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私の子育て体験記

私には3人の息子がいます。

次男の悠太は発達障害を抱えています。

現在、悠太は34歳。実家のある宮城県石巻市を離れ、東京で働きながら一人暮らしをしています。

これだけ聞くと「自立して都会で働いているんだね。障害があっても無事に社会生活ができてよかったね。」と思われるかもしれません。

でも悠太が子どもの頃、特に発達障害だとわからなかった頃は本当に大変でした。当時は、「なんで普通の子にできることができないの?」と悩んだり、発達障害の症状とされるこだわりの強い行動に戸惑ったりしていました。

私は数年前、発達障害者支援に取り組まれているチームの方々から取材を受けたことがあります。その取材では悠太の子ども時代の話や、悠太に対する家族の関わり方についてたくさんお話ししました。

お話ししているうちに、私自身もすっかり忘れていたことを思い出したり、今は笑い話にできるけれど、当時はとても辛かった記憶が蘇ってきました。

悠太を育てた経験が私をどれだけ成長させてくれただろうかと胸が熱くなりました。

2時間以上にわたり取材していただいたのですが、インタビュアーの女性から「鈴木さんのお話は、発達障害のお子さんを持つ親御さんにとって参考になるお話ばかりだと思います。私たちが計り知れないご苦労をされているのに、それでも明るく楽しくお話される鈴木さんの言葉や雰囲気は、お子さんのことで悩まれている親御さんの励みになると思いますよ。」という感想をいただきました。

悠太を育ててきた私の経験は葛藤の連続でした。泣いたり笑ったり怒ったり、、、まるでホームコメディのドラマのような人生でした。

この文章は、一人で子育てに悩まれているお母さんたちへエールとして私の経験を綴ったものです。拙い私の失敗体験ばかりですが、お読み下さったお母さんの心が少しでも軽くなったら嬉しい限りです。

どうぞあなた自身を認めてあげていただきたいです。そして「よくやってるね。」とご自身にいたわりの言葉をかけてあげて下さいね。

鈴木真理子


疑問だらけの子ども時代

悠太の子ども時代、発達障害だとわかる前の行動は本当に不思議でした。悠太は2〜3歳頃から、ひとつのことに夢中になることが多かったです。

例えば、数字やアルファベットを見つける遊びが大好きで、車のナンバープレートの数字を探したり、アルファベットをAからZまで並べて書いたりしていました。

息子は順番や並べることに非常にこだわり、間違えると最初からやり直していました。それだけに集中して、延々と繰り返していました。

機関車トーマスや戦隊モノのおもちゃを順番に並べては動かし、また並べ直すという遊びを繰り返していました。

一緒に買い物に行った時は、好きなおもちゃを見つけると私から離れ、おもちゃの前でじっと見つめていることがよくありました。

このような行動だけを見ると一般的な子どもとあまり変わらないように思われるかもしれませんが、これらの行動のせいで迷子になることがたびたびありました。

そして、親を探すこともなければ、迷子になって泣くわけでもないのです。

悠太が迷子になるたびに私は心配で不安でした。私が「お母さんが探さなかったらどうしていたの?」と聞いても、息子は「おもちゃが見たかった」と言うだけでした。

少し大きくなって、小学生になると漢字の部首や年表などに興味を持ち、どんな状況でも本人のタイミングでクイズを出してきました。「漢字の部首クイズをしまーす。にんべんの漢字は?」と。

私が家事で忙しい時でもおかまいなしにクイズを出してくるので、「後でね」と断る時がありましたが、断ってしまうと「話を聞いてあげればよかったかな?」と私自身を責めたり悩んだりしました。

ヨーヨーがブームになった時期がありました。悠太はヨーヨー名人のビデオを何度も見ては練習し、家族から「狭いところでするな!」と怒られてもやめませんでした。息子は部品を集めたり、技を極めることに夢中でした。

漫画本やビデオ、ゲーム、カードゲームのコレクションにも熱中し、集めて並べることが好きでした。お菓子についてくるカードも、すべて集めるまで買い続け、兄弟のカードを黙って取るなどしてケンカが絶えませんでした。

当時の私は、悠太をむやみに怒ってばかりいたように思います。兄弟と比べてはいけないと思いながらも、悠太の行動に違和感を覚え、「どうしてわからないんだろう?」と悩みました。

発達障害は目に見えないため、理解するのが難しいです。特に、悠太のような健常者と障害者の境界線にいる子どもは、行動が障害によるものなのかの判別がつきにくいと思います。

当時の私は

「普通のことができないのはなぜ?」

「普通って何?」

「個性と捉えれば良いの?」

「育て方が悪かったのではないか?」

と自問自答しては悩みました。

悠太が発達障害ではないかと言われた時は、事実を知ることが怖く、認めたくないと思っていました。しかし、今振り返ると、悠太の障害を受け入れられなかった時は、いつも感情的に怒っていました。また、自分が悪いのではないかと自分を責めたりもしました。

そこで、勇気を出して専門の先生のカウンセリングを受けることにしました。先生は、「発達障害はひとりひとり症状が違います。悠太くんのようなグレーなお子さんは、あえて診断しなくても良いと思いますよ。本人は困っていませんから。悠太くんの行動の特性を理解してあげて、周りの人が困っていることを繰り返し教えることが大切です。」と言われ、その言葉で気持ちがとても軽くなりました。

「みんな違ってあたりまえ。」と思うようになってからは、普通にできることを求めず、悠太の行動の特性を理解しようと心がけるようになりました。息子に優しく接することができるようになり、良好な親子関係を築けるようになりました。

疑問だらけの行動に一喜一憂するよりも、現実から目をそらさず、発達障害について詳しい方の話を聞くなどして知識を得ること、そして受け入れることはとても大切だと思います。

原因がわからないと不安ですが、わかると安心し、気持ちが軽くなります。もし、お子さんの行動に疑問を持って悩まれた時は、勇気を出して一歩踏み出していただきたいです。誰かに話してみてほしいです。

あの頃の私と同じ悩みを抱えるお母さん達が、お子さんと良好な親子関係を築けますように。

好きな子に対して積極的

悠太は好きなことを見つけては熱中する子どもでした。

数字やアルファベットを並べること、機関車トーマスや戦隊モノのおもちゃを並べること、とにかく順番にこだわっていました。

少し大きくなって小学生になると、漢字の部首や歴史の年表に興味を持ち、私が忙しい時もお構いなしにクイズを出してきました。息子のこうした特性は、好きな友達に対する行動にも現れていました。

悠太が小学校5年生の頃のことです。同じ学校の6年生に同姓同名の鈴木ゆうた君という男の子がいました。

ゆうた君のお家は我が家とは反対方向です。学校からなかなか帰ってこない悠太を見つけて問いただすと、息子はとても嬉しそうに話しました。「今日ね、縦割り活動があって、6年生の鈴木ゆうた君と同じ班だったんだよ。僕と同じ名前なんだよ。一緒に帰りたいなぁと思って」と。

悠太は、好きな子がいても話しかけたり遊びに誘うことはせず、ただついていくだけでした。相手から見ると「ずっとついて来る変な子がいる」と思われていたかもしれません。

「一緒に遊びたい」とか「仲良くなりたい」という言葉は言えないけれど、行動はとても積極的でした。こっそり見るのではなく、どこまでもついて行くのです。

悠太はボーイスカウトに入って活動した時期があります。思春期になると、女子と同じ班になりたくて、最初に決められた班を友達に代わってもらったことがありました。ですがこの時も活動中も話しかけることなく、ただ隣にいるだけでした。その女の子が移動して椅子に座れば、悠太も隣に座ります。

好きなことや好きな人に対する気持ちがストレートすぎて、ここまで自分の気持ちを素直に出せるものかと感心することもありました。でも、こんな調子だと好きな友達から振り向いてもらえないかもしれない…。それが親としては心配でした。

今なら、これも発達障害の特徴だとわかります。

コミュニケーションを取るのが苦手で、空気が読めず、切り出し方がわからなかったり、自分が会話に入るタイミングが計れないのです。

私が発達障害についての知識がなかった頃や、悠太に発達障害の疑いがあると知っても、それを受け入れられなかった頃は、「こんな調子で将来大丈夫だろうか、誤解されたり、騙されたりしないだろうか」と余計な心配ばかりしていました。

ですが本人はいたって平気です。まるで困っている様子がありませんでした。それが理解できるまでは、私は何とかして悠太を変えようとコントロールしていたように思います。

小さい頃には小さいなりの、思春期には思春期なりの悩みが出てきますが、障害の有無に関係なく、子どもは親の心配をよそに成長するものですね。

「親は、勇気を出して子どものありのままを受け入れることが大切だよ。」とあの頃の私に言ってあげたいです。

発達障害は突然やってきた

悠太が中学1年生の時、まだ発達障害だと気づく前のことです。

ある日、担任の先生から「悠太が同じクラスの男の子にいじめられて騒ぎになった」と連絡がありました。いじめの発端は悠太にあったようでした。息子が学校に戦隊モノのシールを持って行ったところ、それを隠されたり、からかわれたりしたのです。

その時の担任は新任の男性の先生でした。先生から、「私も入って3人で話し合いをしたのですが、どうしたらいいかわからなくて困っています」と言われ、スクールカウンセラーの先生に相談するよう勧められました。

「担任の先生では解決できない状況なのか」と愕然としましたが、一筋の望みを託してスクールカウンセラーの先生に相談しました。

カウンセラーの先生に悠太の幼少期からの様子を話すと、「発達障害かもしれない」と言われました。

いじめの解決のために相談したはずが、予想もしなかった答えが返ってきて驚きました。「発達障害」は、我が家にとって突然降って湧いた話だったのです。

それまで私の頭を占めていた「いじめ」が、一瞬にして「発達障害」に変わり、その言葉が頭の中をグルグル回りました。その時の衝撃は忘れられません。

発達障害という言葉は知っていましたが、どんな特性があるのかは今ほど知られていない頃でしたので、どこに相談したらいいのか別の悩みが生まれました。

それと同時に、「悠太は発達障害だから他の子にできることができなかったのか」と、思い当たることがたくさん浮かんできました。

例えば、並べ方にこだわる遊び方は発達障害だったからなのかと納得することが増えました。

「まさかうちの子が…」という認めたくない気持ちと、発達障害なら納得できるという悠太の行動。私の中で2つの葛藤があり、最初は息子の発達障害を受け入れられませんでした。

「いじめ」がきっかけで中学生の時に発覚した発達障害でしたが、今思えばあの時わかって良かったです。いじめ問題は、悠太がシールを学校に持ち込まなくなったことで解決しました。

発達障害を受け入れるには時間がかかりました。でも、あの時もし私が見て見ぬふりをしていたらと思うと、その方がずっと怖いです。

発達障害は本人が生きづらいと感じる場合もあれば、悠太のように本人はさほど困っていないけれど独特の行動で誤解を受けたり、周りに迷惑をかけてしまうケースもあります。

発達障害について知ることが第一歩だと思い、思いきって知り合いに話してみたら解決の糸口が見つかりました。

私の場合、お子さんが障害をお持ちで発達障害に詳しそうな友人に話してみました。その方の紹介で、カウンセリングをしてくれる病院が見つかりました。

「この子は私が守る!」

悠太の発達障害を受け入れた時から、私たちの新しい親子関係が始まりました。

親が生涯子どものそばにいて、子どもの面倒を見たり守ったりすることはできません。

それよりも、悠太のことを理解してくれる人が周りにいる環境、発達障害があっても生きやすい環境、子どもの居場所をつくってあげることが良好な親子関係ではないかと思っています。

発達障害と悠太の行動が繋がった

悠太が発達障害かもしれないという話は突然やってきました。

悠太が中学1年生の時、同級生からいじめられたことがあり、スクールカウンセラーの先生に相談した際、悠太の幼少期の様子を聞かれました。

私が不思議に思っていた悠太の行動をお話しすると、カウンセラーの先生は「発達障害かもしれません」とおっしゃいました。この言葉は、私にとってまさに寝耳に水でした。

「まさかうちの子が」と思う反面、発達障害が原因なら納得できる悠太の行動もありました。私が違和感を感じていた悠太の行動が次から次へと思い出されました。

例えば、小学校の入学式の時のこと、悠太は私が気づかないうちに、ランドセルを背負って一人で学校へ行ってしまったのです。

家では大騒ぎでしたが、学校で悠太を見つけた長男(悠太の兄)の担任の先生が、「もしかしたら弟さんかもしれません」と連絡を下さったことで発覚しました。

また、長男が恥ずかしいと言ってきてわかったのですが、悠太は周囲を気にせず大きな声で歌いながら登下校していました。

兄弟と比べてはいけないと思っていましたが、長男と比べると遊び方にも明らかに違和感がありました。悠太の友達が自宅に遊びに来ても、悠太は同じ部屋にいる友達と一緒に遊ばず、自分の世界に入って一人で遊ぶ子どもでした。

何をやっても行動が遅いのはマイペースな性格だからだと思っていました。でも、よく観察してみると自分の好きなことにはすぐに取り組みますし、時間を忘れて永遠とやり続けていました。関心あることの知識や記憶力にはいつも驚かされました。

息子は2歳頃から数字や英単語を覚えていました。同居していた祖母(夫の母)が、「この子、天才かもしれない」と言うほどでした。クイズ番組を見ていると誰よりも速く答え、東大の試験問題も正解していました。

それなのに学校の試験では成績が悪いのです。中学ではテスト前日になっても全く勉強する気配がなく、「テストの範囲がわからない」と言うだけ。テストに関心がなく、良い点数を取ろうとすることも、成績が悪くて困っている様子もありませんでした。

私が疑問に思っていた悠太の幼少期からの行動が、発達障害という言葉を聞いてどんどん繋がり始めました。

我が子の障害を認めたくない気持ちと、思い出せば思い出すほど発達障害の症状と合致する悠太の行動。当時の私は、悠太が発達障害だと受け入れるのはとても辛かったです。

ですが、振り返ってみると悠太の発達障害を受け入れると決めた時から前向きになれた気がします。

私の体験記をお読みっ下さっている方の中にも、過去の私と同じ悩みをお持ちの方がいらっしゃるかもしれません。どうかお一人で悩まず、誰かに話してみていただきたいです。

相談するのはとても勇気のいることです。信じられないかもしれませんが、今現在の私も勇気を振り絞ってこの体験記を書いています。

この体験記が本当にどなたかの役に立つのだろうか。

むしろ嫌な思いをされる方の方が多いかもしれない。

他の誰でもなく悠太を傷つけることになるかもしれない。

それでも、当時の私と同じ悩みを抱えるお母さん方の気持ちが少しでも和らぐこと、お子さんやご家族との幸せな未来を願い、今この体験記を綴っています。

発達障害から私が救われた言葉

いじめの解決のために相談したスクールカウンセラーの先生から、悠太は発達障害かもしれないから病院で診察を受けてみてはと勧められました。

幼少期からの悠太の行動は、思い出せば思い出すほど発達障害の症状と合致しました。

でも、それと同時に私の頭に浮かんでくるのは「障害を認めたくない、何かの間違いであってほしい」という思いでした。

悠太は集団行動ができ、奇声を上げるとか多動な行動が見られなかったため、乳幼児検診でも就学時検診でも、発達障害と疑われたり受診を勧められたことがありませんでした。

「親が保育士なのに気づかなかったのか?」と思われるかもしれませんが、仕事柄、変なプライドが邪魔をして発達障害を受け入れられなかったのかもしれません。

病院に行ってみようと思っても、「発達障害ではないと言って欲しい」という気持ちと、「もし発達障害と診断されたら、勇気を出してどんな対処方法があるか聞こう」という気持ちが揺れ動きました。

覚悟を決めて病院へ行き、いざ診察を受けてみると、予想に反して落ち着くことができました。今思い出してみると、当時の私の気持ちが最も軽くなったのは、この病院の先生から言われた言葉でした。

「診断はあえてしなくても良いんじゃないですか?発達障害と言っても、周りから見て自分の感情をコントロールできずに奇声をあげるとか、目を合わせないとか、目に見える症状がある人と一般的に健常児と言われる人は一本の線で繋がっていると思ってください。悠太くんは普通にできることもあれば、こだわりがあったりコミュニケーションが苦手で社会生活を送る上で周りに迷惑をかけてしまうこともあるグレーゾーンにいます。今のところ本人は困っていないようです。周りが困っていることを伝えてあげれば良いと思いますよ。それに、発達障害と言っても特性は人それぞれ違います。悠太くんに合った対応をしていくことが大切だと思います。」

(そうかぁ、困っているのは私かぁ。)

この先生との出会いでとても救われました。発達障害に対する自分の捉え方が変わり、気持ちがとても軽くなりました。親子別々のカウンセリングも何度か受けました。

こちらの病院を紹介してくれた友人には心から感謝しています。スクールカウンセラーの先生から発達障害かもしれないと受診を勧められたものの、どこに行ったら良いかわからず焦るばかりの私の話を親身になって聞いてくれて、本当に助かりました。

「みんな違ってあたりまえ。」

勇気を出して病院に行き、対処法を提案されたことで、私の気持ちは穏やかになりました。

周囲が困る行動をした時の悠太への声がけも、感情的に怒るのではなく、周りが困っていることを冷静に伝えられるようになりました。

私の気持ちが穏やかになるとともに、悠太も心を開いて素直に聞いてくれるようになり、納得して行動を改善してくれるようになりました。

一度で改善できなくても大丈夫、繰り返し教えていこうという前提で話すとイライラすることなく、悠太に伝える方法を工夫するようにもなりました。

発達障害だと知る前はむやみに怒ってばかりいた私と悠太との関係が、少しずつ変わり始めました。

悠太を育ててきた私の経験は、葛藤の連続でしたし、人生泣き笑いのドタバタ劇です。それでも、昔の私がそうだったように、おひとりで悩まれているお母さん方の心が少しでも軽くなるならと思い、私の経験を綴っています。

どうかあなた自身を認め、「よくやってるね」とご自身に労りの言葉をかけてあげてくださいね。

発達障害と家族の混乱

子育てをしていると、思い通りにいかないことや予期しない出来事がたくさんあります。

特に発達障害を抱える子どもを育てる経験は、家族全員にとって試練の連続でした。

振り返ってみると私も夫も、そして祖父母も、悠太のことを心配するあまり叱ったり、感情的になってしまったことが多々ありました。

悠太は自分の好きな漫画やアニメ、おもちゃ、ゲームなどに没頭する子どもでした。「今は〇〇の時間でしょ!」と言ってもなかなか切り替えられないのです。

これは発達障害の特徴のひとつですが、別の見方をすると、勉強しないで遊んでばかりいる子どもにも見えます。

悠太が中学生になり、勉強をせずに遊んでばかりいる姿を見て、夫が手をあげてしまった日がありました。初めてのことでした。

部屋の隅にうずくまる悠太の姿を見て、これ以上たたいたら悠太がダメになると思った私は「もうやめて!」と夫を止めましたが、今振り返ると、夫は悠太がこのまま好きなことばかりやっていたら将来が心配だと思ったのかもしれません。

でもその時、悠太に発達障害があるなんて、家族の誰もが思いもしませんでした。

私も、比べてはいけないと思いながら一歳上の長男と悠太をついつい比べてしまうことがありました。

悠太はヨーヨー名人のビデオを見て、いろいろな技のパフォーマンスに熱中するようになりました。好きで練習するものですからどんどん技を覚え上達します。上達することしか考えていませんから、どこでもヨーヨーを取り出してやり始めます。

狭い部屋の中でヨーヨーをすることが何度もあり、祖父母(同居していた夫の両親)から見ると危なくて仕方がなかったのでしょう。悠太は祖父母からもしょっちゅう叱られていました。

嫁姑戦争はどこの家庭でもあることですが、義理の母から私が言われた「真理子さんは子育てのプロでしょう?」という言葉も、当時はとても傷つきました。まるで「保育士なのにどうして悠太をしっかり育てられないのか」と言われているように感じてしまったのです。

でも、今ならその言葉の裏に、私や悠太に対する期待が込められていたことが理解できます。

私は言い返さないまでも、心の中で(プロと言われても自分の子どもを育てる経験を積んできたわけじゃないし、幼稚園の子どもとの関係と、実の子どもとの関係は違うと思う。長男の子育てでは「プロでしょう?」なんて言ったことないくせに!!)と思っていました。

悠太がおばあちゃんの言う事を聞かないのを、私の育て方が悪いせいだと言われているような気がして、義理の両親と私との溝が深まったように思います。このような家族の揉め事は日常茶飯事でした。

でもこれは家族の誰のせいでもなく、もちろん悠太のせいでも、悠太の障害のせいでもありません。

あえて言うなら私にゆとりがなかったせいで、無駄に苦しんでいたのだと思います。

あの頃の私は、仕事や生活に追われて余裕がなく、すべてを冷静に受け止めることができませんでした。

今の私があの時の自分に声をかけるとしたら、「落ち込む必要なんかないよ。母親として精一杯やってるし、悠太もすくすく育ってるんだから。大丈夫、大丈夫。遊びに熱中できるって最高だよ!」と言ってあげると思います。

家族の言葉で奮起した私


「悠太はお前が一生面倒を見ろよ!」

この言葉は、悠太が中学生の時にスクールカウンセラーから発達障害の可能性を指摘され、夫にそのことを伝えた際に返ってきたものです。

この言葉を聞いた時、私は驚きとともに深いショックを受けました。でも、今振り返ってみると、夫の言葉には、自分に自信がなく、どう対応したらよいかわからないという戸惑いや不安が隠れていたのかもしれません。

当時、私は悠太が発達障害かもしれないと聞いて、心配と不安でいっぱいでした。夫の反応は、私が一緒に悩み、支え合いたかったという期待とは違ったものでした。

親として、一緒に考え、力を合わせて支えていきたいと願っていたからこそ、あまりにも心が折れそうになり、逃げ出したくなった瞬間もありました。

「天才だと思って期待していたのに障害があるなんて…遠い高校に行くの?近くの高校にした方が良かったんじゃないの?」

悠太が高校に進学することが決まった時に、義母から言われたこの言葉も忘れられません。

悠太が選んだ高校は、地元の中でもあまりレベルが高くない学校でした。この時も義母の言葉に心が痛みましたが、今思えば、義母は孫に対する期待と心配が入り混じった気持ちを伝えたかっただけなのかもしれません。

義母が自身の子どもたちの学歴を誇るたびに、私はどこか不満を感じていました。

しかし、振り返ってみると、義母は自分の子どもたちを大学に通わせることができなかった悔しさから、孫に対してより一層の期待を寄せていたのかもしれません。そして、その気持ちが私には重荷となり、過敏に反応してしまっていたのだと思います。

当時の私は「保育士として、自分の子どもに障害があることを気づかなかったのか?」と自分に問い続け、その疑問が不安や後悔をさらに深めていました。

周りからもそう思われていると思い込み、常に他人の目を気にしていました。でも、実際には誰もそんなことを言わなかったのです。すべては私自身の気持ちがそうさせていたのだと、今ではわかります。

家族の理解が得られなかった時期、私はとてもショックを受けましたが、その中で「この子は私が守る」という強い決意が生まれました。

夫や義母の言葉は、私に勇気を与え、悠太の発達障害を前向きに受け入れ、一歩踏み出すための力となったのです。

もし、夫が「悠太は俺が一生面倒を見るよ」と言ってくれていたなら、私は夫に依存し、何も自分では解決できなかったかもしれません。夫のせいにして、何事も他人に任せてしまっていたかもしれません。

だからこそ、この経験は私が自分の底力を発揮するための大切なきっかけだったのだと思っています。

守るとは理解者を増やし、居場所をつくってあげること


家族や周りの理解が得られず、ショックを受けた私は、「この子を守る」と心に決めました。

その「守る」とは、家族や周囲の方々に悠太の特性を理解していただき、息子が安心して過ごせる環境を整えてあげることだと思ったのです。

まずは、家族の理解を深めるために、夫と一緒に病院へ行き、先生の話を直接聞いてもらうことにしました。その結果、夫は悠太の発達障害を受け入れ、少しずつ態度が変わり始めました。

以前は悠太の困った行動に対して感情的に怒っていた夫が、それ以降は、悠太の話をよく聞き、適切な言葉で伝えるようになりました。

また、祖父母に対しても理解を得るため、悠太が困った行動をした際には、その都度私から説明をしました。

夫も積極的に祖父母に説明してくれるようになり、少しずつですが理解が深まっていきました。

家族以外でも悠太の理解者を増やすために、私は積極的に息子の特性について周囲に話すようにしました。

特に「親子で生の舞台を鑑賞する会」(石巻子ども劇場)では、悠太がスタッフとして裏方を手伝うことを楽しんでおり、その活動を通じて新たな居場所を見つけることができました。

またママ友たちには、小さい頃から悠太の個性的な行動をあたたかく見守っていただき、本当に感謝しています。

中学生になり、発達障害に詳しいママ友に話すことで、有益な情報を得ることができ、専門の病院を紹介してもらえました。

地元の宮城県石巻市では障害者の社会参加に取り組んでいるクリニック、仙台のカウンセリング病院もご紹介いただきました。

受診することで私も悠太も心が軽くなり、悠太はカウンセリングを通じて自分の気持ちを話せる場を見つけ、自ら通うようになりました。

さらに、ママ友からの情報で軽度障害者を支援する団体が設立されることを知り、櫻井育子先生と出会いました。

櫻井先生が設立された『NPO法人SST(ソーシャル スキル トレーニング)アドベンチャークラブ』の活動に参加しました。

そこでは親と離れての活動や、スタッフとしての役割を与えられ、悠太にとって新しい居場所ができました。

櫻井先生のホームページやSNSを通じて多くの情報を得られるようになり、私も少しずつ前向きに行動できるようになりました。

この文章では、私が前向きに行動しているように見えるかもしれませんが、実際には毎日が葛藤の連続でした。

悠太の理解者を増やしたいと思っても、義母の言葉が気になり、話すことに躊躇することもありました。

それでも、悠太を守りたいという思いで勇気を出して話すことで、情報が集まり、心が軽くなりました。

同じ悩みを抱えるお母さんたちが、少しでも気持ちを軽くしていただけたら嬉しいです。

どうか、一人で悩まずに、誰かに話してみてくださいね。

櫻井育子先生 ホームページ

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障害があっても輝く未来が待っている

悠太の発達障害を受け入れた私は、義母から「鈴木家から障害者なんて!」と言われ、心が痛みましたが、それでも諦めず、少しずつ周囲に相談する決意を固めました。

勇気を出して周りの方々にお話しすると、皆さんが親身に話を聞いてくださり、たくさんのサポートをいただきました。

特に、中学2・3年生の担任だった浅野先生には感謝の気持ちでいっぱいです。浅野先生は、ご自身も自閉症の支援学校に通うお子さんをお持ちで、障害者に対して理解が深く、心あたたかい方でした。

ある日、悠太が突然「学校に行きたくない」と言い出しました。

それまで我慢していた何かがあったのかもしれませんが、当時の私はその気持ちに十分に寄り添えず、「学校に行かせたい」という思いが強くなってしまいました。その結果、悠太は私に多くを語ることはありませんでした。

そんな中、浅野先生は悠太の話をしっかりと聞いて、息子に寄り添ってくださいました。悠太が「中1のときにいじめられた子とは離れたが、別の3人に椅子を蹴られるのが耐えられない。たぶん、自分が言い返さないからだと思う」と話していたことを、浅野先生は真剣に受け止めてくださいました。

浅野先生は家庭訪問を通じて、悠太の学校での様子や今後の対応について話してくださり、いじめに屈しない姿勢で、悠太にも、いじめてくる生徒さんにも公平に対応してくださいました。

子どもたちの間に入って話し合って下さったり、悠太が安心して学校に通えるように、席替えや校門までのお迎えなど、細やかな配慮をしてくださいました。

私は悠太が不登校になるんじゃないかと心配で、「ずっと学校に行けなかったらどうしよう」と不安でいっぱいでしたが、浅野先生の悠太に寄り添う対応のおかげで、私の不安も次第に和らぎ、悠太も学校に戻る勇気を持つことができました。不登校は1週間で終わり、再び学校に通うことができました。

中学3年生になったとき、悠太はいじめていた生徒さんと同じクラスになりましたが、浅野先生が担任であったため、私は安心して学校生活を送れると感じていました。

文化祭では、悠太がヨーヨーを披露する機会を作っていただき、人前でのパフォーマンスの楽しさを知り、友達からもその腕前が認められ、いじめも次第になくなっていきました。

発達障害のことを相談することで、悠太の理解者が増え、私の心も軽くなりました。悠太に活躍の場を与えてくださり、これまで感じたことのない、多くの人からの賞賛を受ける経験ができたことに、心から感謝しています。

浅野先生が悠太の心を開いてくれたのは、先生が悠太の障害を理解し、ありのままを受け入れ、優しく寄り添ってくださったからだと思います。

私は、発達障害は「障害」でありながらも、「個性」や「天からの贈り物=ギフト」とも言えるものだと考えています。

健常者にも得意不得意があるように、発達障害者も得意分野で素晴らしい才能を発揮できると信じています。

障害があっても、その才能を活かして輝けることを、浅野先生から教わったように感じます。

私たち母親が勇気を持って小さな一歩を踏み出し、我が子の未来を信じることが大切だと改めて思いました。

苦しみの原因を自分の中に見つけた日


悠太に発達障害があるとわかる前、私は「普通の子ならこうするだろう」と考え、違和感を感じることが多くありました。

しかし、悠太の話をじっくり聞いてみると、息子には息子なりの理由があったのです。

ボーイスカウト活動のある日、集合時間になっても悠太が来ないとの連絡を受けました。悠太は「場所がわかる」と言って出発したはずでしたが、心配になり探しに行くと、息子は石ノ森萬画館のフリースペースで漫画を読んでいました。

悠太に理由を聞くと、「道がわからなくなった。何度か行ったことのある場所を見つけたからそこにいた。集合場所を探しまわって疲れたから休憩しようと思って漫画を読んでいた。」と答えました。

その時、私は「お母さんが探さなかったらずっとここにいたの?みんな心配しているのに何やってるの!」と感情的に怒ってしまいました。

しかし今振り返ると、悠太は道がわからなくなり不安を感じ、必死に集合場所を探して疲れてしまったのでしょう。

あの時、「探し回って疲れたんだね。無事でよかった」と息子の気持ちを受け入れてから、道を聞く方法や連絡の大切さ、皆が心配していることを伝えていれば、悠太ももっと安心して改善に向けた行動を受け入れてくれたかもしれません。

悠太の障害を受け入れてからは、感情的に怒るのをやめ、優しく接するよう努めました。

中学生のとき、悠太がテニス部の練習に行く日、集合時間が近づいてもビデオを見続けていました。

「ビデオを見終わらないと行かない。」と言う悠太に対して、感情的にならずに、ビデオは帰った後でも見られることや、ビデオの再生時間を確認してから見始めると途中で止めなくてすむことを、丁寧に話しました。

その結果、悠太はビデオを途中で止めて「帰ってから見る」と言って部活に行きました。もし感情的に「早く行きなさい」と言っていたら、反発していたかもしれません。

ママ友や担任の先生に相談し、発達障害支援団体の活動に参加したり、病院での診察を受けることで、私の気持ちは次第に軽くなり、悠太に優しく接することが増えました。

それでも、悠太への心配は尽きませんでした。振り返ってみると、私は悠太の話を十分に聞かず、頭ごなしに怒ってコントロールしようとすることが多かったように思います。

悠太が「学校に行きたくない」と言ったときも、私は「ずっと行けなかったらどうしよう」と自分の不安ばかりが先立ち、息子の気持ちに寄り添えませんでした。

高校受験の前も、行きたくないと言っていた悠太を無理やり塾に行かせましたが、塾のドリルをこなせませんでした。

それでも塾の先生が悠太のペースに合わせて取り組んでくださり、彼の話を聞いて下さっていたことに心から感謝しています。

今では、悠太をどうにかしようとするのは私のエゴであり、苦しみの原因は息子の障害ではなく、私自身の不安やプライド、そして「こうあるべきだ」という固定観念に縛られていたことに気づきました。

この気づきを得られたのは、悠太や家族との心の葛藤に向き合い、自分なりに努力してきたからだと思います。

今では、自分を認め、「よく頑張ってきたね」と私自身に優しく声をかけられるようになりました。

失敗を重ねてきたからこそ、今同じような悩みを抱えているお母さんたちの気持ちが痛いほどわかります。

障害があろうと尊厳ある一人の人間として〜前編

2021年のお正月のことです。

30代になった悠太が結婚を望んでいることを知った周りの方々が、親切にアドバイスをしてくださりました。

女性に好かれるには清潔感を大切にしようと、身体や髪の洗い方を教えるために銭湯に誘ってくださったり、無駄なお金を使わないように携帯電話のプラン見直しや機種変更に同行してくださることになりました。

ところが悠太はその約束をすっぽかし、電話に出なかったり、居留守を使ったりしたと後で聞きました。

私は自分の育て方を振り返り、(障害がわかる前もわかってからも、悠太を甘やかしてしまったところがあるなぁ)と感じました。

悠太が小学生の頃、カードゲームが流行っており、悠太もそのカードを集めることに熱中していました。その際、一歳下の弟からレアなカードをこっそりと取ったことがありました。

この時の私はいつものように感情的に怒ったものの、心の中では(悠太は『レアなカードが欲しい』という気持ちを私に伝えられなかったのだろう)と悠太を許していました。

中学生になった悠太を、社会生活を身につけてもらおうとボーイスカウトに入れました。活動日のある日、集合時間になっても集合場所へ来ていないと連絡を受けたことがあり、私は事故にでもあったのではないかと心配しながら探しました。

最終的には石ノ森萬画館のフリースペースで漫画を読んでいる悠太を見つけたのですが、悠太は謝ることなく、「連絡できなかった」「道がわからなかった」と話すだけでした。

この時も私は、感情的に怒る一方で心の中では(コミュニケーションが難しいのは悠太の特性かもしれない)と理解しようとしていました。

それでも、その状況の中で適切に教える方法があったのではないかと今は思います。

振り返ってみると、当時の私は悠太に「どうすれば良いかを考えさせること」もせず、命令口調で怒ってばかりいました。

悠太にとってみれば「怒られた」という事実だけが残り、やってはいけないことを理解したかどうかもわかりません。

これは親としての私の責任です。

もっと息子に寄り添い、障害の有無に関わらず悪いことは悪いと教えるべきでした。

この経験から学んだことは、多くの事例を参考にし、他の親御さんや専門家の方々がどのように子どもと向き合っているかを学ぶことの大切さです。

多くの引き出しを持っていれば、必要な時に適切な対応ができたかもしれません。

お恥ずかしい話ですが、当時の私は、

• 悠太がこれ以上問題を起こさないように。

• 悠太の問題行動で自分が恥ずかしい思いをしたくない。

• 何度言っても同じことを繰り返す悠太にイライラしてしまい、感情的に怒りたくなる。

日々こんなことばかり胸に抱いていました。

私はこの本音を抑え込み、「良い母親でいなければならない」と自分を縛って生きていました。

今は自分の本音と正面から向き合い、そんな自分も受け入れることができるようになりました。

自分の本心を認めて受け入れてみたら、心が軽くなり、悠太や家族、他人、そして自分自身に対して、より優しく接することができるようになったと思います。

悠太を一人の尊厳ある人間として認めることで、息子の話をしっかりと聞き、必要な時には叱ったり、優しく諭すことができるようになったと思います。

過去の私に、「カッコつけてないで、本音を口に出してみなよ。心が軽くなるし、他人も自分も尊い存在だと感じられるようになるよ」と教えてあげたい気持ちです(笑)。

P.S. この子育ての経験談を悠太本人も読んでいると聞きました。事実と違うことを書いて悠太を傷つけたくないと思い、カード事件について確認しましたが、私の記憶と少し違う部分もありました。そのため、この話は二部構成で書かせていただきます。(後編に続く)

障害があろうと尊厳ある一人の人間として〜後編

この「私の子育て体験記」は、2022年に私がSNSに投稿したものです。その投稿を悠太も読んでいたことがわかりました。

事実と違うことを書いて悠太を傷つけたくないと思い、前編に書いたカード事件について本人に確認したところ、私の記憶と少し違う部分がありました。

悠太が説明してくれたのは以下の2つの出来事です。どちらも悠太が小学生の頃、同時期に起きた話とのことでした。

1. 弟が大切にしていた箱を悠太が黙って工作に使ってしまい、それが原因で大げんかになり、最後には泣きながら謝った。

2. 同居していた叔父さん(夫の弟)が集めていた遊戯王のカードの中に、悠太が持っていないカードがあり、それを黙って取ってしまった。

悠太は、「人の物を黙って取ってはいけないと思ったけれど、カードを入れるファイルを順番に埋めたかった。ファイルの空いているところを埋めたくて黙って取ってしまった。バレなければいいと思った」と話してくれました。

悠太にとっては、ファイルを完璧に揃えることがとても大切だったのでしょう。しかし、その気持ちを抑えることができずに黙って取ってしまったことは、私が教えるべきところだったと思います。

私は悠太に、「自分が大切にしているものを黙って取られたら、どんな気持ちがする?」と尋ねてみました。

すると悠太は、「嫌な気持ち、不快だ」と答えました。このように、逆の立場で考えることで、息子も少しは理解してくれたように感じました。

実際に、悠太が好きな遊戯王の漫画にも「他人のカードを黙って取ってはいけない」という教訓が描かれていたそうです。

悠太も「遊戯王が『カードを盗むとは許せないことだ!』と言ってたんだ。遊戯王の言う通りだと思う」と納得していました。

悠太に障害があることがわかる前は、悠太の行動に対して感情的に怒ってしまうことが多くありました。

障害がわかってからは、悠太なりの理由を聞き、できるだけ優しく丁寧に教えることを心がけてきました。

私自身の至らなさを感じるようになると、今度は「私だって完璧じゃないんだから、悠太ばかりを責めるのは良くない」と思うようになり、言うべきことを言えなくなった時期もありました。

そんな様々な経験を経て、私がたどり着いた結論は「愛を持って叱る」ことです。障害があるかどうかに関わらず、社会で善悪の判断ができる大人になることは、悠太が幸せに生きていくためにとても大切なことだと思うからです。

だからこそ、今の私は、悠太のためにやってはいけないことはしっかりと伝えるようにしています。

冷静に悠太の話を聞き、必要な時には優しく、時には厳しく叱るようにしています。

たとえ私の言葉が悠太にすぐには伝わらなくても、世の中には息子を教え導いてくれる人がたくさんいると信じています。実際、遊戯王の漫画が悠太にとってはそのような役割を果たしてくれたのです。

好きなものや尊敬する人の言葉は、時に親の言葉よりも強く心に響くことがあるのだと思います。

障害があるから仕方がないと諦めるのではなく、悠太を尊厳ある一人の人間として向き合うことで、「悪いことだとわかっていても、バレなければいい」という考え方や行動を、「悪いことだとわかっているからやらない」という姿勢に変えていくことができます。

過ちは誰にでもあります。私にもたくさんありました。大切なのは、その後の行動です。

* 悪いことをしたら謝る

* 反省したら行動を改める

* 次は同じ過ちを繰り返さない

悠太を叱るからには、私自身も少しでも見本になるような生き方をしようと心がけています。

悠太はその後、2021年のお正月に約束を守れず迷惑をかけてしまったことを反省し、生き方を改善しようと努力しています。

具体的には、

* 嘘をつかない

* ズルをしない

* 約束を守る

* 礼儀を大切にする

* 親切にしてもらったら感謝する

今では、悠太と「人として当たり前のことを、当たり前にすることが大切だね」という話ができるようになりました。

このような親子関係を築けたことが、本当に嬉しく、幸せです。

母親としての想い

私の子育て体験記をお読みいただき、心から感謝申し上げます。

この体験記には、障害を持つ息子と歩んできた日々を振り返り、そこで感じたことや学んだことを綴っています。

息子が生まれてから今日まで、私たちは喜びや悲しみ、悩みや葛藤を共にし、何よりも深い愛と感謝の中で成長してきました。

子育てに「正解」はありません。

時に孤独を感じ、どうすればいいのかわからなくなることもありました。

でも、息子と向き合い続ける中で、彼が教えてくれたのは、「完璧な親」である必要はないということです。親としてできる限りのことをし、共に成長していくことが何よりも大切だと感じています。

この体験記が、同じような悩みを抱える方々にとって、少しでも勇気やヒントになれば幸いです。また、私たちを支えてくださったすべての方々、そして私を成長させてくれた息子に、心から感謝の気持ちを伝えたいと思います。

最後に、この体験記を通じて感じたことや考えたことを、ぜひ周りの方々と共有していただければ嬉しいです。

私たち親子の経験が、一人でも多くの方の助けとなることを心から願っています。

2024年7月29日 鈴木真理子

《ご注意下さい》

この文章は私、鈴木真理子が以前SNSに投稿したものを、母親活動団体様向けの資料として校正していただいたものです。

「子育てに悩むお母さんに、読みやすくなった文章を届けたい」という私の希望で、活動団体様のご厚意で投稿させていただいております。

私と同じ目的の方には、この投稿をシェアしていただけますと嬉しいです。

ただしそれ以外の目的で文章の一部あるいは全部を無断転載及び複製することは、法律で定められた場合を除き、著作権の侵害となり罰せられます。また業者など読者本人以外による本文の転用は、いかなる場合でも一切認められませんのでご注意ください。

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