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怠惰すぎる私の自己受容・自己肯定への旅路概観

 かなり真剣に自分の内面について悩んできたことの解決策が、これまで斜に構えて毛嫌いしてきた巷の意識高い系の事柄たちに集約されていると気づきつつあり、ウケるな〜と思う反面、そうか、やっと地平に立てたのかもしれないな、となんだかすっと腑に落ちて嬉しく思っている、という話をしたい。

強烈に怠惰な私の生まれ育ち

 物心ついた頃からとにかく省エネ努力でどうにかしてきた人生である。幼い頃の母親の教育方針も影響しいわゆる地頭と要領が良い子供だったので、偏差値の高い学校にいても勉強に困ることはなかったし、学部受験では第一志望に落ちたものの今に至るまで周囲の誰も文句の言わない進路を歩んできた。しかし、肝はこの第一志望に落ちているところで、とにかくずっと「そういう」人間なのである。受験でも数学以外は合格最低点を超えていて全然届かない進路だったわけではなかったが、本当に自分のために好きではないことを真剣に毎日頑張るということが未だかつてできたことがなく、受験はその生き方がかなりあからさまに露呈した人生の一場面だった。さらに、幸か不幸か、身の回りには地頭も要領も努力の才能もあって結果が出し続けられる人間が多数いたため、そんな尊敬すべき友人たちを得た代わりに自尊心と自己肯定感の育たない思春期を送ることになった。
 そして今、高校入学から10年という恐ろしい年月を経て、学部を出て、修士を出て、留学をして、数多のインターンシップを経験し、晴れて労働者をやっているわけだが、それなりにキラキラしてきた履歴書とは裏腹に上述の終わっている部分は普通に残存しており、それがいよいよ致命的なものなのだと受容できるようになってきた。めちゃくちゃ忙しい職場なのに全然仕事に集中できないし、少ないプライベートタイムの使い方も本当に下手くそで、よし寝よう、と思ってベッドに入る日の方が少ないような、ずっと脳みそがあっちこっちにキョロキョロしていて我に返っている時間がほとんどないようなギリギリの生活をしている。
 まあ寝不足なだけなら正直よいが仕事に集中できないというのは自分にとってかなりショックだった。というのも、学校に所属しているときはやるべきことを計画する責任が全て自分に依存していてまともな監督者がいなかった、というのが目の前のことに集中できない要因だと分析しており、仕事となれば報告先の上司がいるため、より集中してこなせるだろうと想定していたから。実際間違っていたわけではなく入社直後はまさにその状態になれたものの、怠けのプロフェッショナルである私の脳みそは最近抜かりなくサボりの機会を捻出するようになり、また集中できなくなってきた。(出社よりリモートが増えてきてしまったというのもある。)しかし職場としてはとても気に入っているため悪評が立つのは是非とも避けたく、最近人生の中でも有数の緊迫した危機感を抱いている。

怠惰が脳に蔓延る理由は自己肯定感の低さ

 今日書きたいのはこの怠惰と自己肯定感の相関で、理解していても何年も乗り越えられなかったこの壁を、最近もしかしてぬるっと乗り越えた…のではないか?と認識しており、経緯を書き留めておきたい。
 これを友人たちに話すと、すごく共感される時と理解不能と一蹴される時でパッカリ二分して面白いのだが、私が怠惰で頑張れない理由は、とにかく自己肯定感が低いからに尽きる。常にあまり努力しないでまあまあの合格点だけ取っていく様は一見真逆の傍若無人に見える態度なので自分でも幼い頃は認識できていなかったのだが、私はいつでも頑張れないのではなく、「自分だけのためには頑張れない」。なぜなら自分の人生に頑張ってあげるだけの価値を感じていなかったからだ。(もちろん、これは身を粉にして頑張らなくてもそれなりに生存できる環境に偶然生まれられた幸運のおかげとも言える。)一転して他人や社会正義が絡むと自分でも驚くくらい建設的に頑張れるのだが、傍論なのでここでは省く。逆に、ギリギリ合格点くらいまでは頑張れるのは、怒られると強烈な心理的負担が発生するから(そういう怒られ方をするタイプの家庭だった)に過ぎず、リスク回避のための手段でしかなかったので、自分の人生を良くするためにポジティブに頑張っているわけでは全くなかった。
 20歳で初めて留学したとき、自信満々の海外の友人がたくさんできたこと、自分の常識や価値観が全て相対化されたこと等いろいろと視界の開ける経験を経て、「これは自己肯定感を上げないと人生始まらないな」と強く意識するに至り、そこから試行錯誤が始まった。自分は何が本当に好きなのかを探すこと。冗談みたいだが、当時の私は「これが好きと言っておくのが一番怒られない」ことを「好き」だと思い込んでいたりした。めんどくさくても自分のケアをちゃんとすること。鏡に向かって今日も可愛いと笑ってみること。さまざま試す中で、まず辿り着いた自己の肯定の仕方は「ダメな自分も抱きしめて愛すること」だった。
 今振り返ると、自己受容のフェーズは明らかに当時の私にとって必要だったので良かったと思いつつ、同時にそれは自己肯定そのものではなく入り口でしかない。2年経ち、3年経ち、私はダメな自分も要領良くうまくできる自分も、どちらも合わせて受容して、ダメな時もまあこれで良いか〜と思えるようになっていった。しかしそこであまりに大きな壁が出現した。「ダメな自分でもOKということにしたので、ダメな自分を改善しようと思えない」という論理である。
 これがとにかく強敵だった。今でも強敵である。早起きするはずが昼過ぎに起きても、「いっぱい寝てえらいな〜」とか思い始める始末で、反省のかけらも生まれないのである。それはそれで良いバイブスのメンタリティで気に入ってはいるんだけれども、同時に私は幼少期から叩き込まれた、常に新しい次のステップにばんばん挑戦してしまう姿勢とプライドも持ち合わせており、この二者はとことん相性が悪かった。できるでしょこのくらい、と思って当たり前に次の目標を設定するのだが全然頑張れず、最初は頑張れない自分を受容し肯定するものの、締め切りが近づくにつれて限界が来て、頭痛・胃痛・蕁麻疹など身体がシビアな不調をきたし始め、最終的に目標を達成しようがしまいが、さらに自己肯定感が削れてしまう、という一連の流れを常に繰り返す羽目になった。というか今でも繰り返している。なんといっても全て自分のせいなのがとても辛い。

打破しようと建設的に解決に取り組み始められた理由

 ところが、何年最悪なループを繰り返してもなあなあに足踏みをし続けていたのに、最近急に「あ、これは解決しないといけないな」と心の中ですんなり決めることができて、何歩か足を踏み出せつつある。なぜだ、なぜいきなり、と自分の頭をぐるぐるレビューして、なんと私は今、自分のためだけに素直に頑張ろうと思っていること、それが根本問題の解決に踏み出せた理由であることに気がついた。
 頑張ろうと思えた理由はおそらくポジ・ネガ両輪で、まず不合理に怒られない心理的に安全な環境を得たこと、そしてそれに伴い過去の人生を含む自分に相当程度の自信がついてきたこと。前者は単純で、就職をして、経済的に自立し、一人暮らしを始めたことで、親と適切な距離感が取れるようになったことが大きく寄与しているはずだ。一人で暮らしていると笑ってしまうような驚きも多く、例えば私はソーセージが好きじゃないことも、意外と肉より魚の方が嬉しいことも、実は寝具は週一以上で洗いたいことも、全部実家にいるときは気がつかなかった。実家の生活様式があるから好き嫌いを言うのを遠慮していたのではなく、何が好きか嫌いかに気がつくこともできていなかったのだ。親とめちゃくちゃ仲が悪いわけでもないのにそれだけ怒られに対して萎縮していたというのも今では笑えるが、そんな環境で自己肯定感が育つわけがないのもシビアな事実だ。職場で縁のある上司たちが、根拠のない批判などをせず、心理的安全性に配慮しながら合理的な指導をしてくれていることも幸いしている。
 そしてそんな変化を経て、根深かった自信の不安定さ、過去への目の背けたさがゴリゴリと改善されてきているのだ。私はこれまでできなかったことを、もっと言うと、結果的にできたとしてもたくさん先延ばしをして「やらなきゃいけないのにやっていない」という激しい自責の念に追い詰められたこと自体を強く記憶してしまい、代わりにその裏で実は達成できていることについては非常に軽視してきた。そのくせ一端にプライドだけは高く自分への期待値は高いので、現実とのギャップがさらに苦しいという悪循環を辿っている。今でも相応の努力をして得たものばかりじゃないと言い訳をしたくなるが、それでも達成してきたものが実はそこそこあるかもな、と精神的に安全な生活の中で客観的に認められるようになってきた。「過去のことと他人のことは変えられないから自分の現在・未来にだけ集中しなさい」とよく言うが、自分の現在に集中していく過程で自分の過去への認識も変化させることができる、というのを身をもって知れたのは尊い収穫だ。
 おそらくこれらの状況の変化によって、「これまでもそれなりにやってきた、今はこんな問題があるがきっと解決できるはずだ、これからも自分のために順当に頑張ろう」と自分を信じる感覚を腑に落とすことができてきているのだと思う。

今のギリギリの私をこれから救っていくのはたぶん、「生産性」とかそういう、胡散臭いやつ

 ではどう解決していけばいいのか。
 私の「怠惰」は言い換えると「先延ばし癖」であり、それは「目の前のやるべきことをやらずに違うことをしている/何もしていない」問題と、その手前の「やるべきことが多すぎて優先順位がつけられず違うことをしている/何もしていない」問題に大きく切り分けられる。そこで現在、両者の解決策を真剣に考えて調べて実践していっているのだが、調べる中で出てくるtipsやキーワードがいちいち胡散臭くて面白いのである。
 例えば、やるべきことから注意が逸れてSNSを見てしまうという問題には、やるべきことの習慣化に関する心理学的tipsである「悪習慣を良い習慣に置き換える」という方法を今試してみているが、これは過去に某メンタリスト的な人から仕入れた知識である。後者のやるべきことが霧散している問題にはタスク管理ツールが有用であると考えてNotionの導入を行っているが、これはYouTubeで調べるとちょっとおしゃれなビジネス系のアカウントが生産性生産性生産性と超煩いタイプの話題だ。普段私は「こういう」ものをわ〜生産性とか言って表層的な部分でしか人生を見られない愚かな者たち、くらいの最悪なひねくれ感で捉えているのだが、いざ自分が真摯に人生に向き合ってみたらここに辿り着いたので笑ってしまっているというわけだ。
 たぶん、実際に生活の生産性向上を語る多くの人があまり深いことを考えていないのはあながち外れていないが、それは一概に彼らが浅はかということを意味せず、深いことを考えなくても毎日順当に努力をしようと思える素晴らしいメンタリティを元々持っているからなのだろうし、それってなんて素敵なことなんだと思うようになった。また世界に対する傲慢を一つ削って敬愛を一つ増やすことができた。嬉しい。そして、自分もやっと、彼らと同じ土俵で順当に努力ができるかもしれないところに辿り着いたというわけだ。なんて喜ばしい。
 というわけで、私は結構怠惰で自堕落で陰気で体力がなく布団に横たわるばかりの自分も好きになることができていたし、アイデンティティと化している部分まであったけれども、大きなゴールに向かってタスクをきっちり管理して自律した生活を送る、瞑想とジム通いと語学学習が習慣の、毎朝同じ時間に起きられる私を地道に目指していこうと思う。その方がきっともっと自分のことを好きになれる。自分のダメな部分を可愛がってアイデンティティ化するのは楽だったけれど、人生で元気に働ける時間があと何年あるのかを考えると意外と短く、もうあまり停滞してはいられないらしい。その中できっとまた失敗したり、逆進して自堕落な日をやったりするだろうが、その時は馬鹿の一つ覚えみたいに自分を責めて胃を痛めるのではなく、冷静に解決に向けてまた身体を動かせばいいまでだ。私は私の多くの部分が変化していっても新しい私をきっと愛せると思うし、可愛い自分のために、毎日頑張ってあげてやりたいことを達成していってあげようと思う。これこそが自己肯定感だ、きっと。



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