そこにあるのは、「苦痛」?それとも「退屈」?
こんにちは!
今日は、問題があるときは、そこに「苦痛」があるか「退屈」かあるかのどちらか、という話。
以前プロ奢さんの動画で、
「問題があるときは、そこに苦痛があるか、退屈があるかのどちらかだ」とおっしゃっておられたのを見かけて以来、ふとした時によく思い出し考えています。
というのも、私の場合。
大抵ものごとの問題は「退屈であること」が多いからです。
手癖で何か食べてしまうのも、
ついお金を使ってしまうのも、
人恋しくなるのも、
動画を見てしまうのも、
ぜーんぶ「退屈」がもたらしている結果にすぎません。
この退屈が生み出しているものを本質的に転換したいなと思っています。
具体的には、生産的な活動(noteなど)、ちょっと興味あるなと思うものを試してみることなど。
また、この退屈は、自由すぎるあまり生み出されているものなのかもしれないと感じています。
例えばどの手段もとれる状態(自由な状態)なので、大して頭を使わずそのことをやっている、気づけば行動していることがあるのではないかと。
そこに一定のルールや縛りみたいなものがあれば、その枠内でいかにやるかを考えるようになるので、その壁がかえって面白いものに変わるのではないかと思います。
私がミニマリストの生活を面白いと感じるのも、その方がこれまでしてきた工夫や思考の過程を知れるのが面白いからなのかもしれません。
というわけで。
こんな日々仕事に揉まれそうでいて、実は退屈な瞬間がある私の生活も、縛りを設けることで、面白いことにならないかな、やってみようかな、なーんて思ったりしています。(一日0円生活とか?洋服メルカリだけで一年過ごすとか?!)
人間って、効率ばかり求めても退屈するし、忙しすぎると効率を求めたりもするし、なかなか大変な生き物ですね笑