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牛と暮らした日々-そこにあった句#42 就農当時の話

牛産むを待てば我が家の冬灯  鈴木牛後
 (うしうむをまてばわがやのふゆともし)
 
就農当時の話をしよう。
2000年10月に私たちは酪農で新規就農した。10年前に離農した跡地に入ったので、古い作りの牛舎の中を改装し、牛はいなかった。なので全て外から導入しなければならなかった。そして、2ヶ月の間に分娩する予定の40頭の新品の牛(初妊牛)を買い揃えた。

これがどんなに無謀な計画だったかは、酪農関係者だと分かってもらえると思う。なにせ60日で40頭だから、ほぼ毎日、初妊牛の分娩がある事になる。

何でそんな計画にしたのか。当時私たちには、上は来年高校に上がる子から下は保育園児まで4人の子供がいた。子育てにお金がかかって自己資金はほとんどなかった。とにかく早く乳代(生乳の売上金)が欲しかったのだ。

夫こそ6年の酪農ヘルパーと2年の実習の経験があるものの、子供が小さかった私は助けてくれる祖父母もなく、全く実習が出来なかった。実習先の農家さんに保育所に預けている時間に搾乳時間をずらして下さいと言う事は私たちのケースでは不可能だったし、私たちの時代は夫がひとり実習するという習わしで二人分の実習費は出ないし、自己資金のない私たちは、私が他でパートに出て小金を稼ぐ方が現実的だったのだ。そしてその結果、私は初めて触る牛が買って来た初妊牛という事態になった。

初妊牛というのは搾乳に慣れていないので、とにかく大変だ。暴れたりビクビクしたり足を上げたり。なにしろ毎日のように分娩があるので慣らす暇がなく、私は最初の搾乳で、いきなり顔を思いっきり蹴られた。たいした怪我では無かったのだが、そのショックと恐怖心はかなり後まで残った。

私は搾乳が出来なくなり、しばらくは夫ひとりで40頭の初妊牛を搾る事になった。1頭搾り終わるまで付きっきりになるので、その時間のかかる事といったら…。大袈裟ではなく、夫は帽子の先から長靴の先まで糞だらけになっていて、集乳車の運転手にギョッとされていた。

おまけに一晩に3頭分娩する日もあったりして、夫は作業着のまま(外側のヤッケは脱いでいたが)、食事もそこそこにストーブの前で仮眠するだけという生活が続いた。

私は子供がいるので夜は家に帰ったが、夫は夜中でも分娩を見守るために、ずっと牛舎に詰めている日もあった。寒い牛舎で家の灯りを見ながら思っていたそうだ。こんな事してて、これから経営を軌道に乗せる事が出来るんだろうか、借金は返していけるんだろうか、そもそもこんな無謀な計画を立ててしまって、良かったんだろうか。ひとり寒くて心細くて不安で…。

そんな時代だった。


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