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第18回坊ちゃん文学賞落選作品

死意識過剰


 これが死、か。
 全く力が入らない。身体のどの部分も動かすことが出来ない。呼吸もない。鼓動もない。蠕動もない。身体の全ての部位が生命を維持する為に必要な活動を停止した。いや、停止というよりは終了したと言って良い。

 私の生命は今、終わった。

 傍らに突っ立っていた担当医が私の瞼を抉じ開け、眼球にペンライトを照らした。突然の眩しさに医師の手を払い除けたかったが、やはり身体はピクリとも動かなかった。
 時刻と臨終を医師が告げた。妻と娘が「ありがとうございました」と医師に頭を下げたのが感じ取れた。二人とも覚悟は出来ていたのであろう、落ち着いた様子である。誇らしさと寂しさの入り混じった妙な気分が私の意識に充満した。
 自分は良い夫であり良い父であったのか。仕事に明け暮れていた割にはそこそこの収入で、やっとの思いでそこそこの家を持ち、それなりの学校に通わせ、老後なんとかゆっくり出来る程度に蓄え、一人娘が嫁ぎ、孫の顔を見て喜び、引退後に患い、古希を前に死んだ。家族の幸せの為、というよりは「この国での家族のあるべき姿であることが誰の目から見ても明らかな家庭」を作る為の半生であった。そうすることが当たり前の時代に生き、それが出来ない奴は落ちこぼれと言われた。だから必死で食らい付いた。それが妻と娘にとって幸せであったのかは分からないが、一般的に不幸せと呼ばれるものは排除してきたつもりだ。そして、私が守ってきた家族に最期を看取られ死ぬことが出来た。現代では早死にの方ではあるが、酒も煙草もやるし、健康管理など碌にしていなかったのだ。こんなものであろう。
 悔いのない一生とは言い難いが、私の人生は紛れもなく幸せであった。
 在りし日の思い出達が、私の意識を駆け巡る。
 娘の啜り泣く声が、私の意識に鳴り響く。
 妻が私の手を握り、私の意識は面映い。
 私の意識・・・・・・。
 
 何故、意識があるのか。

 死亡を確認された私の意識は、未だ身体と共に在る。
 私の意識は明瞭である。身体が動かない所為か、生前よりも鮮明なくらいだ。妻に握られたその手には生前と変わらぬ温もりが伝わっている。懐かしい娘の泣き声がはっきりと聞こえる。眼球にライトを当てられて眩しかった。感覚器官が働いている筈はない。私の肉体は間違いなく死んでいる。完全なる死だ。死体であっても触れれば圧力が加わり熱が伝わる。音が鳴れば鼓膜は振える。眼球に光を当てれば網膜へ届く。つまり、それら体外からの情報を、意識なるものが生前の感覚と同じように認識しているのだ。
 そして、この意識こそが魂という奴なのだきっと。死後、魂魄は身体から離れ四十九日後に黄泉へ旅立つ、というのが私が育ってきた文化圏での定説であり私は盲目的にそれを信じてきたが、そもそも誰も死んだことのない生者の世界で死後どうなるかなんて分かるわけはない。極楽や地獄なんてものは、愚行に走る生者への戒めの為に創り出した御伽噺に過ぎないではないか。
 違っていた。魂と肉体は渾然たるものなのだ。
 しかし、やはり魂と呼ぶよりは意識と言った方が適当である。身体は動かずコミニュケーションも取れないが、五感や思考は生前と変わりないのだから。
 なんとももどかしい状態である。
 が、これこそが死なのだ。

 一頻り家族に撫で回された後、看護師によって死化粧を施され、浴衣に着替えさせられた。程なくして葬儀屋が来た。予てより有事の際にどの葬儀屋を利用するかは妻と決めていたので、手際よく手配出来たようだ。病院を出、葬儀屋が用意した遺体安置施設へ運ばれた。通夜が行われるまではここに保管されるのだ。
 安置についてあれこれと妻に説明していた葬儀屋が
「ご遺体の傷みを防止するために、ドライアイスを使用いたします。」
と言った。私はドキリとした。もちろん心臓は動いていないのだが。肉体が死んでいても、勤勉なる私の意識によって五感は見事に再現されている。ドライアイスを纏うということは、相応の冷たさを覚悟しなくてはならない。
 葬儀屋がブロック状のドライアイスを脱脂綿に包み、腹の上に二つ、更に頭の左右に一つずつ置いた。腹と頭がじわじわと冷たくなっていく。放たれた冷気が這うように私の上半身を包み込む。凍傷を防ぐ為に脱脂綿に包まれてるとはいえマイナス七十九度の塊である。身体は急速に冷やされていく。寒い。凄く寒い。ドライアイスが乗せられた腹部は冷たさを通り越して痛みを感じ始めている。内臓まで冷えていくのが分かる。通夜を待つ間、私はこの極寒と凍てつく痛みに耐え続けねばならないのだ。

 安置所に運ばれ一日が過ぎた。時間を測っていた訳ではないが、葬儀屋がドライアイスを取り替えに来たので一日くらい経ったのだろう。寒さも冷たさも少しずつ慣れていくことを期待していたのだが、一向にその気配はない。慣れというのは生きていく上で必要な脳の仕組みであり、死んでいる場合これは適用されないのだ。寒さで身体が震えるのも体温を上げる為の不随意運動であり、これも出来ないので身体は面白いように冷えていく。空前絶後の極寒にあって、気を失うことも眠ることも、況してや凍死することも出来ない。更に、ご丁寧にもドライアイスは毎日取り替えてくれるらしい。取り替えにきた葬儀屋を殴り飛ばしてやりたかった。 
 地獄とは正にこのことではないか。少なくともこの国に於いては、人は死んだら必ず地獄を見るのだ。
 そしてこの後、更なる地獄が待ち受けているのであった。

 二日間極寒に耐えた。いや、別に耐えていた訳ではない。一方的に苦痛の方からどんどんやって来るのだから耐える必要もない。否応なしに寒さと痛みを堪能させられる二日間だった。そして、やっと通夜を迎えた。納棺の際、死装束に着替えさせられたので、一時的にドライアイスから解放された。それでも身体は冷え切っていたし、棺にもドライアイスを入れられたのでずっと寒いことに変わりないのだが。
 通夜も、翌日の葬儀も滞りなく執り行われた。最期に家族や友人の声を聞けたのは嬉しかったが、これから始まる惨劇を前に参列者との別れを惜しんで感傷に浸る余裕はなく、私の意識は恐怖に支配されていた。
 間もなく、火葬されるのだ。
 火傷どころではない。超高火力で灰になるまで徹底的に焼かれるのだ。極寒地獄から焦熱地獄へ、夢の二大地獄まるごと体験ツアーである。どうにか逃れる術はないのか。そもそもこの意識は何時まで肉体に宿り続けるのだろう。身体の原型が留まらぬ程に焼かれれば、流石に離脱するのだろうか。将又、体躯と共に消滅してしまうのか。いずれにせよ、この儘焼かれるのは嫌だ。肉体から離れるなら今しかない。
 出ろ。出てくれ。抜け出せ、コンチクショウ。
 必死の願いも虚しく、私の意識は身体と共に炉へ入れられ点火スイッチが押された。
 ゴウと炎が吹き出し、棺がパチパチと音を立てた。冷え切っていた身体が温もりに包まれたのも束の間。忽ちの内に前代未聞の激痛が全身を駆け巡った。ドライアイスなど問題ではない。皮膚が爛れ、手、足、頭と末端から引火していくのが分かる。瞼が焼かれ眼球が剥き出しになると、赤黒い炎の渦が見えた。肉が焦げ、脂の焼ける匂いがする。身体がジュージューと音を立てて燃え盛っている。筋肉、骨、内臓に至るまで、痛くない部分はない。火だるまと化しても尚、私の意識は未だ鮮明に、未知の苦痛を存分に味わっている。生きていれば意識が崩壊してしまう程の苦痛でも心配御無用、気が狂うことも気を失うこともない。止めどなく、際限なく、詳らかに、耐えられる筈のない激痛を過剰なまでに認識し続けるのだった。
 そして、完全に火が消えるまで、私の意識は明瞭であり続けた。

 私は上空にいる。そして、まだ火葬場にもいる。私の意識は同時にどちらにもいる。
 上空の私は火葬場の煙突から吹き出た煙だ。燃焼により発生した煙は、私の身体の一部として意識を有している。砕かれ骨壷に納められた肉体の燃え滓も、私の一部として意識を有している。一度蒸発して煙突を上る途中で管内にこびり付いた油脂も、炎の噴出の勢いで舞い上り炉内に取り残された骨片も、娘の喪服にくっ付いた灰の一粒に至るまで、全てが私の一部であり、私の意識を有している。しかし意識が分裂した訳ではなく、私の意識は一つの儘なのだ。肉体が焼失した所為か、五感は消えた。何も見えないし何も聞こえない。痛みも温度も感じない。ただ、生前感じたことのない感覚で全てを認識出来る。神にでもなったような万能感と、自然と混じり合ったような安心感で私の意識は歓喜に震えた。業火に焼かれた激痛は忘れられないが、遂に私は人としての苦痛から解放されたのだ。私は風に乗り何処までも飛んで行き、或いは祖先と共に墓に入り、或いは何処か知らぬ土地へ舞い降りる。その全てが一人の私なのだ。なんと圧倒的な自由。
 ああ、死とはこんなにも幸福だったのか。

 それから長い年月が過ぎた。妻が死に、娘も孫も、その子供もそのまた子供も死んだ。私の欠片の多くは無数の粒子となっていた。ある私の一部は地中深くマントルまで達し、また別の私は雲となり雨を降らし、大海であり、大地であり、大気であり、この惑星そのものであった。全ての死者の意識はこの惑星と一体となっているのだ。私の両親も、妻も娘も然り、数多の生命の終極が共に在ることを感じる。
 全ての死は、母星への還元であったのだ。

 そして、絶望は再び訪れた。
 なんということだ。忘れていたのだ。自然の摂理に反し、生態系の秩序を乱し、生命を蹂躙するものの存在を。嘗ては私自身も、その悪魔の所業に加担していたにも関わらず。
 今、私の意識は途方もない苦痛に苛まれている。

 この惑星を蝕む、私の子孫達の手によって。



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