと・・・。

2.出版デビューに向けた第一ステップ

出版を決意した2002年、まず何から手をつけようか?そう考えた僕はあるトレンドに目をつけていました。当時、世の中にメルマガという文化が定着した始めた頃です。

この頃は、「まぐまぐ」と「melma」というメルマガエンジンが人気でした。僕も手始めに「まぐまぐ」で経営やマーケティングに関することを毎週執筆し、配信していました。そしてまわりを見渡すと、メルマガの原稿が書籍化した例が増えてきた時期でもありました。僕も何十通か書きためてきたため、まずはメルマガ原稿の書籍化を狙おう。こう考えました。

早速、メルマガ原稿のハイライトを整理して数ページのサンプル原稿に仕立てます。コンセプトもしっかりと立てました。中小企業の経営者向けに、今すぐ儲かる経営テクニック集を提供!ハッキリ言って、僕自身は人に教えるレベルでは本当はなかったんですけどね。自分自身が仕事が無くて困っていましたから。

それでも、経営者の交流会に参加すれば、多くの社長さんたちにキミの意見は鋭い!いつもそう言われてきたので、文章の切り口や着眼点も自信満々でした。完成したサンプル原稿を見つめながらベストセラー間違いなし!と、頭の中では妄想が止まらなくなり、ただニタニタと笑みを漏らしていた記憶があります。

ところが、困ったことが起きました。

ところで、この原稿、誰が見てくれるんだろう?

そういえば、出版社にコネゼロだった。(^-^; そうなんです。実は、ここまで何も考えずに、ただサンプル原稿を準備していたのです。どうやって出版社にこの原稿を見てもらえばいいのだろうか?

ちなみに、この時の僕の活動拠点は自宅も事務所も地元の大阪です。大阪には出版社がないなぁ・・・。今更ながら東京以外の立地の不利さを痛感したのです。しかし、ここで東京コンプレックスを嘆いていても意味がありません。とりあえず出来ることから始めよう。そう一念発起し、早速ある行動をとることにしました。

その行動とは・・・。

3.片っ端から出版社に電話で売り込みを

サンプル原稿を数ページ作成した後、出版社へコンタクト方法を考えました。当時住んでいたのは大阪です。出版社は東京にしかないため、どうやってキッカケをつくるのか。それが最大の課題でした。

出版経験者のインタビュー記事や出版ノウハウ本からも情報を得ました。まずは、電話した方がいい・・・FAXで企画書を先に送った方がいい・・・封書で丁寧に送った方が見てもらえる。様々な出版社へのアプローチ方法が紹介されていましたが結局はケースバイケースなのです。

色々と考えるのが面倒くさいので、まずは出たところ勝負で電話してみよう。そう考え、30社ほど出版社をリストアップしていきました。

この時はじめて知ったのですが、ビジネス書の場合、大手だからといってヒット作が多いとは限らないことです。講談社、集英社、小学館などはビジネス書では必ずしも強くありません。そのため、中堅で規模は劣るけどビジネス書でヒットを飛ばす出版社など、くまなく自分なりにリストアップ。そして、片っ端から電話をかけ始めました。

セールストークはこうです。

「出版企画とサンプル原稿があります。御社では持ち込み原稿は受け付けをされていますか?」

「経営テクニックをまとめたメルマガをベースにした企画です」

「読者層はリーダーや経営者を想定しています」

殆どの場合は、ガチャ切りされることなく丁重に対応して頂けました。時代が電話からメールへと移行する中で電話で売り込んでくる著者候補が逆に珍しく感じられたのかもしれません。中には、編集長や副編集長が偶然直接出てくれるということもありました。

今となっては出版塾などで編集者と知り合うチャンスも増えてきました。しかし、時は2002年。この時代は編集者と出会う交流会や出版セミナーはあまりなかった時代です。ましてや、僕は大阪に住んでいたので、出版関係者にすら接点が見つかりません。まずはいきなり電話してみてもいいご縁が発生するかもしれませんね。

結局は新たなチャレンジをする時は、あれこれ考えずにまずは一歩踏み出すこと。この勇気ひとつで、新たな世界が広がります。

さて、電話で約30社に売り込みをかけて、いったい何社が原稿を見てくれるという対応をしてくれたでしょうか?

それは・・・。

4.首の皮一枚で出版企画が残る

電話で自分の原稿を読んでほしいと売り込みをかけて30社にアタック。そして、結果的には12の出版社からサンプル原稿を送ってほしいという回答を得ることに成功しました。意外にすんなりと受け入れてくれ、本当に驚きでした。

ちなみに、電話の時点でダメと言われた出版社は何が原因だったのでしょうか?電話口で言われたことは、おおよそ以下の点に集約されます。

・著者としての経歴が力不足
・企画分野での仕事の実績が少ない
・持ち込み企画、原稿はお断り
・メルマガの書籍化はもう時代遅れ
・企画の主旨と会社の方向性が合わない。

ここで気づいたのですが、よく考えると著者として新人だけではなく、本業の実績にも自分は乏しかったのです。まだまだ独立して食えない時代でしたからね。

また出版社によって得意分野が違うためビジネス書というくくりで捉えるのは間違いであるということ。ビジネス書の中でも得手不得手が各社によってあります。また編集担当者の興味も様々です。そういう意味では、企画や原稿の内容ではなくタイミングやご縁も大切なこと。ビジネスの基本を思い知ることになったのです。

さて、好反応だった12社に封書で原稿や自己紹介書を送りました。そして1週間ほど経つと、3社から郵送で返事が返ってきました。中には、原稿の良い点、悪い点を詳細にフィードバックして丁寧な手紙を頂けた出版社、また、類書が当社には既にあるので、方向性を変えなければ採用できない
という手紙を頂けた出版社。あの時、丁重に対応して頂けた出版社は未だに忘れません。

やっぱりダメだったか・・・。

落胆していたのですが、その後10日ほどすると、ある出版社の編集者から電話がかかってきたのです。

「興味があるので、鈴木さんと一回お会いしたいのですが・・」

よっしゃー!

首の皮一枚で、出版の可能性がつながりました。

30社アタックしたうち、1社のみ実際に話を聞いてもらえることになったのです。ただし、そこで大きな問題があることに気がついたのです。

それは・・・。

5.ドキドキの編集者との初コンタクト

ある中堅のビジネス書専門の出版社から電話がありました。

ぜひ、一度会って話を聞いてみたいと言われて喜んでいたのですが・・・当たり前だけど、会うって東京だよね?新幹線に乗って行かなければ。。当時の僕は仕事がなく、日に日に銀行残高が急減する状態。大阪と東京を往復する新幹線代約3万円弱も一瞬ためらいました。

それくらいにネガティブな状況のネガディブな精神状況でしたから。ところが、神は微笑むものですね。担当編集の方から逆提案をもらいました。「大阪で会いましょうか?」。偶然、その方が担当している著者の出版記念講演が大阪であるとのこと。開演前に、スタバで話をしましょう。こう言われて、新幹線代の節約になり救われた気分だったことを未だに覚えています。

そして、いざ当日、スタバでお会いすると開口一番にこう言われました。「若いっ!」。貫録のあるコンサルが来るかと思っていましたと・・・。冷汗を書きながらも経歴と企画の説明に入ります。その時、何かひらめいたように編集の方が逆提案してくれました。

「”経営者向けのテクニック集”では企画が漠然としすぎています。」

「例えば、”小さい会社がとことん儲ける7つのルール”みたいな切り口で書くことは出来ますか?」

実はこの時代、タイトルに”小さい会社のための~”と入っているものや、小さい会社向けのマーケティング関連の本が数多く出ていました。その筆頭格は、神田昌典さんとフォレスト出版の大躍進です。「あなたの会社が90日で儲かる!」というショッキングピンクのカバー本は独特の個性を持ってヒットしていました。その後も「口コミ伝染病」や「非常識の法則」という本は革新的で独特の市場を作っていました。(※ちなみに、ここから10年後に、僕もフォレスト出版デビューを果たす)

「ブームは去りつつあるけど、今ならギリギリ間に合うかもしれない。」「ぜひ、この切り口で一回、原稿を執筆してくれませんか?」

なんと素敵なセリフでしょう!夢にまで見た本格執筆に入れるのです。

「シ・ッ・ピ・ツ」

この言葉の響きかっこえー!
俺、作家みたいやん!(^^)v

与えられた執筆期間は3週間。ついに僕は出版デビューのチャンスを引き寄せたのです。ところが書き始めて分かったことですが、急に体調に異変が生じ始めるのでした。

その理由は・・・。

6.執筆って苦しい・・・

某中堅のビジネス書出版社の編集から3週間の時間をもらい執筆を始めました。ところが、いっこうに文字が進みません。もともとブログやメルマガの延長線上で書けばいいか。こう甘く見ていた僕は、いざ本格的な執筆になると書けないことに気づくのです。理論はいくら書けても、それは他の著者でも書けることです。

大切なことはオリジナリティや独自の経験、事例、新たなメソッドです。これがないと、本として価値を持ちません。そして、考えても考えても文字が出てこないのです。当然ですよね。当時は日々の仕事にも困るくらいで経験も事例もあるはずがありません。ましてや、ちょろちょろとメルマガを書いている程度です。それも、日経新聞の記事を解説したものに毛が生えた程度のレベルです。

こうして刻一刻と時間が過ぎていきます。3日間でやっと1ページ。

こうやって毎日机に座りながらも頭を抱えてしまう状態。

そのうち、体調がおかしくなっていきました。書けないことのストレスからなのか、顔中に発疹がたくさん出てきます。さらに、かゆいからバリバリと掻くと、”できもの”がつぶれて、変な汁がキーボードに落ちてきます。書けないことのイライラと皮膚の異常で完全に自信がへし折られてしまいました。しかし、ここで負けては全てが終わってしまいます。意地でも仕上げよう!歯を食いしばって、強引にネタをひねり出すかのように書いていきました。

これほど仕事で苦しいと思ったことはありません。夢にまで見たことが実は苦しかったことなんて。。。不思議な事に、書き上げた翌日から体中の蕁麻疹や顔の発疹がすっとひいてなくなっていきました。。。こうして何とか、ギリギリ納期に間に合い、担当編集に送ることができたのです。

ちなみに、どんな内容を書いたのか。

それは・・・。

7.こんな原稿を書いてみた

ある1社から原稿執筆を促され苦しみながら3週間で書いた原稿。いったいどんな内容を書いたのか。少しご紹介したいと思います。コンセプトは、”小さい会社がとことん儲ける7つのルール”です。これがコンセプトであり仮タイトルです。

当時はランチェスター経営や、神田昌典メソッドなど、小さい会社向けの経営テクニックがよく売れている時代でした。僕の場合は、コストをかけずに収益源を増やすという軸で整理をしていきました。

例えば・・・

・ノウハウを外販してコスト¥0で
利益を稼げ!

もしブライダル業を展開しているなら
培った接客ノウハウをパッケージ化し、
他社向けに教育業を行うという手法。

・超ニッチな市場に特化して高く売れ!

もし人材派遣をやってるなら、
日曜祝日、深夜のみの派遣に特化して
価格競争から抜け出すという手法。

(※当時は同分野でまだ競合が少ない時代)

・パッケージ商品で値引きから卒業を!

単品で売って価格競争に陥るなら、
他の商品と抱き合わせでパッケージに
したてること。

これで平均利益率を上げるという手法。

などなど、コストやリスクをとらずに、今すぐ現金化できるビジネス手法を自分なりに整理して書きました。この原稿は今でも十分通じる内容だと自負しています。また小さい会社向けの戦術に関してはこの時に理論的バックボーンが完成してきたように思います。

ところが・・・

この原稿は、フロッピーディスクに入れて保存していたのですが、引っ越しの際に紛失!(>_<)原稿のデータは今では手元に全く残っていません。ただ、今改めてこのテーマで書くならきっとかなり良い内容になると思います。当時は自分で考えただけの”空想メソッド”でしたが、今では、全て仮説検証で実証し、自分でも経験してきているからです。

さて、このように自分なりに”考えた”メソッドを原稿にして編集者に送付。そして、10日ほど過ぎた頃に、編集者から返事の電話がかかってきたのです。それは考えもしないメッセージでした。

「先日は原稿をありがとうございました。」

「結論から言うと・・・。」

8.はじまりはいつも挫折から

「鈴木さん、大変申し訳ないのですが、今回の話はなかったことにしてください」

開口一番に、こう言い放ちます。

僕には彼が言っている意味がまったく分かりませんでした。頭が真っ白になった後、とても熱くなった記憶があります。「なぜ・・・?」「つまり、今さら却下?」「企画採用って言ってなかった?」編集者いわく、こう話されました。

「原稿を読んだ後、類書も研究したのです。鈴木さんの着眼点はとてもいいのですけど、ハッキリ言って類書に勝てる気がしません。類書は読んだ瞬間にイメージが頭の中に広がる感じで引き込まれます。事例も豊富なので読者にお得感があります」

「なので、いったんこの話は無しにして、鈴木さんも本業で実績を積んで事例をためて下さい。出版はそれから再度考えましょう」と。

一気に肩の力が抜けていきました。

ちなみに、これは土壇場却下ではなく、元々、正式採用でも何でもなかったのです。実績もない著者だからいったん原稿を書いてもらってそれで改めて社内で採用するかどうかの企画会議にあげる。つまり、会社として出版採用を正式に決めたのではなかったということです。あくまでも、会社に許可をもらうために著者の実力を見ておきたい。そのために、先に原稿をフルに書き上げて下さい。こんな依頼を、僕は出版採用決定!そう勘違いしたまま進めていたのです。この担当編集の方を攻めてみても仕方がないことです。

いずれにしろ、あっけなく、出版デビューの夢は早くも挫折してしまったのです。

本業では仕事が無い、出版デビューも失敗に終わってしまった。当時の僕は八方塞がりになりました。でも、ここで泣いていては、生活すらできない状態です。ここで、いったん出版デビューの夢を保留にして本業に集中することを選択することになりました。確かに、実績が無い、裏付けのない理論では出版できるはずもありません。まずは経験値を高めよう。こう決意してまた立ち上がりました。

それから歯を食いしばって本業に集中し始めてから3年程が経った頃でしょうか。少しずつ仕事もとれるようになり、徐々に業績も上向いてきた時の話です。今度は、新たな出版デビューの話が何とまわりから持ち上がってきたのです。

そのオファーとは・・・。

9.オファーは突然やってくる

出版デビューの話があえなく立ち消えになってから3年弱。時は2004年の終わり頃の話です。

あるビジネススクールの事務局である知人から出版企画の話を頂きました。元々、僕は著名コンサルの大前研一さんのアタッカーズビジネススクール(通称ABS)というところの受講生です。いわゆる起業塾のはしりで、1997年と2000年に受講した古株。まだ大前研一さんの直接講義や世間一般人には知名度が低かった時の孫正義さんが講義に来ていました。

そして企画の話はこうです。ABSの関係者やOBでコンサルしてる人間で書籍をまとめようと思いますと。当時、研修の法人営業の強化も狙ってたABSはその営業ツールとしての書籍を構想しているようでした。10名ほどの共著であるということと、マッキンゼーOB”以外”での構成です。テーマ別に担当を割り振るので、執筆は20ページ前後でいいと。苦しみながら書いた3年前を思い出し、それなら気も楽だ。少しずつ経験も増えてきたし。。。こんな気持ちで二つ返事で引き受けることにしました。

僕の担当パートは、新規事業企画の評価方法についてというものです。共著という点が少し引っかかりましたが、贅沢なことは言えません。ともかく、今度は苦しまずに執筆も進み、ついに書籍は完成しました。

その名も、

『企業における「成功する新規事業開発」育成マニュアル』です。

一応、商業出版でしたが、価格はなんと4万円以上の専門書。

つまり一般的な書籍というよりは、各企業に、1冊マニュアルとして手元に置いといて下さい。詳細は、研修を我々がやりますからという特殊な位置づけの本でした。そのため、どれだけ売れるかという点に意識はいかずベストセラーなど望むべくもなかったのです。

出版デビューという事実は出来ましたが、単独著書という真のデビューではなく、どこか心に引っ掛かったままの”ほろ苦デビュー”となりました。ちなみに、単独著書としての真のデビューは、そこからまた5年後という時を待つことになるのです。

そして、その5年間の間、僕のまわりの状況は大きく変わり始めました。

それは・・・。

10.単独デビューのチャンス到来!

再スタートのキッカケはリーマンショックからでした。

出版デビューしたものの10名の共著、4万円の専門書という特殊なデビュー。実質、自分の中で出版デビューを果たしたとはいえない状況と認識していました。いつか単独での著者デビューを果たすぞ!そう思いながら、さらに時を待ちました。

時代は2005年の頃です。

出版以外の環境はめまぐるしく変わっていきました。2005年は小泉総理とホリエモンが暴れまわっていた時代です。まだ大阪にいた僕にも東京の大企業から続々とオファーが舞い込んできました。今まで「若すぎるから」という理由で、仕事にありつけなかった潮目が一気に変化。ホリエモンのように若いコンサルでも何か新たな突破口を開いてくれるかも。。。こう考えた大企業の新規事業開発部や経営企画部から続々と仕事をもらいました。そして、業績も収入もうなぎ上りになっていったのです。

その後、満を持して大阪から拠点を東京へ移して2007年に東京で第二創業を。赤坂の一等地に事務所を構え、社員を雇い、さぁ、ガンガンいくでー!と鼻息が荒い状態。ところが、その数か月後にリーマンショックが発生。2008年には、泣く泣く事務所を閉鎖、社員は退職、事業開発の投資用に調達した借金だけが残り・・・。上京して早1年で本業も暗礁に乗り上げてしまったのです。(>_<)

※ことの顛末は、起業日記をご参照ください。

こうなれば出直すために、自分を商品としてとことん売り出してみよう。こうして、1年ほどしてから、徐々に売り上げも回復していきました。そんな2009年頃、一つのことが頭をよぎりました。自分を商品として売っていくなら、やはり書籍を出して弾みをつけよう。今なら経験値と事例も増えてきたし。。。

そんな折、偶然にも一通のメールが会社のお問い合わせフォームから舞い込んできたのです。

そのメールの内容とは・・・。

11.入門書の執筆を企画することに

新規事業バブル、上京、リーマンショック、事務所閉鎖とジェットコースターな3年間が終わりました。そして、改めて自分自身を商品として売り出そうと新たな決意した頃の話です。ある出版社から1通のメールが届きました。

「出版をしませんか?ぜひ先生に本を書いてほしいのですが・・・」

2002年に出版デビューを志してからこれまで約7年間。挫折ばかりだったので、極めて冷静にそのメールを読んだことを記憶しています。

そしてすぐに返信しました。

「自費出版の売込みならお断りです!」

「出版を確約しない限りはお断りします!」

冷たくこう返事をしました。過去の挫折のトラウマもまだありますし、もう出版社にすがりつくようなことはしたくありません。

すると、すぐに編集者から返事がありました。

「自費出版ではありません。商業出版です。」

「先生の専門分野の新規事業のテーマがうちのラインナップにないのでぜひ書いてほしいのです。」

今度こそは、単独での著者デビューが出来そうだ。心の中では秘かにガッツポーズを繰り返していました。

※ここで少し余談を入れます。

出版デビューを目指す人はいかに編集者と出会えば良いのかに目が行きがちです。しかし、まずは出版に値するほど本業で実績を残す方が大切です。または一定数の熱狂的ファンがいるか、ノウハウがメソッド化されているか。今回、WEBで僕を見つけてくれたのは、WEB上では新規事業というテーマでかなり目立った存在だったからです。(2008~2009年時点)つまり、検索エンジンにおけるSEO対策がしっかりと効いていたことと、サイトでも実績やメソッドを明確に打ち出せていたからです。

さて、話題を戻します。

詳しく話を聞いてみると、こういう主旨のオファーでした。ビジネスの入門本でシリーズ展開をしているものがあります。文章術や営業など様々なラインナップがありますが新規事業だけがありません。そこで、100個ほど、Q&A式で新規事業のポイントを整理して下さい。そんなこと位は、当時の僕にとっては朝飯前です。すぐに、100個ほど目次に見立てて、企画書に仕上げてお返事をしました。

「それではこの企画書で企画会議にかけてみますので、しばらくお待ちください。」

こうして10日ほど待った頃でしょうか。

一本の電話が編集者からかかってきました。今回だけは単独著書のデビューが決まりそうだ。浮き浮き気分で、その電話を受け取りました。そして、編集者は開口一番こう言いました。

「今回の企画に関してですが・・・。」

12.その出版企画は読者がいるのか?

やっと来た単独著者デビューに向けたオファーのお話。

企画書提出から10日後に担当編集からお電話がありました。

「今回の企画に関してですが・・・。」
「鈴木さん・・・本当にすいません・・。」

「企画会議で実は不採用になったのです。」
「確かに魅力的な企画とテーマですが、”新規事業”では読者数が少なく、市場が小さすぎるというのが理由でした。」

またもや、壁に阻まれました。

「またかぁ・・・。」(>_<)

出版を志してから、この時既に7年ほどが経とうかとしていました。挫折に次ぐ挫折は、いつ打ち止めになるのであろうか。しかし、今回は意外にも冷静に結果を受け止めることが出来ました。一つの学習をしたからです。

それは、たとえ出版企画の内容が魅力的でも必ずしも出版社が扱うとは限らないことです。当たり前ですが、出版社も営利企業です。売れないものは、どれだけ魅力的に見えても、それは魅力的な商品とは言えません。つまり、一定の読者層が世の中に存在しても、その市場が小さければ出版社は扱わない可能性が高い。専門書としてロングセラーを狙うとしても市場性の大小はやはり大切なポイントです。

中身の問題だけではなく、市場性や売れ行きの問題です。出版業界を特別視していた僕がアホでした。コンサルと名乗りながら恥ずかしい限りです。市場性があるかどうか。これはビジネスの基本中の基本です。

さて、それからは書籍のことは考えずにひたすら本業のコンサルや研修に集中。また機会があれば、その時はその時。こうやって肩の力を抜いて自然体で出版デビューの夢を位置付けることに軌道修正したのです。それからは、毎月のようにセミナーを行い、告知、集客、営業、受注、実施の繰り返し。

そんな折、ビジネス書業界では個性的なある書籍がヒットを飛ばしていました。

それは、「フリー〈無料〉からお金を生みだす新戦略」という本で350ページのハードカバー本です。

 
分厚い本ながら、インテリ層を中心に、これからのビジネスモデルについての解説が受け入れられていたのです。僕もとっても興奮しながら読んだ記憶があります。さっそくこの本のポイントと独自解説をつけたセミナーを企画しました。そして、集客を開始するのですが。。。ふと思い付きで以前企画倒れになった際にお世話になった編集者にも声をかけました。すると即、参加します!とのメールが返ってきました。

実は、この1通のメールが僕の運命を後に大きく切り拓くことになるのです。

それは・・・。

13.ついに、正真正銘の出版デビューへ!

「フリー戦略」を解説するセミナーに思いつきで編集者をお呼びしました。

そして、セミナーの方は大盛況で終了。このセミナーは、あくまでも僕の本業でコンサル受注をとるための宣伝が目的です。出版とは関係がなく開催したものです。しかし、終了後、編集の方から、こう言われました。

「鈴木さん、セミナーすごく良かったです!」

「これ、本にしてみませんか?」と。

いやいや、「あなたねぇ・・・前回もそんな感じで期待持たせておいてまたですか?今度こそ期待裏切らないですよね~?」、半信半疑で冷静に受け止めました。すると、編集の方はこう言います。

「実は社内でもこのフリーという本が話題になっていまして、日本の事例を使ってもっと簡単に書ける著者がいないのか?という話になっているのです。だから、さっそく次の企画会議であげてみたいのですが・・・」

なるほど、その状況を考えると今度こそは期待が持てそうですね。でも、本当かな~?今度は著者を探しているので採用される確率が高いかもしれない。。。冷静を装いながらもやはりオファーを頂くのは嬉しいものです。

そして企画書を提出してから2週間ほど経った頃でしょうか。この日は、出版企画会議がある日です。秘かに、朝からドキドキソワソワ・・・。昼の14時を回った頃でしょうか。ついに編集の方から電話が入りました。

「鈴木さん、決まりました!企画採用ですよ!」

ついに、この瞬間が訪れました。自分史上初の単独著書デビューが決定したのです!なんと出版を志してから、7年越しの目標達成!!もちろん、心の中ではガッツポーズ!!今なら出版塾か出版プロデューサーと組んで近道を模索したことでしょう。しかし、当時は一円も本業以外にかけれない
事情もあって自力にこだわってきました。そのため、デビューは遅れに遅れたのです。

デビュー作は、”無料でも儲ける”という切り口の「ビジネスモデル」をテーマにした内容にこの時点で決まりました。

さて、意気揚々と詳細な打ち合わせに編集者と入ることになりました。ところが、はじめから思わぬ出来事に、先行きが不安になってしまうのです。

それは・・・。

14.契約書と印税について

単独著書の出版デビューが決まり、7年越しの目標が達成されました。

「さぁ、では契約書の中身はどうなります?」

僕の言葉に意味が分からないような顔を編集者がしてきます。

「いや、出版業界ははじめに契約書を結びません。発売直前か発売後に取り交わすのが通例です」

「は?」

「それでは信頼関係が構築できないではないか?後になって、やっぱり発売中止!って言えますよね。そうなれば著者が執筆損になるではないですか!」

あきれた編集者は、こう返してきます。

「確かに理屈上はそうです。ただ、これは業界慣習で他の業界と違っても、僕の力ではどうすることもできないんです。」

契約書もなしに、仕事を始めたことがない僕はかなり戸惑いました。

しかし、ここで杓子定規にやりとりしていても埒が開かないので、素直に従うことにしました。契約も結ばないままの執筆に不安を抱えながらとにかく執筆に専念することになりました。後で知ったのですが、なぜだか未だに出版業界ははじめに契約書ありきではありません。契約だけは事後対応になります。

・出版採用
・発売時期
・仮の初版部数
・印税率

この大切なポイントだけを口頭ではじめに握っておき契約書は結ばずにスタートする。これが業界慣習のようですね。普通のビジネスでは考えられないことですが、それを言っても始まりません。発売は2010年5月に決定。

タイトルは、『価格を無料にしても儲けが出る仕組みのつくりかた』です。

今度は、かつての自分と違い、執筆もすいすいと進みました。本業で経験と見識を積んできた成果です。

さて、そしていよいよ発売日を迎えます。

果たして、反響は・・・。

15.出版記念講演からの失意

2010年5月に出版デビューが決まり、今度はすいすいと執筆も進みました。

そして、晴れて発売日を迎えるのです。並んでるー!紀伊國屋など主要な書店巡りを一日かけて行いこの目で確かめました。やっと自分の本が書店に並んだのです。とにかく、自分の書籍が書店で平積みになっているのが嬉しくて、書店巡りを毎日のようにしていた記憶があります。そして、立ち読みしている人を見つけるとみんなにハグしたくなるほど。。。照れくさいやら、嬉しいやら、何とも言えない気持ちで書店デビュー。

さらに、八重洲ブックセンター本店で出版記念講演まで開催が決まりました。知名度がなく集客に不安を持たれた書店が当初難色を示したそうですが、営業の方が、うまく調整してくれました。結果的には80名を全て自力で集客し、満席状態になったのです。また、友達が当日の会場の即売会でも手売りを手伝ってくれ、用意した在庫は即日完売しました。そしてビジネス書フロアでは、1週間で200冊近く売れたので、ビジネス書フロアにおける週間ランキング1位に躍り出たのです。時は勝間和代ブームの前の時代です。

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出版デビューすると、まわりの友達も本当に喜んでくれ、誇らしく思ってもらうようになりました。この時以来、他人に紹介される時は、「コンサルの鈴木さんです」ではなく、「本を書いている鈴木さんです」という紹介のされ方が増えてきました。そして、台湾での翻訳版の発売も決定し、順風満帆なデビューを果たしました。

ただ、ひとつだけ気がかりなことがあります。

それは、「増刷」の連絡が入ってこないのです。売れれれば、その分だけ機会損失がないように「増刷」するのが普通です。確かに書店では平積みにされてる店も減ってきましたが・・・。

それから、2週間経ち、3週間が経ち、いっこうに増刷の連絡が入りません。また、まったく仕事のオファーも本から来ることはありませんでした。

なぜなら・・・。

16.増刷できない理由とは?

出版デビューを果たし、順風満帆なスタートを切ったものの実際の本の売れ行きは期待外れな状態が続いていたようです。

夢にまで見た「増刷」という言葉は最後までデビュー作では聞くことがありませんでした。売れないから、当然、増刷もないですし、本を見た読者から仕事のオファーが来ることもありません。また3週間ほどすると、一気に書店から本が姿を消していきました。出版業界は返品制度があるため、売れなければ書店が返品する慣習です。そのため、時間が経つにつれて自分の書籍が書店から消えていったのです。

ある意味、出版は、コンビニの新商品の置き換えよりシビアな世界かもしれません。発売から1~2週間で売れるかどうかが増刷への試金石にもなります。そのため、通称”初速”(スタートダッシュ)に全てをかけて勢いをつけることを考えます。当時の僕はとにかく書いて出してまでで精いっぱいなので、売ることまで頭がまったく回っていませんでした。

このデビュー作で、大きく学べたことは、本は「作る」ことだけではなく「売る」ことにも力を入れなければいけない。一般のビジネスでも同じですが、「商品力 × 販売力」の掛け算なのです。どちらが欠けても売れません。かつて勝間和代さんが、”本は書くこと以上に売ることに力を割く”こんな発言をして物議をかもしました。でも、これはとても本質なのです。

こうして増刷の夢を果たせなかった、デビュー作ですが、デビューしてから一カ月ほど経ったあと、気持ちを改め、次なる一手を打つことに取り掛かりました。

その一手とは・・・。

17.失意から一転、新たな出版が決定

残念ながら「増刷」されなかったデビュー作。

今度は、本を「出す」だけではなく、「売る」「売れる本」を意識して、新たに出版活動を再開することに。それ以来、独自に売れる本の作り方をかなり研究していきました。売れる本のタイトル、売れてるカテゴリー分析、売れている本の文体、装丁、目次、著者分析。これらを独自に分析しながら、ヒット著者はどう販促したのか。これらも各種単発の出版セミナーに通いながら学んでいきました。そして、デビュー作の担当編集の方とブレストして次回作のアイデア出しも。単発で出版プロデューサーによる企画書の添削サポートも受けるなど次々に手を打っていきました。

そんな中、2つの企画が生まれました。

一つは、デビュー作の担当編集との話の中で「スピード行動力」をテーマにした本です。僕自身は今でも提唱している”引き算思考”の本を書きたかったのですが、出版社の方で、それよりも鈴木は行動のスピードがはやいのでそれをメソッド化し、本にすれば面白いという評でした。

二つ目は、本命の企画で”引き算思考”を頭の中の整理術という切り口に仕立て上げ、所属しているエージェント会社を経由して一斉に出版社に企画書を郵送してもらいました。この企画はデビュー作の担当編集者が難色を示したので仕方なく別会社へ持ち込むことになったものです。

さて、その結果はどうなったでしょうか。

3か月以内に、なんと2つの企画が採用されました!!

僕の読者であれば、もうお気づきになったのではないでしょうか?

この2つの企画は2011年に、実際にこんな本になって世に出ました。

一つ目は、『すぐやる人になるための仕事のやり方・考え方』

二つ目は、『1分で頭の中を片づける技術』

さて、それぞれ2冊の本はどんな運命をたどったのでしょうか。

それは・・・。

18.やったー!夢にまで見た初増刷!!

あまり売れなかったデビュー作の後、編集者とのブレストで生まれた二作目『すぐやる人になるための仕事のやり方・考え方』は、仕事術系の本ではど真ん中のタイトルで変化球もなく出しました。

レスポンスが早い僕の行動はメソッドで書籍化すれば面白いのでは?

そこから始まった企画は、発売後、”それなりに”市場に受け入れてもらったように思います。なんてったって、初の増刷がかかり、その後も軽く1万2千部を突破しましたからね。そう言う意味では、初の小さな成功体験の本でした。初の増刷と、大台の突破。着々と進化している自分を確認できたことが一番うれしかったです。この頃から、著者デビューするまでの苦労を忘れ著者としての自覚が沸きました。これはごう慢という意味ではありません。

いかに本を出すかではなく、いかに売れるかに視点が切り替わったという意味です。

この本は爆発的ヒットにはならなくても定番のテーマなので堅調な伸びでした。また特に若手社員向けに受けがいいので社員研修の副読本として企業でまとめて導入してもらったり、この後、年間で平均20本ほどの講演や研修のお仕事につながりました。そういう意味では、仕事にもつながった自分史上初の事例でしょう。

そして、今度はまた別の欲望も湧きあがってきました。

もっともっと売りたい。

もっともっと売れっ子になるために何をすべきなのか?

ちなみに、この頃は本が売れることが自分のビジネスや金につながり、もっと言えば、自分の自尊心(見栄)をどう満たすかという点に執着していた気がします。そうはいっても、この勢いを継続したい。この勢いは現実化して、3冊目に引き継がれていくのです。

さて、それでは3冊目はどのように完成し、反響はどうだったのでしょうか?

それは・・・

19.自己ベストの売れ行き

さて、同じ2011年に発売された3冊目『1分で頭の中を片づける技術』はどんな反響だったでしょうか?

この作品は、僕の所属しているコンサルのエージェント会社経由で郵送した企画書に興味を頂いたところからスタートしました。たしか20社ほど企画書を送って頂いた中から1社が手を挙げてくれたのです。この書籍は、企画書段階で仮で書いたタイトルがそのまま実際にタイトルになったものです。

それくらいタイトルの魅力も強かったのです。当時は、1分で~という書籍や、お片付け本が今と同じく売れていました。そこで、僕の得意な思考の整理術を土台に売れ筋タイトルをつけて企画にしました。サブタイトルは、”頭の中がゴチャゴチャしてませんか?”と、問いかけるもの。これが結構刺さったようです。あっさり採用され、いざ執筆にかかりました。

ところが、この作品はなかなか執筆の手が進まず苦しい思いをしました。

なぜなら、より広く多くの人に読んでもらうためにかたい文章はダメだ。戦略的にポップな感じの読みやすさを追求しましょうという話になったのです。コンサルなのでかたい文章はいくらでも書けるのですが柔らかい文体は難しくかなり書き方に悩みました。2か月ほどの執筆期間を頂きましたが、実質、10日ほどで書き上げました。実は、本邦初公開のこれが実情です。

うまく書けないことのストレスから逃げ、毎日のように飲み歩いていたからです。あの作品をまともに執筆着手するまでの1カ月と20日ほどは過去最高なまでに飲み歩きました。気がつけば、夜の女性たちとたくさん顔なじみになっていました。

さてさて、こうして苦労して書き上げた3冊目はとても反応が良かったです。編集の方から、はじめはよく携帯に電話を頂きました。

「鈴木さん、増刷が決まりました!」

はじめは興奮していた僕も、「はい、分かりました。」「ありがとうございます。今回もとくに修正はありません。」こんなセリフと共に、”増刷”という響きはもはや普通になってきたのです。そして、この書籍は、いくつかの書店でベストセラーランキング入りしたり、約4万部に行くなど、自己ベストを更新する代表作になったのです。

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20.出版デビュー後の生活

出版を3冊終えた時点ですべてはハッピー!というわけにはなりませんでした。続々と出版オファーが舞い込むと期待したものの、ピタリと音沙汰がない日々が続いたり・・・逆に出版セミナーで新たに企画書をブラッシュアップして、新たに採用されたり・・・

頭を打ちながら、そして笑いながらも順風満帆ではないジグザグな著者生活を本業の傍ら続け、気づけば2018年時点で11冊を出すまでになっていました。ここで振り返りをしてみたのです。

自分にとって出版活動とはいったい何なのか?

僕の場合はビジネス書なので、世間にある問題を解決するヒントを本という形式でご提供すること。これが出版の意義ではあります。結果としてブランディングされ、自身の本業や収益につながることもある。この現実に変わりはありません。しかし、出版活動を通じて一番感じたことは、人にコンテンツを提供しているつもりが、一番自分自身の頭の整理になっている。そして、頭の整理で得た自分の想い、ノウハウは自分自身の血となり肉となるということです。

また、思ったように企画が採用されない、思ったより売れないなどは日常茶飯事のことです。そんな時に自分は頑張れる人間か、どういう風に壁を乗り越えるのかなど、自分を試す機会にもなったということです。こうして考えてみると・・・

出版活動とは、「真の自分を知り、次のステージへ行くための扉を開ける活動」ではないか。そう結論付けました。

「出版は目的ではなく、手段である。しかし、限りなく目的に近い手段でもある」、そんな気もします。人のお役に立ち、自分の成長にもなりますからね。

出版デビューで人生は変わる!というほど世の中は甘くありません。
しかし、出版デビューで人生は変えられる!という事実はあります。

どんなこともそうですが、「変わる」のではなく自らの意思で「変える」のです。最後は、やってやってやって、やりきるのです。志さえあれば、すべての壁は強行突破ができるはず。

意志が弱い凡人の僕でも、わずかながら自ら実証できたことは何ごとにも代え難い誇りとなりましたよ。

その後の顛末の詳細は以下のブログでも公開していますので、こちらも併せてご覧ください。

また、著作一覧は個人サイトでも公開しています。

長文、ここまでお読みいただきありがとうございました。

あなたにとって、何かのお役に立てば幸いです。

著者・思考の整理家 鈴木進介

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