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牛と暮らした日々-そこにあった句#47 牛の死(最終回)
春の雪融かして牛のたふれけり 鈴木牛後
(はるのゆきとかしてうしのたおれけり)
※たおれる=斃る=倒れ死ぬ
『牛死せり片目は蒲公英に触れて』という一句。
2018年に夫が角川俳句賞を受賞した時、この句が注目された。
「この句は牛に対する作者の愛情が滲み出ている」
「作者はとても牛を愛しているのだろう」
「作者にとって牛は大事な家族の一員なのでしょう」
「牛が死んで悲しんでいることが読み取れる」等々…。
全国的な賞を受賞し、翌年には句集『にれかめる』を上梓してから、以前とは比べものにならないくらい多くの俳人の方に、夫の俳句を読んでいただき、結社誌などに句評を書いていただいた。そして、数え切れないくらい自宅にそれが届いた。冒頭に書いたのは、その句評の中の言葉だ。
作品は世に出したら、作者の元を離れて独り歩きするもので、どう鑑賞するかは読者の自由なのだと聞かされた。
でも……。
これらの美化され過ぎと言えなくもない句評を読んだ時、あまりの違和感で胸の中が、もやもやしてしまった。
酪農家が牛を飼うというのはペットを飼うのとは違う。家族の一員でもなければ、愛しているというのは全然違う。
愛している家族の生死を、損益分岐点や費用対効果で決めるだろうか?死んだら、固定資産の処分損として費用に計上するだろうか?
受賞後、夫の句友で大先輩でお世話になっている五十嵐秀彦さんが色々な所で夫について文章を書いて下さったが、それを読んだ時、「そうそう。そういうことなんだよ」と私の心情にぴたりとあてはまった。
少し引用させていただく。
(2018年角川俳句賞受賞後の【itak】でのお祝いコメント『牛の朱夏を読む』より)
「彼は酪農家であり、牛を相手に毎日を暮らしている。句材はどこまでも『鈴木牧場』の中だ。そう言うと、働く者のリアリズム俳句という図式を思い浮かべる人も多いのだろうが、実はそうではないのだ。モチーフは全て身近なものだ。しかし、ただそれを見たままに句にしているわけではない。かと言って、労働の喜びや辛さを詠っているわけでもない。牛と人との心のつながりなど、微塵もない。私はこの50句を読んで、語弊があるかもしれないが、隠されたニヒリズムのようなものを感じた。『冷えゆく牛と我』は、けして交わることのない二つの存在のように見える。『外陰部』は、そのことをあけすけに表現することで、モノとしての牛を描きながら、そこに人もモノとして存在しているという現実を直視している。(中略)いのちもまたモノなのだ、という作者の直観が見て取れる。」(五十嵐秀彦)
(2019年『にれかめる』上梓後の『雪華』より)
「花を見ぬ牛と花見をしてをりぬ
これが作者の俳句への立ち位置を示している句なのでは、と感じた。本人は何と言うかわからぬが、彼の句を読んでいて感じるのは『愛』という感情に対して距離を置く姿勢である。
斃獣(へいじゅう)を吊り上げてゐる雲の峰
それが牛の姿だ。牛の実存だ。他者の安易な共感を拒否するものがこの句にある。」(五十嵐秀彦)
そして、17年前に運営していた私のブログ(今は削除した)に、私は次のような文書を書いていた。今でも感じるところは、ほぼ変わらないので、一部訂正して掲載し、この「牛と暮らした日々-そこにあった句」の最後とさせていただきます。
1年間、ご愛読ありがとうございました。
(2006年『うしおばさんの雑記帳』より)
「昨日生まれた仔牛が死んだ。
可哀想だとか悲しいだとか、そういう感情は湧いてこない。思ったのは『あぁ。命ってあっけないなぁ…』というもの。
一般の方から言われるのは、牛を殺処分するというと「命を何だと思っているの」というような意見だが、今日会った酪農家の奥さん達の集まりの会では「もったいないねぇ~」という声はあっても「命が…」なんていう話は出ない。これが酪農家の現実。
就農したての頃、用事があって町内の酪農家さんの所へ行った。ちょうど双子の仔牛が生まれたところだったのだが2頭とも死産だったらしく、庭先に仔牛の死体が転がっていた。その農家さんは「いやぁ~。ちょうど良かったんだぁ~。双子だと小さくて出荷できるまでに育てるの大変だから~。」と笑っていた。これも酪農家の現実。
かと言って牛を牛乳を出す機械のように扱うかというと、そうでもなく、名前を呼んで牛に話しかけたり、しぐさが可愛いと笑いあったりする。
付き合いが長い牛だと死んだらショックだし、あの時ああすれば良かったんじゃないか…と後悔の念も湧いてくる。
でも一方では、仔牛が死ぬことは日常茶飯事だし、仔牛を含め60頭も飼っていれば、出産シーンも仔牛の死も何てことはない日常業務のひとつになってしまう。
就農当初こそ、庭先の仔牛の死体の前で笑っていた酪農家さんにとても嫌な気分になった私でも、6年も酪農をやってると慣れる。神経が麻痺するというのか…。良いことか悪いことか分からないけど動物の死に対して慣れるのである。
新規就農した友人に、とても動物好きの女性がいて「せっかく預かった命なんだから…」とか言ってて「おいおい。大丈夫か?ちゃんと酪農家やっていけるのか?」と心配したが、動物好きというだけでは…というか、動物好きならなおさら、やりにくかろうよ。経済動物なんだから。どこかで割り切らなきゃね。人間の介護のように動物を介護し続ける訳にはいかないんだから。その彼女は今でも酪農家をしているから、どこかで折り合いを付けたんだと思う。
動物の命を人間の命と同じくらいの重みを持って語る人もいるが、私は逆に、人間の命こそ動物の命と同じくらい、はかなく、あっけないものなんじゃないかと思っている。同じ地球に住む単なる生物として。命の連鎖の単なるひとこまとして。」
牛死せり片目は蒲公英に触れて 牛後
(うししせりかためはたんぽぽにふれて)
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