50首連作「ホログラム」作歌過程全部見せマラソン――2日目(3〜8首目)
手を抜くことって大切なのだけど、賢く手を抜くのは意外と難しい。
手を抜くためには、
・一連の作業のどこはクオリティを保証しなければならないか
・逆にどこはそこそこの出来でいいのか
・この作業を依頼してきた人はどれくらいの完成度を求めているのか
・自分は一連の作業のどこがやりやすくてどこで手が止まるのか
こういうことが分かっていないと下手な手の抜き方をして怒られたりする。
最初の3点は依頼者との擦り合わせで分かってくることだけど、最後の「どこがやりやすくてどこで手が止まるのか」はひとりで見極められる。
自分のやっている作業の工程を一覧すればいい。よくいう言い方で言えば棚卸し。
このとき頭の中で考えていてもだめなのだろうと思う。テキストとして書き出すか、人と話すのがいい。
最近こういうことを考えているので、手を抜くとは別の話だけど、短歌の作業工程の棚卸しをやってみています。
全部見せ(3首目〜8首目)
歩行者天国 手の触れ合ったよろこびは花火のように遅れてとどく
3首目。
「花火」という言葉から作った歌。
最初から「遠くから音だけ聞こえるけど見えない花火」というイメージで練っている。
8月頭に作ったので、たぶんそのしばらく前に、実際に花火の音だけ聞こえてきたことがあったのではないだろうか。
短歌の方向性を設定するとき、「斜に構える」のは効果的だと思う。
「花火」というお題があるときに、花火大会とか、花火デートとか、浴衣とか、帰省の思い出とか、そういうベタな方向で進めてしまうと、そのベタさから言葉選びとかテクニックとかのレベルで抜け出すのは結構難しい。
ベッタベタに既成の情緒がこびりついているタイプの語を使いたいときは、「花火大会会場で見る花火」ではなく「遠くから音だけ聞こえる花火」のように、少しでもあるあるからずらして作っていくと手戻りが減ると思う。
「つきすぎ」という語がある。歌会で最初に覚える概念と言っても過言ではないかもしれない。
この概念が言語として定義されているのを見たことがないので私の理解で話すと、「あるあるを避けよ」ということだという気がする。
一首の中に「桜」と「儚さ」があったらそれはつきすぎだとか。
こういう語の組み合わせレベルの話で使うことが多いけど、シチュエーションと語の相性の話をするときにも言うような気がする。あまり自信がないが。
この場合、「花火」と「まだ付き合ってないけどいい感じのふたりが浴衣で花火大会デートをする」というシチュエーションはあまりにもつきすぎである。
「つきすぎ」がなぜ嫌われるのかという話を誰かとちゃんとしたことがないので私見であるが、これは短歌の性向(性質ではなく、もっと短歌そのものが持つ直感的な好き嫌いのようなもの)によるのではないだろうか。
①新しさを求める
これは比較的近年の芸術活動であればだいたいそうであるだろうが、短歌も今まで存在していた形式を再生産することをあまり評価しない。
これは近代〜現代芸術の構造(特にマーケットの構造?)の話かもしれないので深入りしない。
②説明を嫌う
短歌は短いから、説明をできるだけ省エネしたい詩形であると思う。
「桜」という語のイメージには「儚さ」が十分に含まれているし、どっちか一語で説明できないの? ということだろう。
長々と方向性の設定の話をしたが、次に決めたのが「花火のように遅れて届く」というフレーズである。
ここで「花火」を比喩として使うことにしている。お題を比喩にしてしまうのはひとつの題詠攻略テクニックだが、連作でそれをやり続けると比喩だらけの連作になってしまう(特に「ように」の入った直喩だらけの連作はまずい)。
「手の触れ合ったよろこびは花火のように遅れて届く」はすんなり決まったようだ。
ここでおそらくこだわっているのが表記。
・「触れあった」ではなく「触れ合った」
・「喜び」ではなく「よろこび」
ここは兼ね合いで決めたはずだ。
「よろこび」とひらがなにひらくのは、短歌的には定石だと思う。やわらかな感情に漢字を当てない選択をするのは、そこそこの賛同が得られそうだ。
ここで「触れ合った」であるが、私が短歌を作るときに採用しがちなのは「触れあった」とひらく方である。
しかしここでは、「触れあったよろこび」とすると「あったよろこび」部分でひらがなが連続しすぎるという判断によって「触れ合った」としたのではないだろうか。
短歌は表記ゆれには寛容であると思う。それぞれの漢字の閉じひらきにはそれぞれの意図があるからだ。
連作全体を通した表記ゆれが問題になっているのを見たことがない。
さて、「手の触れ合ったよろこびは花火のように遅れて届く」までが決まった。
ここだけで意味が完結しているので、初句はシチュエーションを示唆するような名詞を入れることにしたらしい。
「夜の湖岸」「区間急行」「歩行者天国」で迷って「歩行者天国」を選んでいる。
「夜の湖岸」はちょっと現実離れしたシチュエーションでファンタジーに寄ってしまう。
「区間急行」はいいのだが、「花火」があることによって「花火大会の帰りの電車で手が触れ合う」という余計なストーリーが発生する。
「歩行者天国」が気に入ったのは、銀座の歩行者天国を舞台にした小説を書いたことがあって、その小説が持っていた万能感が思い起こされてテンションが上がるからだと思う。
字面だけだと穏やかなロマンティック・リレーションシップの歌かもしれないが、私の中ではその小説を踏まえて結構キラキラした万能感のある歌である。そういう自分だけのエピソードがあってもまあよい。
あと「花火」という語があっても昼間の歌にできたのがよかった。
「ホログラム」は明るい光の質感を大事にしているので、常に光は差していてほしい。
木漏れ日だろうあなたをなぞらえるならば 噴水が湧き上がりまひるま
4首目。
これはメモを見てもさっぱり思い出せない。
最初「はんぶんこ」という語から作り始めていて、「半分の月」→「ムーンストーン」と連想していることは分かる。
だがその直後、急に「木漏れ日だろうあなたをなぞらえるならば」が出てきている。
ひとつの予想としては、この歌は今の恋人のことを考えて作っているので、恋人に似合うのは月光ではなく木漏れ日だ、という着想があったのかもしれない。
「ホログラム」という連作を作り始める前にいくつかの構想があって、「恋人との穏やかな日々」という場面設定はしていた。
ここでの「恋人」であるが、実際の私の恋人のイメージが強く反映されている歌もあるし、完全に架空のエピソードや設定の場合もある。
ただ全体的な人格や雰囲気は、現実の私のパートナーを踏まえている。
連作を作るときに、その登場人物を過去に関わった人に設定することはよくある(あくまで私の話だが)。
連作「まぼろしばかり」(歌集『まぼろしばかり』収録)
連作「けもののたまご」(『Q短歌会機関誌第四号』収録)
このふたつは明確にこの人の話だ、という相手がいる。
連作のテーマが思いつかないときに、登場人物を決めるというのは結構ありかもしれない。
さて、「噴水が湧き上がりまひるま」はあまりいい下の句ではない。
「木漏れ日」→「公園」→「噴水」と連想したのだと思う。この時点で光を大事にする連作だというのは決めていたので、噴水というきらきらしたモチーフにしたのだろう。
ただ、「湧き/上がりまひるま」はよくない。この句またがりに表現上の効果がないからだ。
表現上の効果がある句またがりというのは、例えばこのようなものだ。
めいそうし/んけいはんしゃの/たまゆらの/まだみたことの/ないらふれしあ
(鈴木えて「The Biology of Neon Babies」)
スラッシュはこの記事のために入れたものではなく、こういう形の短歌である。
これは2句「んけいはんしゃの」が句またがりによって「ん」から始まっているのが本当に楽しい一首だと思っている。
「異常」な連作にしたかったし、迷走神経反射のくらめきを表現したかったので、句が「ん」から始まる設計にすることで異常さを演出した。
句またがりをするときは、その句またがりが短歌の内容をどう実現する句またがりなのか、その必然性を説明できる必要があると思う。
理由なく好きでいいからはつなつにくまなく触れて ゆっくりでいい
5首目。
「ちかづく」というお題から作ったもの。
このお題は、「二次創作お題単語ガチャ」から出たものだと思う。
私は結構題詠が多いので、こういうガチャで出た単語とか、外出先で見た単語とかをお題に採用している。
「ちかづく」だと難しかったのだろうか、「触れる」に発想を切り替えて考えている。
「理由なく触れていいから」が最初に出ていて、そこから「理由なく好きでいいから◯◯◯◯にくまなく触れて ゆっくりでいい」に展開したようだ。
おぼろげな記憶なのだが、これは
この歌のことをかなり考えていたと思う。
これのことも考えていたかもしれない。
たぶんロマンティック・リレーションシップの中に私の側からの「赦し」がある、という構造がよいと思っていたのだろう。
「◯◯◯◯にくまなく触れて」の部分は「はつなつ」に落ち着いたが、これにより連作作りで少し気を遣う必要が出てきた。
「はつなつ」はあまりにも爽やかポエジーワードで、ポエジーワードであるにもかかわらずべたべたせず短歌に使えてしまう。
そのため頻出に注意が必要なのだ。「ホログラム」ではこの歌以外に「はつなつ」が出現しないような調整をした。
恋が愛に変わるあいだに付け替えた千の電球一面に光る
6首目。
これも「二次創作お題単語ガチャ」より「でんとう」という語から作った。
これは明確に意識していた歌がある。
「釦 vol.1」発行前に平尾さんの原稿を見せていただいたとき、本当にすごいなと思ったのだった。
この歌のすごさは表層的なものではないのだけど、とりあえず「『愛』が莫大な回数積み上げられ、更新される」みたいなところを再解釈しようと思って詠んでいる。
「恋が愛に変わるあいだに」というのは、連作全体のことも意識して設定した。
この歌が「恋が愛に変わるあいだに〜」より先にできていて、「手の触れ合ったよろこび」はどことなくパートナーシップを結ぶ前のよろこびのような感じがする。
だから連作全体で、恋が始まり、パートナーシップの形を取り、そこから穏やかに続いていく、というストーリーを設定したのだと思う。
あまりにもベタではあるが、なんらかの緩急があると連作が読みやすくなるのは事実である。
それを踏まえて、場面の説明として「恋が愛に変わるあいだに」を置いた。
「付け替えた千の電球一面に光る」は、「でんとう=電灯」というお題と、平尾さんの歌の再解釈というテーマ、そして「恋が愛に変わるあいだに」が確定していることを併せればそれほどトリッキーな発想はしていない。
ひとつ言うとしたら、「一面に光る」はよいと思う。
最初は「それぞれ光る」としていたのだが、「一面に」の方が「めくるめく更新」という印象がある。
また、「一面に光る」は字余りだが、その持て余した感じも「千の電球」の膨大さのイメージに繋がっている。
わたしより先に暑がることさえも滲むいのちの予言のようで
7首目。
これは実際に恋人が家に来ていて、「冷房強くしていい?」って言われたところから作ったような気がする。
私は恋人の体温が高いところを愛しているので、そういうのいいよね、という割と思い入れ強めなノリで作った。
私は短歌をエピソードベースで作るのはすごく難しいと思っている。説明に終始してしまって、芸術点を稼ぐ余裕がなくなるからだ。
その中で珍しくエピソードのようなものを元にしているのがこの歌。
勝因は、「恋人が私より暑がりである」というコンパクトさに留めたところにあると思う。
これが「恋人が私より暑がりなので一緒にアイスを買いに行って新作を買ったらおいしかった」になるとかなり厳しい。それはもうエッセイを書いた方がいい。
白亜紀のことを言いつつお互いのプリズムを照らしあって笑った
8首目。
「プリズムを照らしあって笑った」は、ほぼ実際にあった話である。
博物館にプリズムの展示があって、懐中電灯で照らして遊ぶことができたのだ。
「プリズム」はポエジーワードなのにいやらしくないので使われがちだと思う。正直「お互いのプリズムを照らしあって笑った」はポエジー度が高い。
ここで「笑った」としたのは実際恋人とプリズムで遊んで楽しかったからだが、ここにも連作の登場人物像を設定するよさが出ていると思う。
実際の知人のことを想定しつつ連作を作ると、連作の登場人物の振る舞いに一貫性が出る。
「ホログラム」に登場する恋人めいた存在「あなた」との関係は終始ほがらかで穏やかなものとなっているはずだ。
次に決まったのが、「◯◯◯◯のことを言いつつ」という初句と2句。
ここで最初に挙がったのが「三原色」だが、「プリズム」とつきすぎなので没にしている。
ただ、「三原色」という語が気に入ったので
の手がかりに使うことができた。
結局「白亜紀のことを言いつつ」としたが、微妙だと思う。
普通にそのプリズムを見た博物館に化石の展示があったから使ったというだけの言葉選びである。エピソードから作るとこういうところに甘さが出るのでよくない。
「三畳紀」「ジュラ紀」「白亜紀」の中では「白亜」という言葉のまぶしさによって「白亜紀」がよいと思ったのだけど、「白亜紀」はどこまで行ってもくすんだ茶色の化石のイメージだと今なら思う。
感想
今日は6首進んだのでこの調子で頑張りたい。