自分のトラウマを振り返ってESを書く22卒の話。




 最近、自分のことを好きなように書く文章が書けてないな、と思ってnoteに手を出してみた。
 大学の授業があると、必然的にレポート課題で自身の独白とか思考を言語化しないといけないので、それが半分ストレス発散(もう半分はストレスの原因)になっていたようだった。おかげさまで、あれだけレポートの山に散々苦しめられた上半期がかなり恋しい。執筆量が多いだけで、テーマは興味のあるものばかりだったからだ。
 なので今回は、最近のストレスの大元を振り返り、愚痴をぶちまけるだけの文脈を考えない支離滅裂文章を書きます。気持ちいい文章ではないし、自叙伝的なものなので、「は~こんなやつもおるんやな」程度のものだと思ってください。あんまり人に大っぴらに言えないことをここに吐き出します。闇の深いポケモン図鑑の説明文的なやつです。





 現在私は某私立大学の大学三年生(文系)である。そして絶賛就職活動中だ。
 殆どの就活経験者はお判りだろうが、就活とは地獄も地獄な、ストレスの渦中に自ら突っ込んでいく自傷行為である。特に今年は。
 有無がころころ変化するインターン、通らないES、就活サイトからの脅しのようなメール、つのる将来への不安。なによりコロナの影響が非常に大きい。もう日日に焦燥感しかないのである。私の従姉妹は就職氷河期の世代で、某国公立の学生だったにも関わらずもうそれは苦労していたのを見てきた。そんな悲惨具合を我々22卒を待ち受ける現実は超えていくのだそうだ。不安にならないわけがなかろうよ。もう正直インターン選考でてんやわんやしている三年生現在でメンタルがボロボロなのである。
 そもそも私の大本命で、昨年度からサマーインターンを狙っていた企業がインターンを中止した段階からかなりメンタルに来ていた。コロナの影響を多大に受けていたのは実感していたし、同じ業界を狙っていた先輩が面接途中で採用中止の憂き目にあっていたのも風のうわさで聞いていたから、なんとなく覚悟こそしていたのだけれど…。もはや、私立文系として就活が大変なのを前々から意識して、一年次からスタートダッシュをかけていたのが色々と裏目に出ている。二年で参加したインターン先で当時三年の先輩に「あと一年就活するって思うとえぐいね」と言われたことを最近無茶苦茶に実感しているところだ。まあ昨年から予想しうる「就活」と今のコロナ禍の「就活」は大きく異なっているから一概に比較するものではないが。


 ストレスの原因は、単純に就活システムとか、採用数の変動とか、真っ最中の不景気だけではない。私は現在、見事に人間不信に陥っているのである。
 前述の通り、私は比較的早期から就活を意識していた方である。低学年対象の就活セミナーや合説なんかも率先して参加していたし、コロナ禍前にインターン参加も経験していた。なにより、実母がそれはそれは現実主義者で、一年のころから頻繁に就活について意識するよう言われていたのである。母は俗にいう「頭がすごく回る人」であった。彼女自身もよく口にしていたが大手芸能事務所のマネージャーとかになれるタイプだ。「予想する力」が強いので、今は廃業した母の実家の家業も、彼女が一時経営を担ったときは見事に持ち直したそうである。
 そんな母に口酸っぱく言われ(勿論感謝している)比較的計画的に人生を送ってきたおかげか、私は各所で「知識豊富な相談相手」になることが多かった。そしてそれは、就活においても例外ではなかったのだ。


 平均的とは思うが私の周囲も三年になってようやく就活を意識する層が多かった。特にコロナ禍の混乱もあって22卒の焦りは相当なものだ。某就活応援サイトのセミナー等を受けても自粛続きのなか不安は拭えない。誰かに相談したい。その相談先として、私が選ばれるである。

 いや待て。ちょっと待って。私だって不安多き就活生なんだが?
 

 持論だが、私は就活において周囲にいるもの皆が敵だと思っている。狭き採用の道、しかも今年は特に情報戦だ。なんとなく暗黙の了解として互いの志望業界を明かさないなかで、相談、愚痴、泣き言のエトセトラ、エトセトラ…。世の中コネとは言うけれど、競争相手かもしれない相手だぞ?鬱にもなるわ。考えろよ。
 このご時世中途採用とか、新卒一発採用だけが道ではないことも知っている。転職だって当たり前だ。就活浪人だって、院進だって人生の選択肢の一つにすぎない。生きるための道はいくつだってある。でも私は就職したいのだ。うまくいかないかもしれないけれど、挑戦したいのだ。そのために競争相手の周りを気にする余裕なんてないのである。

 

 私はとにもかくにも就活に失敗することが怖い。原因は明らかで、私の育った周囲に優秀な人が多すぎたからだった。母は言わずもがな、私の父方は親戚筋すべてが優秀だった。もともとが医者の家系であるし、医者でなくても獣医や芸術家で成功している人なんかもいる。父は中でも異例で、本家筋の長男でありながら学者となりそれでちゃんと身をなした人だ。家業を継いだ人、もしくは「好き」を仕事にした人しか周りにいないのである(母も父と同じタイプであった。)
 それに加え、私は幼少期から父の学会や学者仲間たちに囲まれて過ごしてきた。皆が皆、自身の研究テーマに没頭し、「好き」を仕事にしていった人だ。それだけの熱意があって、努力ができる、優秀な人たちだった。比べるなんて頭が高くても、どうしても意識をしてしまうのはしかたがないというものだろう。
 そんな人たちを見てきたから、必然的に「うまくいく人」のテンプレートが私の中では出来上がっていたのだ。学歴のある人。一芸のある人。一般的な社会じゃなく「好き」に生きられる人。
 一般企業の就職活動に追われている人なんて、見たことがなかった。そして、私はその「うまくいく人」の殆どに当てはまらなかった。

 学歴を見ても一族の中では最下層の方だ。Fランを含めた世間一般で見れば頭がいいなんて言われるが、国公立やら医学部やらが乱立する中ではてんで及ばない。父方の兄弟で男子なのは私の父だけで、あげく私が一人娘なのもあって、本家の後継ぎでありながら「中堅私立文系の女の子」なんて、遠回しに言ってくる親戚もいた。(その一家は男子3兄弟で、子供は皆獣医になっていた。)
 父も母も私には自由にさせてくれたので、一族の諸々を教えてくれて、私自身がそれを意識するようになったのは私が大学にはいってからだった。いや、それまでは中学受験に成功して、名門中高一貫校の生徒であったから、何かと意識する必要もなかったというのが真相だろう。
 私を「中堅私立文系の女の子」といった親戚は、たった一人だったが、一人いれば十はいるものだ。今の大学に入学したのは私の意志で後悔はないが、この侮辱を見返すには就職に失敗する、なんてできるはずがない。

 また、私には一芸がなかった。もしかしたら伸びるものがあったかもしれないが、板挟みになって捨ててしまったのだ。
 昔から好きなことに絵を描くことがあった。高校生の頃進路に迷っていた時、母に芸大を進められた。芸術家として成功している親戚の母校でもあった。母は私のデザインやレタリングの才能をよく絶賛していたのだ。あの、頭の回る、人の見る目がある、プロデュース力のある母が、である。私自身興味のある分野であったし、母は自分の娘の才能を見る目を疑わなかった。なにより後から知ったのだが、彼女はかつて芸大志望で才があったのにもかかわらず親の反対で挫折した人間だったという。
 ご存じの方も多いと思うが、芸大受験は過酷だ。評価基準もまばらな、浪人なんてザラな世界。画力の成長だけでは補えないものがある。何より身近な友人に画塾でも絶賛される程のとんでもない天才がいた。画塾で数少ない同じ高校同士としてよくよくセット扱いを受けたが、私と彼女では天と地だった。誰が見ても彼女は「受かる人」だった。受験3項目に非の打ち所がないのだ。誰だって努力はするが、同じ学校出身の私は、彼女の絵への熱量も芸大へのスタートダッシュも桁違いだったのを知っている。進路に迷って画塾にやってきた私とは違うのだ。(そもそも画塾に通っている人で「迷った末」という人を見たことは殆ど無かったように思う)いくら技術が向上しようと超えられないものを見てしまった私はすぐそばに「受かる人」を見て、確かに自分には無理だと確信したのである。
 そこで早々に進路を切り替えられれば良かったのだが、難点があった。母の存在だ。画塾で必死に学べば学ぶほど、自身が芸大には合格できない確信がわいてくる。周囲との熱量も開いてくるように感じた。自分の描くものになんの自信も持てなくなっても、それでも母は私の作品を褒めた。合格できると言い続けた。私を信じてくれる母を裏切るのが恐ろしくて、いつからか応援はプレッシャーになっていた。決定的だったのは、高3の始め、「自信がない、私には無理だ」と初めて芸大受験の弱音を吐露した時である。諦めるならそろそろだと思ったのだ。画塾代を払ってくれている親に申し訳がなくて、はっきりと意志が伝えられなかったと、今なら思うが、弱音を吐くことさえ当時の私には勇気がいった。それでも、私は母の期待の大きさをまだ理解できていなかったのだ。
 それまで母は私にとって良き相談相手であり、気持ちを分かってくれる人であった。私の意志を尊重し、自由にさせてくれる人であった。そんな母からの返事は「そんなことはない。才能があるんだから、大丈夫」だった。
 今思うと、不安げな娘を勇気づける優しい母の言葉だったのだろう。けれど、己が一番実感している足りない実力と、母からの過度な期待に板挟みになっていた私にとっては殆ど死刑宣告だった。どんなに限界を感じようと、不合格が目に見えていようと、自身に向いていないと思おうと、自分の意志では辞められないと分かったのである。
 それからの受験勉強のことはもう、どうやったらやめられるのかと考えていたことしか記憶にない。画塾に通わせてもらっておいて贅沢な悩みすぎることである。それでも、自分の実力が上がり評価をもらえば、それだけ母の期待は大きくなるし、それでも実際に画塾に通えば通う程「わたしは受からない人間だ」という確信だけが強まっていった。
 そんな日々は、私が体調を崩したことであっさり終わりを告げる。原因不明の胃痛もろもろ内蔵の不調が続き日常生活に支障をきたすようになって、とうとう画塾前に腹痛で立ち上がれなくなった。病院でストレスからの過敏性腸症候群(ストレスを抱えていて胃腸や便通の不調、ガスに悩まされている人は一度内科を受診してみてください。それだけで気が楽になります。)と診断され、そこでようやく母もあきらめがつき、受験の方針を切り替えることとなったのだ。
 そうして私は一芸の道を捨てた。よくいる文系大学生の道を選んだ。自分で選んだ道だ。誰にも期待されず、自分のしたいことを自分で考えて進んだ道である。もう逃げたくないのだ、そして負けたくなかった。


 だからこそ、今度は私なりに「好き、やりたい」ことをこの大学生活のなかでじっくり考えてきた。学歴も、一芸もない私が唯一抵抗できるのはここだけだった。そうして三年生の本格インターン開始を迎えようとして、コロナだ。中止になる志望インターン、今になって焦って私が挫折から必死にあがくべく集めた情報を軽率に聴いてくる周囲、「どうしよう」も「大変だね」も言われるのには飽きた。人間不信になるのもしょうがないだろう。最近になって、芸大受験の時にも狂わなかった生理が無茶苦茶不順になっているのを見ても、やってられん、マジで。




あーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!もうES書きたくないなーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(これが本音中の本音)




 以上、努力が報われたいと願う一介の22卒大学生の独白でした。ESにかける時間と落ちる時のメール一通の落差激しすぎない?

 同学年はみんな敵だけど、体調だけには皆さん気を付けましょう。
 

 表現として美大のことを「一芸」と書いたけど、実際一芸なんて表現で収まらないことも分かっているし、芸大生同期で就活に発狂している層も勿論いるのは分かっています。ちなみに画塾当時の同級生とは今でも交流してるよ。私はあれ以降すっかり筆もペンも握ることはやめてしまいましたが、未だにデッサンなんかは楽しいですね。あと鉛筆削るのはいまだに得意です。

 それではストレス発散になったので、今からES書いてきます。

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