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凡人起業のリアルと末路【後編】

【前編】のバックナンバーはこちらからご覧ください。この話は凡人起業家が見てきたもの、経験してきたものをシェアするものです。華々しい武勇伝や成功談はゼロです(笑)だからこその価値を感じ取っていただければ幸いです。

まずは前編(1~15)の振り返りを。

16.転落と堕落

売上は殆ど上がらず、出版の道も閉ざされて、八方塞がりになった頃の話。その後、僕の心は決壊し、どんどん堕落していきました。世の中は、同世代の起業家が上場したり、WEB2.0というムーブメント(ブログが世界的に浸透し始めた時代)で若い起業家が注目されたり・・・それなのに自分は仕事はないし、打った手は全て空回り。社会やまわりの人への嫉妬、ひがみの気持ちで毒されました。

当時すでに結婚していましたが、妻は派遣社員ながら月給は30万近く。僕は目いっぱい死力を尽くしたのに給料は12万円で妻の半分も稼げてない。そんな状況に、子供のようにすねてしまいました。今でも忘れません。ある妻が午前休の日。午後から仕事だからと昼前に駅まで車で送っていくのですが。。当時の僕の起床時間は二度寝も入れて10時を過ぎてから。目は覚めていても、布団から出たくなかったのです。

そして、嫌々妻を駅まで送ろうと家を出たのはいいのですが、マンション内ですでにへこんでしまう心理状況に。幼稚園に送った後、何人かのママ同士で会話を楽しむ中、かきわけて駐車場にたどりつき、妻は仕事着、僕は私服にサンダルで運転手役。もちろん、白い眼線が僕の背中に突き刺さってきます。あの人は何の仕事だろう?こんな時間に何してるんだろう?無職かな?そして帰宅したら、また家にこもって脱力感に陥る状況でした。この時の屈辱感と寂しさは昨日のことのように鮮明に思い出せます。

そんな生活も、3か月を過ぎようとした頃、もう一回頑張ってみようと思うキッカケが突然舞い降りてきました。テレビで見たある元野球選手のインタビューが僕を救ったのです。

その元野球選手の言葉とは・・・

【考察】

明けない夜はない。

17.絶対に再起するぞ!

仕事がなく自暴自棄になり、自分を見失いかけてた頃の話。あるテレビ番組で元巨人の角投手が自分を振り返るインタビューが放映されていました。巨人軍を退団した後、野球解説者として仕事もない時。家でダラダラと寝ながらテレビを見ているだけの、すさんだ生活。そんな時、奥さんに、どうせ時間がたっぷり余ってるなら球場に足を運んでスコアをつけ自分なりに研究したら?それ以来、あらゆる球場に足を運び、野球解説者としてのスキルも磨いたと言います。その後、彼はタレントとしても活躍するようになりました。実はテレビで観たなぜか角さんの奥さんの言葉が僕にすっごく刺さったのです。

それ以来、僕はふて腐れて自宅にこもっていた生活を一変させました。まずは外に出て人に会おう!それからは毎日講演、勉強会、セミナー、交流会の参加の日々。スキルアップではなく、とにかく自分に刺激を入れるため。こうして少しずつ精神的に落ち着きを取り戻し始めた頃、紹介で大きな大きな案件が僕に舞い込んできたのです。

経営の神様が創業された某大手家電メーカー・・・。

この案件は僕の生活を救うと共に、今の仕事の原点につながる運命の案件になったのです。その仕事の中身とは・・・

【考察】

些細な言葉が人を救うこともある。

18.やっとチャンスをつかむ

はじめて大きな案件のオファーが舞い込んだ頃の話。大手企業からの初受注は、某家電メーカーでした。白物家電部隊からのオファーでしたが、当時は白物家電は差別化が難しいとされる時代。単なる営業強化や商品開発ではない新規事業創出をしましょう。こんな提案が受け入れられ、700万円の仕事を受注しました。正直言って、この金額は自分で見積もりを書いたもののビビリましたね。あー、決まっちゃった~。(^-^; これがその時の気持ちです。嬉しさよりも、どうしよう・・という責任重大の焦りの方が大きかったものです。

初の大企業案件に自信がなく結局先輩とコラボの形式をとってもらいました。プロジェクト内容は、「新規事業創出ワークショップ」です。5か月間のプロジェクトでしたが、この仕事は本当に楽しかったです。5か月後には受講生の目の色が変わり、仕事の意欲とスキルは当然急上昇。そして最後には、皆から感謝される始末。単なる研修講師ではなく、実践的アドバイスと圧倒的行動力のサポートで感銘を受けましたと。これが今の研修ラインナップの一つである「新規事業 白熱教室」につながる原形だったのです。

僕の才能と使命は、この時の原体験が全て影響している。振り返れば、確信を持ってそう言えますね。ようやく自信を持って仕事に取り組め、こうして独自で顧客開拓ができるようになったのも起業してから早4年が過ぎてからでした。

そんな時期に、やっとの思いでサラリーマン時代の給与水準も抜くことができました。なにしろ、無給は当然のこと月給12万が3・4年続いたわけですから。起業後初めて月給50万を上回り、会社員時代の給与水準を抜いた時。記念に買ったのが、今でも大切に使っているカルティエの腕時計です。これ以降、新たに時計を買っても、結局はこのカルティエばかり。また、それまでは知人経営者のビルに無償で間借りさせてもらっていましたが単独で事務所を心斎橋に開設。大阪市中央区で、市外局番06~を名刺に刷り込めた時は本当に嬉しかったですね。東京で言えば港区や千代田区で市外局番03~を持つのと同意味です。この住所と市外局番の価値は貧乏起業の経験者しか
分からないかもですね。。。

当時はレンタルオフィスやシェアオフィスの類は殆どない時代でしたから。これからは、東京の大手企業からもオファーを頂くようになり、順調に階段を上がっていけました。ただ、どこか浮かない気持ちも心の片隅には残っていたのです。仕事は順調でも・・・

この先何を目指しているのだろう?
何を目指して生きているのだろう?

いわば自分の使命やビジョンを明確に持ってないことに気づいたのです。そんな頃、人生観を揺るがすある出会いが起きました。

その出会いとは・・・

【考察】

ガムシャラにやれば、誰でも何とか生きれるものだ。

19.使命の芽生え

仕事が順調に増えてきた頃僕は30歳を越えようとしていました。仕事は順調なのにどこか情熱が薄いなぁ。そう感じた僕には働く目的、もっと言えば生きる目的が希薄化していたのかもしれません。

そんな時、友人から紹介された書籍と運命的な出会いをしました。それは吉田松陰の生涯について書かれた本でした。ハマりにハマった僕は、友達を誘い男4人ですぐさま山口県へ飛びました。松下村塾がある松陰先生の故郷である萩市です。(旧長州藩)ちょうど僕と同じ年齢の30歳で日本の将来のために命を捨てたこの情熱は何だ?調べてみると、松陰先生が講義していた2年足らずの間に育てた弟子は、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、久坂玄瑞、木戸孝允など幕末のスーパースターばかり。

そして松下村塾の敷地内で特別拝観していた「留魂録」を目にすることになります。2メートル以上もある長い巻物の結論は、肉体は死んでも魂はこの世に残す。そんな内容の松陰先生が死刑前日にしたためた遺書だったのです。この高潔な生き方に感銘を受け、体中に稲妻が走ったことを昨日のことのように覚えてます。

同じ30歳で一方の若者は、ほどほどの仕事とそこそこの成果。

一方の若者は弟子を育て、国家のために死に後世に絶大な影響を与える心意気を示した。

この違いに絶句さえしてしまいました。そして、松陰先生をリスペクトし、憧れ、自分も心を伝える仕事がしたい。教育や言葉を通じて人を救い、国を救う仕事が僕の生きる目的である。

そんな直感的なひらめきから、大きな人生の方向性はこの時に運命づけられました。こうして起業して5年を経て有限を株式会社にし、社名も変更。もう一度日本の元気を取り戻し、人に活力を提供し、人や国の羅針盤の存在になりたい。こうしてコンパスという社名と、日の丸が右肩上がりになるイメージのロゴマークができました。

さて、あとは大阪で小さくまとまってる場合ではないと考えていたころ、東京の大企業からも続々と大阪にいる僕へオファーが押し寄せてくる追い風が吹きました。

よっしゃ、いざ江戸へ攻めあがろう!

こうして起業後5年の時を経て、使命と覚悟が出来たのです。

【考察】

使命と覚悟を持った時、人は最強の力が引き出される。

20.逃げるように上京物語

大阪にいた僕に東京の大手企業からもオファーが来るようになった頃の話。ひとつのショッキングなことがありました。それは大阪で受けた仕事とほぼ同じ内容の仕事ですが、大阪の企業は月額25万円、東京の企業は月額50万円。企業規模や業績、状況、内容も酷似している案件で2倍の価格差。この価格差は何?愕然としましたね。しかも大阪の某企業は契約後の度重なる値引き要請の上に、支払い間際でゴネ出す始末・・・。

当時の大阪は万年不況と呼ばれ、値引きの文化が根強くありました。値切った人は誇らしげになるものの逆に外注潰しになり東京進出を増やす悪循環に陥っていました。ましてやコンサルのようなサービスは東京でないと中々余地がありません。そんな時、東京では同年代の起業家が新興市場に上場し、時代はWEB2.0、そしてホリエモンバブルと続いていきます。

仕事も順調で、やりたいことも見つかっていた僕も、やりたいことが見つかってるつもりというだけでした。同年代の起業家に嫉妬し、東京にひがみ・・・。今度は「他人に勝つためには?」という視点だけが日増しに強まりました。そして、他人に勝つためにどんな事業を手掛けるべきか?また、スピード感、コスト感が全く僕の肌には合わない大阪からいかに脱出すべきか。せっかく仕事が順調になったのに、僕の心は一気にネガ臭が蔓延しました。

そして、悶々としながら、2年ほど東京と大阪の往復で暇があれば新幹線生活がスタート。

後は、大阪からの卒業を決断するカウントダウンに入るだけでした。そうなんです。僕の上京とは一旗揚げてやろう!というような格好いいものでは決してありませんでした。逃げるようにして出てきたというのが現実なのです。食っていくためには仕方がありません。

では、どうやって東京での下地をつくっていったのか。

それは・・・

【考察】

大阪の商売の厳しさは、精神力を育ててくれる。

21.あこがれた花の都 大東京

出身地の大阪を離れて東京移転を考えていた頃の話です。2年間ほどは大阪と東京の往復で、東京へ来るたびに夜な夜な飲み会。2~3人の知人を起点に飲み会を主催して知人、友人を増やしました。そして、仕事確保のための企業訪問、住所だけのバーチャルオフィスの開設。こうして順調に顧客開拓や人脈作り等東京進出への布石は打ってきました。

ロゴマークも、より日の丸のイメージを強調したものにマイナーチェンジ。名刺はいかにも高級アパレルブランドが使いそうな厚紙と箔押しで気合い充分。その頃は、当時いた社員も退職していたため、たった1人で東京で出直すことに。事務所は、会社のイメージを考え表参道、青山周辺にしようと思いました。

そして、表参道の不動産屋に行くべく、地下鉄の駅を上がったところで、なんと雨上がりの宮迫さんに遭遇。翌日には、同じく表参道で女優の広末涼子に遭遇。すげ~!やっぱ東京は芸能人が普通にいる!テンションMAX状態で、赤坂のど真ん中の高級マンションに事務所を見つけて契約しました。

こうして意気揚々と東京での第二創業が始まりを告げたのです。

しかし、徐々に「嫉妬」と「経済の悪化」という暗雲が近づいてきていました。

その暗雲とは・・・

【考察】

一世一代の決断は、自分の内なる声に素直になるべし!

22.第二創業を目指して

公私ともに大阪を離れて、上京した頃の話です。首都圏での顧客開拓も順調に進み在阪企業の契約も更新され、順調に再スタートを切りました。ただ、またどこか心に引っ掛かることが横たわっていました。それは同年代の起業家に対する嫉妬心だったのかもしれません。

時代は変わり、30代でも上場企業の社長というのは、もはや珍しくなくなっていました。もちろん、僕と同じ年や年下の経営者で上場した人も数人いました。そんな中、僕は小さくコンサル業をしたままの状態。僕はやっとの思いで東京進出、片や上場企業へ上り詰める同年代。この違いは何?むくむくと、「俺だって・・・」「俺の方がすごいのに・・・」「あんな奴が・・・」こんな訳が分からない負けず嫌いで嫉妬心の塊が芽生えだしたのです。

ここからは、社会でも顧客のためでもなくただ同年代の経営者に勝つために。また、自分の能力を実証するために。そんなおかしなモチベーションの方向性のもとに新たな事業を模索し始めました。

そして、ある時ひらめいた構想を事業化すべく動き出したのです。

その事業とは・・・

【結論】

嫉妬心は自分自身を、迷走させる元凶である。

23.もう一度事業を立ち上げたい

上京後、一コンサルから再度の起業家を目指し第二創業を試み始めた頃の話。アイデアのひらめきは突然です。ちょうどその頃、ある飲食店を利用した際に、ブチ切れるほど不快な出来事が発生しました。そして、クレームを押し殺してる頃、ビジネス雑誌で見つけた覆面調査の市場が伸びているという記事に啓示。この2つが直感的に頭の中で交錯し、覆面調査事業を核にしたCSに関するコンサル事業を思いついたのでした。

具体的には飲食等ホットペッパーに、掲載されている業種の顧客満足調査やそれを核にした各種経営支援業です。

(事業のサイクル)

調査⇒研修⇒コンサル⇒集客支援⇒リピート率改善。

(課金ポイント)

・調査の受託料
・CS研修受託料
・CS戦略立案受託
・集客サイトでの広告収入
・店舗予約サイトでの予約手数料
・覆面調査員派遣事業
・CSデータの販売収入
・システムの外販
・CS認証制度による認証料収入

このサイクルを労働集約的なモデルと携帯を使った調査やメディア事業で展開していくこと。これにより単なるコンサルではなく事業としての規模拡大が見込める。しかも希少性を出すために、「子連れ客にやさしい店」で集客の核にする。こんなコンセプトでの展開をSTEP1の入り口事業に据えました。

また日本で一番「おもてなし」のデータベースを構築できれば、そのデータを活かして、自社で各種サービス業を直営展開していく。

例えば、

・リストランテ コンパス
・コンパスカフェ
・ヘアサロン コンパス
・ホテル コンパス など・・・

コンパスという社名を冠にしたサービスグループを創るという構想。

「これで俺も将来はホテル王だね。」

コンサルを入り口に、最後は自社で事業展開をして財閥だな。しかも日本の「おもてなし力」で世界展開は十分可能。受託ビジネスからメディアビジネス、そして実業への発展という流れ。こんな妄想が瞬時に頭の中に広がりました。当時は、スマホも草創期の10年以上前です。ビッグデータという概念もないし、「おもてなし」の言葉も徐々にという時代でした。

そして、CS(顧客満足アップ)支援事業の準備を始めるため、コンサルや研修を手掛けながら、もう一つの柱の立ち上げ準備という二重生活が始まったのです。

その生活とは・・・

【考察】

妄想は間違いなく、行動を後押しするパワーになる。

24.いざ、事業の立ち上げだ!

上京し、CSを核にした総合サービス事業へ進出しようと考えていたころの話。構想は何とかパワポに落とせたけど・・・決定的に足りないピースがありました。それは、これを立ち上げて、推進する人の問題です。そこで、当時クライアントだった中から友達であり優秀な方を引き抜き、パートナーとして迎え入れました。その後、事業計画の詳細、サイト作り、パンフレット制作、システムの構築、営業活動など久しぶりに起業の高揚感に包まれました。

その頃は本業のコンサル事業でも順調に大手の顧客も契約を獲得していたので、コンサルと研修で稼いだお金を新規事業に投資するという資金繰りで経営していました。その後、増員、バイト、インターンと人材面でも拡充していき、一部、借り入れも起こしますます意気揚々と・・・。これはガイアの夜明けから取材くるな!そんな妄想まで湧き出てきました。マンションの一室から事業を構築するという高揚感は学祭の模擬店出店前と似たような感覚でしょうか。さて、とにもかくにも、事業構想や立ち上げに必要な原形が出来ました。

ところが、時は2008年夏。

ゆっくりと暗雲が立ち込めてきたのです。

その名前は、リーマンショックです。

まぁ、あまりうちには関係ないね。そう軽く考えていた僕はその後、一気に頭を打つことになるのです。

それは・・・

【考察】

起業や新規事業ほど、楽しい仕事はない。

25.リーマンショックが襲い掛かる

第二創業だと意気込んで自社の新規事業を立ち上げてた頃の話です。事業の原形ができ、体制も作りこれからは受注拡大あるのみ。そう思っていた時、アメリカではサブプライムローンの問題で経済乱調が始まりました。その頃、僕の会社は、事実上、僕一人のコンサルや研修の売上で資金をやり繰りしていた状況。スタッフを入れ、事業構築の経費を一人で賄うには限界があります。とにかく新規事業での受注スピードや現金収入にこだわりました。

ところが、その後リーマンショックが襲い、秋頃には状況が一変し始めました。ベース収入であったコンサルの仕事は殆どがストップ。商談は中断し、既存クライアントも遠方は新幹線代が出なくなりました。急にそう言われ、途中で終わる案件もいくつかありました。コストの固定費だけは増え、売上は一気に途絶えるわけです。本業のコンサルや研修で稼いだお金を新規事業に投資して全体を膨らませる。このサイクルが一気に断ち切られる結果になりました。

こうなると想像以上のスピードで会社の残高が目減りして止まりません。もはや目先の現金確保以外に動く手立てはありません。既に自分の給料支払はストップしていましたがいつしか焼け石に水に。これ以降、経営の先行きが全く見えない状況になってしまいました。

仕事ではクライアントに、一喜一憂せずしっかりしろ!

そう激励しながらも、自分の会社はまさに火の車だったのです。無理してつくる笑顔と気合いは、僕にかなりのダメージを与えました。また、自分のプライドも何もかも破壊していったのです。あの時の精神的苦しさは今でも忘れません。そして、その後は大きな決断をせざるを得なくなりました。

リーマンブラザーズが9月に破たんし、季節は寒さを感じ始めた頃です。

その決断とは・・・

【考察】

どんな経済状況も、自社と無関係でいられない。

26.断腸の思いで撤退へ

リーマンショックが会社を直撃し、会社が一気に傾き始めた頃の話です。結論から言えば、当時立ち上げてた新規事業は、撤退する決断を下しました。立ち上げてから半年程度での撤退はかなり迷ったのが本音です。出鼻がくじかれた感覚、また一つ会社の成長が遅くなる不安、先行者に追いつけなくなる悔しさ。色々とありましたが、まずは当時の社員の雇用第一。こう考えると、もはや撤退して会社を出直すことしか考えれません。

ところが、本業のコンサルや研修もストップしている状態です。こうして、次なる決断が迫ってきました。人件費もカットし、もう切り詰めれる余地があまり残されてない状況。そして事務所を閉鎖してALLノマドワーカーになって出直そう。その頃には、いかに極限までコストを削減するかの議論ばかりしていました。また僕の精神状況や内なる声も本当になりたい姿はこれではない!と囁き出す始末。毎日の後ろ向きな話や先行き不安もあったのでしょう。最終的には、社員は辞め、僕だけたった一人に戻りました。

こうして、ついに事務所も閉鎖が決まり、友人の会社に身一つで居候させてもらうことになりました。

事務所開設時に頂いた備品の数々が運び出される時のツラい光景は今でも忘れません。悔しさと情けなさと、申し訳なさと・・・。こうして季節的にも精神的にも寒い冬を越すことになったのです。

【考察】

決断を下す時は、やっぱり内なる声が決め手になる。

27.友人の事務所に居候生活

リーマンショックが直撃し、スタッフは離職、事務所も閉鎖した頃のお話です。身一つで出直すことになったものの仕事上、来客もあるので事務所スペースは必要でした。そこで、ご厚意で友人の事務所に居候させてもらうことになったのです。この頃は、まだまだ小さなプライドが残っていたので、先に起業してた先輩起業家の僕が元同級生の新米起業家の事務所に居候することは結構キツかったです。でも、そんなプライドなんて持っている場合ではないほど先行き不安に襲われていました。

受注が急減した時期とタイミングが悪く、多くの税金支払いが重なるもの。う~ん、残高がきつい。この時の2009年と言えば、とにかく精神的にも経済的にも忍耐の一年を過ごしました。結局、居候生活をさせてもらうことで精神的安定を保てたので、今でもその友人には感謝です。

そして一年間耐え切った後は、大手家電メーカーから受注したり、新たな業種や研修のオファーなど徐々に仕事が増えていきました。こうして復活の兆しが見え始めた頃、あの揺れが僕を心身ともに揺さぶることになったのです。

その揺れとは・・・

【考察】

苦しいこともあるだろう、言いたいこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣きたいこともあるだろう。

これらをじっとこらえてゆくのが男の修行道である。

28.東日本大震災が心身を揺さぶる

ある日、知人の会社で打ち合わせをしていました。すると不思議な感覚の巨大な揺れが始まりました。とっさに地震だと思いましたが、すぐに終わるだろう。それくらいの感覚だったのに、いっこうに揺れが止まりません。どんどん大きくなっていきます。雑居ビルにいた我々は身の危険を感じたので外へ出てみると、まわりの高層ビルは映画で見るほど揺れまくり、電柱はグラグラ揺れ、停まってた車も傾き始める始末。

慌ててテレビ報道を見るとあの津波の映像。(東日本大震災)その後帰宅難民になり、帰宅は深夜になりました。それからの1週間は物理的にも精神的にも仕事が手につきません。まず商談は殆どが延期、打ち合わせも一時中断ばかり。仕事を健康な体でしている自分がどこか被災者へ申し訳なくて・・・。

それからはご存知の通り、原発問題や放射能の問題など東日本は大混乱。後に平静を取り戻してから、僕はこう思いましたね。

結局、自分は何のために生きてる?
なぜ自分は被災せずに安全で健康?
いや生かされてる?

この時に改めて生きる意味や使命を考え直しました。とはいえ、すぐに答えは出ません。そしてすぐにでもできること。少しでも傷ついた人に気づきと勇気を提供すること。これは僕の本業でもあるコンサルや研修、講演、執筆の4分野で十分に果たせるはずだ。こうして国内も自分も平静を取り戻しつつ、仕事も平常時に戻っていきました。それからはある意味、無風状態の小さな安定状態が続きます。

ところが、僕の心はどこか晴れないままだったのです。

その理由とは・・・

【考察】

安全で健康で生きてるだけで、それは大きな幸せである。

29.ターニングポイント

震災後、平静さを取り戻し、小さな安定が続いていた頃の話です。僕は順調に仕事を積み重ねていく中、新たにベストセラーを目指し、執筆でもチャレンジを始めました。すでに出版デビューを果たせるようになった僕は、2013年の5月~6月にかけて3冊連続発売というところまでこぎつけることにも成功しました。これで、コンサル、研修、講演、執筆という4分野で小さな成功と小さな安定の「型」が完成しました。ある種の燃え尽き感と安堵感と達成感の何とも言えない感情に包まれたことを覚えています。

しかし、浮き沈みありながらも、10年以上かけて築き上げてきたこの「小さな成功の”型”」は、この目標の未達により、精神的限界も徐々に露呈することになっていったのです。

そもそも、高学歴もコネも金もない凡人が大企業から直接受注をし、本も数冊出し、講演で全国行脚できるようになった。これだけでもミラクルだとは思っていましたが、一度、型が完成すると、「何のために?誰のために?」という根本の問題が自分の中で占めてくるようになりました。そして、一度これまでの自分を壊し、次なるステージに挑戦しよう。でもそれは、ただビジネス的目標を追うのではなく新たな生き方を追いかけよう。

そう思い、自分の覚悟を問うための自問自答への旅へと「ひとり合宿」に向かうことになったのです。

その行先とは・・・

【考察】

小さな安定に安住していては、即脱落するだけだ。

30.現実逃避か思考の整理か

仕事も順調な中、次のステージを描くために”ひとり合宿”を決行。僕は定期的にジブン会議と称しては大きな決断をしたり、夢を描く際、自問自答の時間を強制的にとります。そして、今回は次の10年間の生き方を明確にすべく合宿形式にしました。

行き先は旧長州藩である山口県萩市です。

何度か尋ねた場所ですが、明治維新の起爆剤になった聖地です。特に吉田松陰先生に心酔している僕としては外せない場所でした。当時の魂や息吹を感じつつ、自分の次のステージを描く作業。これほど適した土地はありません。2005年にもこの地を訪れ、僕の大きな方向性は決まりました。そしてそれをさらに深めるためにはこの場所に来る必要があったのです。

吉田松陰先生は、わずか2年弱の期間に松下村塾にて高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、久坂玄随をはじめ、超人的な弟子を複数育ててきました。弟子たちは後に総理大臣、大臣、実業家、大学創設者になるなどそうそうたる教育の成果です。そして、今に至るまで後世にも絶大な影響を及ぼしています。特に、処刑前日に残した遺書『留魂録』の一説を当地で読み何を自分が感じるのかを試したい。こんな気持ちで一説を読みにもいったようなものです。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし 大和魂”。

明日わが肉体は死んでいくけれども魂だけは現世に遺す!松陰先生はこんなに強く高潔な生き様を死ぬギリギリまで見せたのです。こうして『留魂録』を携え、史跡名勝を巡り、最後はホテルに缶詰めになって”ひとり合宿”です。

次なる10年をどう過ごすか?
どういう使命をこの人生で果たすのか?

徹底的に自己と向き合いました。その結果、一筋の光が見えてきたのです。

それは・・・

【考察】

我が心の師は、吉田松陰先生である。

31.何とか15周年にたどり着く

次のステージに行くべく自分の軸を定めるため、旧長州藩(萩)を訪れた時の話です。尊敬する吉田松陰先生の松下村塾を訪ね、その後はホテルで缶詰めに。そして自分の内なる声に耳を傾けてみました。自分の心底やりたいことで皆が喜んでくれることはなんだろうか?また自分の覚悟を徹底的に自分に問うてみました。自分の決めたことを無心にそして私心なくやりきれるか?全ての答えにYESが出たのは萩入りして二日目の朝でした。

こうして僕なりの次のステージに向けた方向性やミッションが確立されていきました。

人々に「気づき」と「勇気」をご提供し、
”普通の人”が自信を持てる社会を創る。

その手段として、講演、執筆、研修、コンサルを通じた事業活動を行う。

僕が提供する価値は、

・人々の頭と心の整理のお手伝い
・分かりやすいメッセンジャー
・行動変革のキッカケ提供である。

行動の第一歩目に、
法人向けではなく、
個人向けにセミナーを行おう。

これまでは、
BtoBだけやってきたけど、

これからは直接個人の人生に
ポジティブに影響を与えたい。

もっといえば、
普通の人が自己変革できる
一翼を担える存在になりたい。

僕の会社は羅針盤という意味の
コンパスという社名ですが、
個人の人生の羅針盤にもなりたい。

先が見えない乱世には羅針盤の存在も意義があること。こうして、ミッション、ヴィジョンバリュー、目標、手段、が固まりました。そして2013年11月にはじめて、”自己変革”をテーマにした個人向けのセミナーを開催したのです。

色々と泣き笑いが起業してからたくさんありました。試行錯誤も失敗も数知れないほど繰り返してきました。しかし、”一生ブレない軸”ができると、もう迷いはありません。覚悟が出来ると、不安も不満もストレスからも一切解放されるものです。全てを確信と共に体で理解できた時、時は起業15周年目の2014年に突入していました。

なんとか15年目にたどり着いたのです。

【考察】

目の前のことを全力で積み重ねることで、たどり着ける場所がある。

32.夢を描いた凡人の末路

その後、時間は過ぎ、仕事も順調に進み、2019年5月時点の今、やっと20年目に突入し新たなステージへ突入しました。約20年前に夢を描き25歳で起業した男は、今年で45歳。時代はISDN回線から5G回線の時代へ。AIやブロックチェーンの時代に移行し、日本自身も少子高齢化で未知のゾーンに入ってきました。

これだけ時代が変わった今、

自分はどれだけ成長したのだろうか?
はたまた会社はどれだけ成長したのだろうか?

会社の方は当初描いていたような状況には至っていません。しかし、一つ言えることは、まだまだズッコケ起業道は終わっていないのです。これまで、華々しい武勇伝も大きな成功話もありませんでした。ただし、試行錯誤し、頭を打ち、それでも前傾姿勢で走りづける限り、自分がどこか信じている世界へ近づいていくということです。

今は、自分の会社の存在意義はアップデートされ、「人と組織の可能性を引き出し、活力ある社会を実現する」ことをミッションに、すべての時間を捧げています。凡人であってもデキる人であっても、最後はやりきることができるかどうか。短距離走ではなく、長距離走である。それが僕自身の結論です。

25歳の時に凡人を自覚し起業した男の末路は、チャレンジし続ける毎日が存在するだけで幸せを感じ、周りにもシェアできる懐の深さを1センチだけ拡張できたことかもしれません。沈んでたまるか!の気概さえあれば、何とかなる。行動し続けている限り、いつか自分の世界は完成する。それがどこかの誰かの役に立つことを願って・・・

ここまでお読みいただきありがとうございました。

著者・思考の整理家  鈴木 進介


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