母、55歳。痴ほう症になっちゃった ~若年性痴ほう症家族の笑いたい話~
督促状で気付く異変
私が結婚したのは37歳の頃。母は57歳になっていた。
結婚する2年前、母の『理由もなく起き上がれない様子』や、『話したことを忘れていたりすること』が気になり、一緒に病院へ行ったが
「更年期障害と軽いうつ症状でしょう」
と言われて、更年期障害に効くという漢方薬を処方された。
なんだかおかしい。そう思いながらも漢方薬だけに頼った数年間。
私はスープの冷めない距離に嫁ぎ、結婚前と変わらず父が経営する会社の事務員として働いていた。
実家には両親と弟家族が住んでいたが、母と弟嫁との折り合いは良くなく、何か問題が起これば早朝だろうが夜中だろうが、父から呼び出しの電話が容赦なくかかってくる。
そんなある日、いつものように仕事へ行こうとした私に父からの電話が鳴った。
「督促状が何通も届いている」
母は会社の経理を担当していたので、支払い関係は全て母の仕事だった。光熱費や社会保険料などの支払いが二カ月止まっているという督促状が届いたのだ。
母は支払う予定だったお金を銀行から出してはいたが、支払いをしていなかったのだ。父は優しく母に尋ねた。
「お金はどこにやった?」
怒りのスイッチも一瞬で切れる
母はきょとんとして
「支払ったよ?私」
と返事をする。督促状を手にした母は本気で驚き、そしてその感情は怒りに変わった。
「ちゃんと支払ったよ!電話して聞いてみる!!」
電話したところで答えは一緒であろうことは理解できた。そして、母がとても混乱していることも。
しかし、この怒りの時間はそう長くは続かなかった。10分程度すると何事もなかったかのように笑っているのだ。手に持った督促状を机の上に置いてしまい、再び手に取ることはなかった。
これはうつ状態でも更年期障害でもない。そう私も父も思い再び病院へ。しかし、母は病院では真っ当な受け答えができてしまい、違う漢方薬を渡されるだけであった。
更年期障害とうつ症状は、母に忍び寄っていた若年性痴ほう症を隠してしまっていたことを知るのは、私が夫の転勤に付き添い地元を離れて半年が過ぎた頃だった。
「あんたを妊娠しなければ・・・」
母は20歳の時に長女である私を身ごもり、19歳の父と結婚をした。
父は祖母が40歳の時に産んだ子供で大そう可愛がられて育っていた。
母は父の育ちとは正反対に5人兄弟の3番目。
上に2人の姉、下に2人の弟がおり、母の両親は日銭をやっと稼いだかと思えば週末は夫婦して競輪、競馬、ボートとギャンブルに明け暮れる人達だった。
一番上の姉は複雑な出生の人で、両親共に私の母とは違う人だったそうで、中学校を卒業すると東京へ就職に出てしまい、滅多に連絡が来ることもなくなった。
二番目の姉も中学を卒業すると愛知へ就職していった。
残された女手の母は中学を卒業後、仕事をしながら簿記の専門学校へ通い家計と弟二人を育てることに翻弄した。
そんな母の妊娠と結婚は稼ぎ頭であり、家のことをやってくれる人がいなくなることを意味していた。両親からは子供をおろすように説得をされたが、父側から多く積まれた結納金を目の前にして態度が変わったらしい。
「私はね、売られたんよ。」
その日から30年以上経ったある日、母はそうぽつりとつぶやいた。その金額は母の家庭から考えればとても大きな額だったようだ。
そして、
「あんたを妊娠しなければ、こんな家に嫁がなくて良かったのに。」
と。
まだ若かった二人は強制的に父の両親との同居が始まった。
父は母にぞっこんで結婚したわけだが、まだ若すぎた。更には『釣った魚に餌を与えない』典型的な人だった。
しかし、問題は父だけではない。
父方の祖母は私の記憶の中でも「意地悪ばあさん」そのものだった。
若いころは博多の芸子で綺麗な姿の写真がいくつも残っていたが、私が知るころの祖母は有名な保険会社の女支店長をしていて、金遣いが荒く、嫉妬深く、自己中心的な人だった。
そんな祖母は母への意地悪を平気で行う人だった。
何かにつけ小言を言われ、家のことは全てやらされ、毎日が嫌で仕方なかったが、母には時に優しすぎる父の存在と
「お金に苦労しないだけマシ」
という気持ちの方が大きかった。
女1人、男2人の母となる
母が忙しい日々を送る中、私は祖母が探してきた『その地域では有名なお高い産婦人科』で生まれた。祖父母の愛とお金をたっぷりと浴びて育てられた私は、祖母が意地悪ばあさんだと気付くまでとても長い時間がかかった。
今振り返ると、祖父母は私をとても可愛がってくれたが、私の弟二人にはあまりお金をかけてくれていなかったのではないかと思う。
それとは逆に、母は弟二人に甘い人で特に下の弟への愛情が強かった。私だけが祖父母に可愛がられているのは、母親として耐えられないことだったのかもしれない。
祖父は、若いころテーラーで働いていた人で、私が小学校に入学するときのスーツを作ってくれた思い出があるが、毎日家にいて、趣味の絵を書いたり、たまに祖母の運転手として外出する以外はヒモのような生活を送っていた印象だ。私は祖父に本を読む楽しさや旅行をする楽しさを教えてもらい、とても懐いていたが、母が子供を連れて実家に戻っている時に祖母に暴力を振るっていたことを祖父が亡くなってから聞かされた。
まだ私達が小さいころ、母に向かって祖父は
「週に1度帰省するように」
と金曜日の夕方に車で送り届け、日曜日に父が迎えに来ていた時期があった。子供がうるさすぎて祖父のイライラは1週間持たない状態だったのだろう。そのうっぷんを祖母に暴力という形で発散させていたのだ。
意地悪な祖母から離れられる帰省ではあったが、母にとっては喜べるものではなかった。
「実家へ帰省するたびに両親からお金をせびられた」
と。これも結構後になって知る話だった。
当時、母は27歳。父は26歳。当時7歳だった私の中にある父は『年に1度海に連れて行ってもらった』程度の思い出しかない。
私は小学生に上がった頃、小児喘息を発症した。
当時はいい予防薬もなく、発作がでれば夜間の総合病院へ運び込んで吸入や点滴を受けていた。特に季節の変わり目は発作が出る頻度も高かく、その度に母は祖父に頭を下げて病院へ運んでいくれていた。
「あんたの喘息がひどかったから、車の免許をとったんよ」
祖父は私を病院へ運ぶのがほとほと嫌になったらしく、母に車の免許を取得するようにと勝手に自動車学校の申し込みをしてきたことを少し恨みがましい様子で話してくれたことを思い出す。
免許が取れた後は、父から中古の軽自動車を買ってもらい、深夜に病院と家をただただ往復する日々だったと。
死んじゃうのかな。私。
まだ小学生の頃だったか、私が肩で息をしていると母が
「あんた、もう死ぬって」
と背中を強く叩かれながら言われたことがある。その後、喘息の発作が出ても母を起こすことができず、本当にこのまま死んでしまうのだろうなと子供ながらに恐怖におびえた。
失神寸前の私を見つけて病院へ連れて行ってくれたのは、やはり母で。
私が生まれなければ、あんな家に嫁ぐこともなく、私が生まれなければ夜中に病院へ頻繁に通うこともなかっただろう。
溺愛した息子の死
二番目の弟が亡くなったのは私が26歳の頃。
母は私が小学生の頃、この弟だけを連れて1ヶ月以上、家出をしたことがある。私ともう一人の弟は母親に捨てられたと大きなショックを受けたことは今でも鮮明に思い出す嫌な記憶だ。
母の会社の人の手引きで隣県に潜んでいたが、父から連れ戻されてきた時は単純に喜ぶことが出来なくなっていた。
「あの子はまだ小さかったから」
一番下の弟は両親との3人で旅行に出かけるなど、兄弟の中でも明かに溺愛されて育てられた。
その反発からか、青少年時代は非行に走り、地元警察からも目を付けられるようになっていたが、父が結婚した年齢と同じ19歳の時に授かり婚をすることになった。
相手の女性は弟と同じ19歳。見かけとは違い、とても素直な子のようだった。若い夫婦は、私の両親がそうであったように、弟夫婦もまた、我が家で同居生活を余儀なくされたが、結婚式を目前にして悲しいことに子供が流れてしまったのだ。
その悲しみを紛らわすかのように、弟たちは毎晩喧嘩をしてはどちらかが一晩中帰宅しないという日が続いていた。
ある朝には、弟嫁の顔中に塗られた口紅の後を見た弟が発狂して大騒ぎを起こしたこともある。
そんな状態に耐えられなくなったのは、弟夫婦ではなく私の両親だった。
二人に離婚を迫り、弟嫁を家から追い出したのだ。
離婚後、弟は悪い友人と再びつるむようになり、薬に手を出すようになった。厚生施設へ入れるために病院へ連れて行こうとすると世間体を気にする父親が止めに入り、弟を殴ったり、髪を掴んで引き回したりといった暴力を振るうのだ。
母は自分も殴られながらも弟を車に乗せて父が落ち着くまで家を出る。
そして、帰ってきて毎回同じ言葉をつぶやくのだった。
「川に飛び込む勇気がでない」
ぐったりとする弟とただただ泣いている母を見ながら、誰にも相談できなかった時間は、早朝に仕事場へ行った父からかかってきた電話で止まることとなる。
電話に出た私に、父は小さな声で言った。
狂った感覚
「お母さんに代われ」
母に受話器を渡すと、母は大声で叫んだ。
「なんでー!!!どうして!!!!なんで死んだの!!!!」
私はすぐに弟が死んでしまったことを悟った。動揺する母を乗せて、父の会社に入ると、私と母は倉庫の梁にぶら下がったままの弟を見上げた。
まだ21歳だった。葬儀で久しぶりに見た元弟嫁のお腹が大きかったことは、強い印象として残っている。そして、そんな彼女に向かって母は叫んだ。
「お前のせいだ!お前のせいで死んだんだ!!!」
弟が亡くなる数日前、彼女と一緒だったことを知っていた母は、荒れ狂ったように彼女に飛びかかろうとしたところを父に制止されて泣き崩れた。
目を腫らして迎えた四十九日
下の弟が亡くなって、四十九日の法要は大きなホールで大人数を招いてのものとなった。
「ワイワイと賑やかなのが好きだったから。」
と弟の気持ちを代弁した母と、社長の息子として小さなことはできないという見栄張りの父の意見が合致した結果だった。
そんな四十九日の法要を翌日に控えた夜。私と母は今ではすっかり内容を忘れてしまったくらい、ちょっとした何かで言い争いになった。
母はずっと我慢していたのか、手に持った受話器を壁に強く投げつけて意味不明な言葉を叫びながら泣き続けた。何度も受話器を拾っては投げる。壁はあちこちに穴をあけた。
私は恐怖と哀しみでただただ泣いた。弟を救うことが出来なかったことも悔しかったが、なにより、勝手に死んでしまった弟に怒りの気持ちがふつふつと湧いてきた。
『あんたが死ななければ!あんたが!!!』
遺影に向かって、声に出さずに怒りを伝える。どこにもぶつけられない怒りは、自分で押さえるしかない・・・私も母も分かってはいたが、父が帰宅して止めに入るまでの間、地獄は続いた。
再び始まる、嫁姑の戦い
下の弟が亡くなり、両親は寂しくなったのか上の弟夫婦と二世帯住宅を建てると言い出した。
弟夫婦には子供が生まれたばかりで、広い部屋も必要だったのか揉めることなく新居の建て替えが始まった。
新しく建った二世帯住宅は1階部分を両親が、2階は弟夫婦のリビングと2部屋、私の1部屋が割り当てられた。
母は初孫が可愛くてしかたなかった。ずっと一緒にいるうちに、孫はすっかりおばあちゃん子に育っていった。
弟嫁はそれがとても気に食わない様子だった。何かにつけ
「ばぁばがいい」
という子育てにうんざりしていたのだろう。限界が来たある夜、母と弟嫁が喧嘩している声が家中に響く。
「すぐにお母さんが甘やかすから、ばぁば、ばぁばって言って困ります!」
そんなつもりは無かった母は、ショックを受けたのか、それ以降は弟家族に自分から関わろうとしなくなっていった。弟に二人目の子供が生まれたが、全く育児を手伝うこともしなかった。
弟が嫁の代わりに母に子守りをお願いをすると
「また何か言われると嫌だから」
と短時間の子守りもしないようになった。
母の代わりに私が子守りを買って出ることも何度かあったが、私が抱いていると母は寄ってきて優しい声で話しかける。本当はこの子にもたくさん愛情を注ぎたかっただろうなと思いながら母の様子を見ていた。
私の出産と母の異変
37歳になって、結婚した私は39歳で息子を生んだ。
妊娠高血圧症候群の発症した私は、妊娠36週で誘導陣痛での出産が決まった。
母は病院へやってきたのだが、まもなく生まれる・・・と陣痛で苦しんでいる私に向かって
「ねぇ、私、ここにいても仕方ないから帰ってもいい?」
と聞いてきたのだ。私は衝撃を受けたが、その会話に答える間もなく出産のため部屋を移動した。
母は私の夫や夫の母親からの説得を受け、出産まで待ったそうだが、帰りの駐車場で問題が起こった。
「バッテリーが上がってて、エンジンがかからなくて大騒ぎだった。」
この話を弟から聞いたのは出産、退院してからのことだ。
母は何事もなかったかのように、翌日も病院へ来ていた。
今思えば、そのトラブル自体を忘れてしまったのだろう。
丁度この頃、弟夫婦は二世帯住宅を出て近くにアパートを借りて別居生活をスタートしていた。そんなこともあって、私は弟夫婦が使っていた2階で出産後は少しの間、過ごすことにした。
母は毎日何時間も子供や私の世話をしてくれた。
「ずっと赤ちゃんの世話をしたかったんよね」
そう言いながら、子供の洗濯物にアイロンをかけたり、ミルクを飲ませたりととても穏やかで、こんなに居心地の良いと感じるのは何年振りだろうと思うほど、実家暮らしに甘え切ってしまっていた。
1ヶ月が経つ前に父が真剣な様子で私と夫に向かって頭を下げた。
「お母さんがイライラしているんで、そろそろ帰ってくれんか。あと、お母さんにお金を渡してくれ。」
私は父の言葉に戸惑った。なぜなら、生活費としてお金は渡していたのだ。
父はそのことは知らなかったようで驚いたように
「食事も作らされるのにお金も払わないって怒ってた」
と母の1階での様子を伝えてきた。その言葉に私は更に驚く。
食事は自分で用意していたし、なんなら両親の分も作って渡していたのだが。
この時、母は59歳。
更年期障害とは一体いつまで続くのだろうか。
そして、本当に母は更年期障害なだけなのだろうか?
疑問は日々大きくなりながらも、私は子育てに続き、夫の転勤が重なり両親の変化に自ら動こうとしなくなっていった。
早すぎる父の死
夫の転勤に付いて地元を離れる直前、父のガンが見つかった。ステージ4で手術対応が不可だと言われ、できるのは抗がん剤治療のみ。
父はリビングウィルで入ってきたガン保険を全て自分の事業に当てた。
私が、先進医療に使わないのか?と尋ねると
「どうせ死ぬんやから、大事な会社に使う」
父がそう答えると横にいた母もあっけらかんとした表情で
「そうよね。それがいい」
と言う。父はまだ60歳。死ぬには早すぎるから何か治療を探そうと説得を試みるが、
「どうせお前は遠くに行っていなくなるんやから、関係ないやろ!」
と突き放されてしまう。
父のガン、母の異常を心の隅に追いやり、私は慣れない気候の場所で新しい生活を始めた。私が地元にいない間、近所に住む母の友人が脳神経外科へ連れて行ってくれたことで、「若年性痴ほう症」がやっと発覚した。
まだ薬で進行を遅くすることができる時期だと診断されたことで、私も一つ肩の荷が降りたと思い込んでしまっていた。
実際は、薬が効いて少しでも進行が遅れたのかどうかは分からなかった。ただ、次に会った時、母は明らかに様子が変わっていた。
地元を離れてから1年を待たず、その日はやってきた。
父は死ぬ間際まで美味しいものを食べて、風呂に自力で入り、家族や友人に囲まれて61年の短い生涯を終えたのだ。
母は父の手をにぎって、ニコニコとしている。
「ほら、まだ暖かいよ」
そういって、孫に触らせていた。結局、この後も母の涙は一度も見ることが無かった。通夜では久しぶりに自分の姉や弟たちと再会して大喜びしていたほどだ。その光景はとても異様で、親戚から口々に
「お母さんを病院へ連れて行け」
と言われるほどであった。
母の様子がおかしいのは親戚だけではなく、ご近所さんの間でもすっかり噂になっていた。
地域包括支援センターへ
私は父の葬儀を終えた翌日、不謹慎かとも思ったが実家で過ごす時間が限られていたので母を連れて地域包括支援センターを訪れた。
支援センターでは、母が一人暮らしになることをメインに相談した。
どう考えても一人では生きていけそうにない・・・そして、これ以上、弟夫婦に負担はかかけられない、そう思ったからだ。
話を聞いてくれた方に向かって、母は相変わらずニコニコと笑っている。時に冗談もいいつつだ。
前日に夫の葬儀を終えた・・・・・以外はいたって明るい普通の人のようだった。しかし、診断書にはしっかりとアルツハイマー型認知症の文字が書かれている。
父が亡くなったことにより、母は社会保険の3級から国民年金保険へと切り替える必要があった。また、銀行関係や家のローンの支払い、保険金の受取などで母が直接出向く必要や母の直筆サインを何度も求められた。
ヘラヘラと笑い続ける母を連れて、年金事務所や銀行を回り、みみずが這ったような文字のサインを書く回数を重ねるにつれ、母は怒りモードにシフトチェンジする。
「病気なのだ。これは病気なのだ。」
と何度も自分に言い聞かせて、母の背中を撫でながら気分を落ち着かせようと試みる。
私は行き交う人、全ての人が聞こえる声で叫びたかった。
「気にしないでください!母は若年性痴ほう症なのです!」
と。
地域包括支援センターで話をしているうちに、私が母を引き取るということも考えたが、話をきいてくれていた女性が優しく
「それはやめた方がいい。若年性痴ほう症は想像以上に大変だから」
と私に言った。そして、母には
「色々手配しましょうね。ヘルパーさんも頼めるし、デイにも行けるし、一人で住めるうちは一人がいいよね」
と。母は笑顔で
「そうよー!私、やっと主人の重荷から解き放たれたと思ってるのに!」
と答える。この会話だけ聞いていれば、母が若年性痴ほう症というのは嘘なのではないかと私も思ってしまうくらいだ。
一人暮らしの限界
弟からの電話で母を施設に入れると連絡が入ったのは、母が一人暮らしを始めてから2年が過ぎた頃だった。
ヘルパーさんが家を訪れると、トイレの後始末に困った母が壁中に汚物を塗り、汚れた手をふき取っていたとの報告を受けてからだった。
私は子供を連れて、弟夫婦の家へ向かった。ケアマネジャーさんとヘルパーさんを迎えて、母の現状と施設の紹介の話を進めてもらうようお願いをした。
弟夫婦に全てを託すことはとても申し訳なかったが、有難いことに、すぐに特養ホームへのショートステイ先が決まり、ショートステイを重ねて正式な入居が決まった。
夏の暑さが半端ないお盆休みに私は初めてホームを訪れることができた。
最後に母に会った日から半年が過ぎていた。
たった半年・・・・そう思っていた。
広いロビーのソファに座って、ニコニコとしている母の姿を見つけた私は
「お母さん、来たよ」
と声をかけた。すると、母は笑顔を少しひきつらせて、
「あぁ」
と言った。その瞬間、母は私が誰だかわからなくなっていることを表情から知った。あまりにもショックだった。半年前はちゃんと私の名前も孫の名前も言えたのに。
「私よ。」
私が名前を言うと、母は笑顔になって
「娘はねー、今遠くに住んでいるの。この前、子供が生まれてね。男の子でねー」
と私に向かって、話し出したのである。
認知症は残酷な病
母の中で私は消えてなかったのである。私の姿を認知できなくなっても、母の中で記憶は残り続けている。そう気付いた時、嬉しさと共に
『なんて残酷な病気だろうか』
という気持ちでいっぱいになった。
私は、母が若年性痴ほう症と診断されたとき、母の記憶が無くなることへの恐怖は、ほとんど感じなかった。それどころか
「今までの嫌な思い出が消えてしまって、羨ましい」
とさえ思ったのだ。
良いことも多分にあった人生だろう。でも、母はとても苦労してきて、私が思い出す母との時間は悲しいものがとても多かった。
全部忘れてしまえたら、この先の人生がただただ何だか分からないけど楽しいなーって思う人生だったら、母は幸せなのではないかと思っていた。
そして、私もそんな母を見て
「じゃあ、私も幸せになってもいいよね」
と母に言える日が来ると思っていたのかもしれない。
母の中で私は一体どんな存在だったのだろうか。
今となっては知る方法はないので、考えても無駄なことなのだ。
流行り病の問題もあり、帰省することもできず、あの日以来、母に会っていない。
弟夫婦の話によると、歩くことも、自分で食べることもできなくなったそうだ。
もしもの時の延命治療については私に一任された。
その決定権はとても重いものだが、弟夫婦に任せっきりだったことを思うと私が背負うべき責任だと思っている。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
一気に書いたので、読みづらい箇所があると思います。
後々、思い出しながら追記予定です。予定は未定ですが。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?