見出し画像

渋谷の空虚達

スクランブル交差点は洋画ではお決まりの東京の
象徴になっているし、
あの日本人特有の規則的な習性をも表現する
皮肉がきいている。

渋谷には将来を考えているのかいないのか若者が集まり、
ふらふらと何かを探している。
何を探しているのかもわからないけれど探している。


量産型ファッションと、

個性派ファッション。

ファッションはセンスを表すと思っていたけれど、
最近はどちらも本人の意思が伝わらないのが不思議である。

懸命な組み合わせも、
どれも見たことがある姿にたちかわる。

おじさん達が今の子がわからないとよくいうけれど、
同年代でもわからないのだ。

本人すらわからないのだ。

それほどに自我が埋もれている気がする。


私が上京したての頃、渋谷を目的もなしに歩いていると
突然どうしようもない不安が襲った。

渋谷を歩く人はみんなどこかに向かっていて、
忙しそうだと思った。

そんな流動の激しさに、疲弊し不安になった感覚を覚えている。

「私はどこへいくんだろう、このままでいいんだろうか」

何か確実で早い、目に見える物を無性に求めてしまう。

「そんなものはない」と言われても信用できず、

「若い」と言われても当の本人は焦っている。

「何かしないと」という急かされる気持ちのまま

何か、何か、を手当たり次第にしていれば
何も、残らず時間は過ぎていった。

あれから2年が経とうとしている今

私は随分渋谷をわからなくなってしまった。


偶然出会う子は年下が増えた。

新しく出来たお店は趣味趣向に合わず、
私をターゲットにはしていないみたいだ。

そしてまた違う誰かがこの街で不安に襲われている。


そういえば私の気持ちばかりの焦りは

結局いつから落ち着いたのだろう。

そういえば私に出来たあのどこにも
辿り着けないような不安の穴は、

結局どうやって塞いだのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?