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【⚽️日本サッカーを愛そう】【雑感】個サポ論争2024

オフ。

今シーズンは特に選手の異動が激しく、そして早い。しかも完全移籍が多い。気がする。

選手にとっては唯一無二のサッカー人生。
残るも愛。移るも愛。移籍という概念の無い我ら箱推しにとってはただただ指をくわえて見守るしかない残酷な時間。しかし、それもまた愛。

待って嘆き、待って喜ぶ。去るもの追わず、来るもの拒まず。なんだかんだいって結局は来季誰のユニフォームを買おうか迷ってるだけの、愛しさと切なさと、心強さのオフシーズン。

一方で、
そんな定住民をしり目に渡り鳥のごとく選手と共に大移動を始める人たちがいる。そう。いわゆる「個サポ」と言われる人たちだ。




■個サポは悪なのか

かつてこんなnoteを書いたことがある。

結論から言おう。はっきり言って個サポは悪ではない。むしろ歓迎すべき存在だ。

理由は2つある。

ひとつは、
何かに興味を持つきっかけとして、誰かが気になる(好きになる)というのは凄く当たり前の入り口だから。

そして、
日本のサッカーがコンテンツとしてより豪華になるためには、もっともっとファンのすそ野を広げることが重要であり、その役割を担う存在こそが個サポだからである。

つまりは個サポは悪どころではなく、大いに歓迎すべき存在なのだ。



しかし、
なぜかそんな個サポさんに対して攻撃的な人たちがいる。そしてそのことを嘆く個サポがいる。なぜそんなことが起こるのか。

今回はその理由を少し紐解いてみたい。




■愛は盲目

愛に対する表現は自由だ。自由であり、盛大であり、ゆえに自分自身の外側へ溢れて当然でもある。

LOVEの「L」はLARGEの「L」。そしてLIFEの「L」。
上手いことを言っているようで全然上手くないのはさておき、当人にとっては人生そのもの。

しかし愛とは時に盲目であり、危険を犯す。

そんな愛情表現において唯一やってはいけないことがある。それが、推しを推すために他の選手を引き合いに出すことではなかろうか。


うどんの素晴らしさを表現するために、そばをこき下ろす。
猫の愛くるしさを語るために、犬のことを悪く言う。

間違った愛の表現方法。超えてはいけない禁断の一線。

個サポはこれをした瞬間、
日本サッカーを盛り上げるための尊い存在から、圧倒的にうんこと化してしまうのである。




■個サポの敵は、個サポ

殆どの人がそうではないが、残念ながら毎度見かけてしまうのもまた事実な、この偏愛。

同担拒否とはちょっと違う、でも強すぎる独占欲ゆえの他への攻撃。悲しすぎる我の強要


あいつが悪い。〇〇は頑張っているがこいつは悪い。こいつを出すなら〇〇を出せ。クラブはアホか。監督はアホか。
たとえそれが緻密な戦術眼に則った正しすぎる指摘だったとしても、そばをこき下ろすことでしかうどんの良さを語れないヤワな評論家となんら変わらない。

そして、
それを目にした人が思い、こうして通説は創られる。個サポは悪である、と。


はっきり言おう。

個サポが嘆き抗う相手は実は箱推し勢では無い。むしろ個サポ自身ではなかろうか!!!




■愛のカタチとは何か

とはいえ。
箱推しやなんやとセグメントしている時点でナンセンスなんですけどね。
愛する形は三者三様。であれはそれを表現する方法も色々あって当たり前。

箱推しであれ、個サポであれ。何が良いとかどっちが良いとかは基本的に、ない



その昔上京したての頃、
東京生まれ東京育ちの実家大好き同級生に「東名で静岡(の西部)通ったけど山と田んぼだらけだな」と言われて本気で遠州灘の荒波に放り投げてやろうかと思ったことがある。

東名なんて山間につくって当然だろうと思いつつ、何かを肯定するために何かを否定する態度はやっぱり波が立つ(遠州灘だけに)。

クラブを構成する要素である選手たちは、一方で誰かの個サポの対象である。だから誰かを推すために、誰かを引き合いに出してはいけない。絶対に。

それを踏みにじった時点で論争が生まれるのは至極当然の摂理ではなかろうか。




残るも愛。移るも愛。
それは選手も、サポーターも同じ。

全てが正しい愛の上に存在し、個サポ論争なんてこの世から無くなればいい。

本気でそう思っている。



あなたのオフは、幸せだろうか。

本日も、最後までお読みいただきありがとうございました。



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