ヴァーチャルの世界、肉をもった基体
木澤佐登志『闇の精神史』を読んだ。
本書によれば、ユートピア(ギリシャ語で「どこにもない場所」を意味する。)の現実における実現可能性――ユートピア的想像力は今日退化しており、現代社会の未来は「闇」のなかにあるという。
そんななか、「私たちの「既知」の外側に広がる様々な空間=スペースを構想し切り拓く」(p.6)試みが存在する。本の帯でも名前が掲げられたイーロン・マスクによる火星開拓事業もその一つである。本書は、そうした古今東西の思想を概観し、過去を参照しながら「失われた未来を解き放つ方途を示す」(p.11)ことを目指している。
19世紀末からロシアで立ち現れ、現代にも影響を与える「ロシア宇宙主義」/ルーツを奪われた黒人たちによって生み出され、異なる「未来」を描き出した「アフロ・フューチャリズム」/情報技術から生み出され、物理世界からの解放を唱える「サイバースペース/メタバース」――著者も自ら認めているとおり、本書が概観する思想は極めて広範で、まとまりを欠く。
さて、本書は複数の有名メディアで書評が掲載されるなど、比較的幅広い界隈に読まれているらしい。Twitterを眺めるかぎり、哲学・思想、ロシア学、音楽の界隈でよく読まれているようだ。一方で、メタバースの界隈――われらがVRChatではあまり話題になっていないようだ。
それは、本書のメタバース/VR技術に対する、ある種冷めた目線に起因すると思われる。ここからはその著者の主張を取り上げてみよう。
『闇の精神史』の描くメタバース(同書第3章より)
著者によれば、ヴァーチャル・リアリティ(VR)が生まれた1980年代、この新たなデジタル技術は、アメリカ西海岸でカウンターカルチャーと出会いを果たし、その大きな影響を受けた。当時のカウンターカルチャーで流行していたLSDによるトリップと、VRによるサイバースペースへの没入が結びつけられたのである。それはさながら、意識の共有と拡大を助ける魔法(と区別がつかない技術)であった。
そしてカウンターカルチャーとの結びつきは、体外離脱の夢も描き出し、物理世界からの解放手段としてのサイバースペースという概念を生み出した。著者は、Vtuberであるバーチャル美少女ねむやメタバースプラットフォーム「Cluster」CEOの加藤直人の発言を引き、サイバースペースと現在のメタバースをめぐる言説との共通点を指摘する。ここで通底しているのは、「制約の存在する物理世界を悪や欠如とみなし、一方で物理世界を超えた魂の次元を善や本質的なものとみなす二元論的思考」(p.243)だという(著者はここで新プラトン主義やキリスト教グノーシス主義を引き、こうした発想が過去にも広く存在したことに注意を促している)。
著者はこうした二元論的思考から距離を取っている。VR酔い――身体感覚と視覚情報のズレ――は「身体と情報は対立的というよりも相補的」(p.249)な存在であることを示唆しているし、物理世界から解放されるメタバースにおいても、病気によって物理世界の身体を否応なく意識させられる。
サイバースペース/メタバースは、現実世界からの解放を謳う。しかし、そうした「ユートピア」をめぐる言説においては、デジタル技術を支える基体(インフラストラクチャ)が等閑視されているという。実際、メタバースを駆動させる巨大サーバーは大量の電力を消費し、必要な通信トラフィックも大きい。そしてそれらを支えるのは、労働者たちの身体である。
こうしたことを踏まえ、著者は「身体=基体=アーキテクチャ、言い換えれば下部構造をめぐる問いを回復しなければならない」(p.271)と主張し、ミシェル・フーコーの「ユートピア的身体」を引いている。すなわち、自分の身体には、自分自身にさえもアクセスできない領域(例えば背中や後頭部)が存在しており、その意味で自分の身体は「未知の「他」なるものとして、つまりは「ユートピア」として現出する」(p.273)。
「私の身体という潜在的多様体を起点として、そこから潜在的多様体としてのユートピアを構成すること。私という未知のアーキテクチャによって、権力というアーキテクチャに抗い、ユートピア的なアーキテクチャを生成すること。」(p.274)その具体的方策は、著者にとってもまだ模索段階のようである。
肉をもった筆者の基体
さて、このエッセイを記している筆者(すずかぜ)は、VRChat上ではヴァーチャルの身体をもっている。
筆者のヴァーチャルの身体を紹介しよう。
このかわいらしい猫耳のついた少女のすがた。名をEmmelieちゃんと言う。
一方で、物理世界では(当然)物理的な基体――肉の身体をもっている。特段紹介することは避けるが、成人男性の身体であり、上掲の少女とは似ても似つかない。
昨年(2023年)から、物理的身体がヴァーチャルな身体へと接近していると感じるようになった。
きっかけは明白で、オフ会で筆者と遭遇したあるフレンドが「お前とアバターの雰囲気はよく似ている」と言い出したことに端を発する。ちょうどそのころ筆者はファッションの大改革期であったから、目指すファッションも自然とヴァーチャルの身体が指針となった。
つまりは、淡い色合いの服が増えていった。クローゼットからは、女性向けの服や、男女を問わずに着用できるユニセックスのものが顔をのぞかせている。あたかも、ヴァーチャルなアバターの改変を考えるが如くである。
(念のため断っておくと、女装を志向したわけではなく、メンズファッションの枠内で女性向け商品を取り入れていったという意味である。現代のアパレルブランドでは、男女の境界を超えた衣服を販売する傾向があることも付言しておく。)
このアカウントと物理世界の筆者とを結び付けられたくないため、具体的な服の記述は避けよう。だが、かつて自身のファッションを一定の枠に押し込めていた筆者にとって、こうした服の選び方は新鮮だった。このことはハッキリ言える。この意味において、筆者の身体は、まだ開拓可能な未知の領域――ユートピア的想像力が働く余地があるといえる。
筆者はここからどこへ向かっていくのか。女装に取組んで「性」の面でヴァーチャルな身体に接近していくのか。物理世界において、アパレルブランドでさえ知らない未知のファッションを追及していくのか。あるいは、ヴァーチャルの身体の拡張――アバター改変に邁進するのか。その答えは、まだ誰も知らない。
参考文献
木澤佐登志. (2023).『闇の精神史』ハヤカワ新書.
筆者のメインアバターはこちら。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?