武田信豊の事
皆さんは『武田信豊』をご存知でしょうか?
武田信繁(武田信玄の弟)の息子という事くらいはご存知でしょうか?
自分的には有名人だと思っていたのに、世間的にはほぼ無名だと知って、ちょっとショックだった訳ですが、でも考えてみれば大河ドラマにも出演した事がないのだから、当然と言えば当然ですね。
ゲームでは地味で能力値も低く目立たないキャラだと聞いてこれまたショックを受けた訳ですが、信豊は実は本当にスゴイ人物なんですよ!
年齢は勝頼の三歳年少で、勝頼の従兄弟。
次男だけど、長男が望月家を継いだので早くから嫡男扱いを受ける。父親の信繁が『典厩』と呼ばれていたので、父親同様『典厩』『後典厩』などと呼ばれた。
甲陽軍鑑『武田法性院信玄公御代惣人数之事』によると、御親類衆(一門衆)筆頭、騎馬二百騎、二の御先衆とある。甲乱記によれば、勝頼とは「竹馬の友」であり「副将軍」とまで記されており、勝頼期の超重鎮なのである。(ちなみに騎馬武者一騎につき、従者が約10人付くので約2000人の軍勢)
一次史料を見れば、永禄十二年の駿河蒲原城合戦において、勝頼と共に強引な城攻めを行い、しかし不思議と敵将を多数討ち取り、信玄を焦らせた上に喜ばせている(信玄から「聊爾(りょうじ)」と言われた有名な書状ですね。戦武1482)。
永禄十一年の駿府攻めでは信豊が指揮をとり勝利を得、『無比類戦功候(戦功比類なし)』と信玄に言わせた程であった(戦武1577)。
その他数々の戦功により信玄、勝頼から四〇〇貫文、六〇〇貫文、一〇〇〇貫文の知行を与えられている(ちなみに一〇〇貫文は約一千万円。この知行は、家臣に与える為の物でもある)。
この様に信豊の戦功は上げればきりがない程である。
また信豊にだけ使用を許された物も多い。朱の指物、銀の采配、黒備え、実名「信豊」を刻んだ朱印など。
信豊は、軍事以外に外交でも大きな活躍をしている。
御館の乱の時、景勝との最初の交渉役は信豊であった(その後小山田信茂が担当)。
佐竹氏、宇都宮氏など北関東の外交や、織田氏との和睦を模索する交渉、将軍足利義昭や毛利輝元との外交も取次として担当している。
*以前X(Twitter)で信豊の事を「郡司」と書きましたがそれは間違いでした。すみません。信豊はもっと広い範囲で統括しており、軍事でも外交でも勝頼の信任厚く、多くを任されていた存在でした。
勝頼は信豊を自己の補佐役として側に置き、意見を聞き、そして自らの代わりに先陣の総大将として出陣させたりしました。信豊に与えられた権限は他の者より大きく、勝頼の信豊に対する信頼の大きさを感じられます。
天正十年の織田の侵攻に際し、勝頼は最後の作戦を信豊に託します。
勝頼は「上野国衆小幡信真や、真田昌幸、内藤昌月らと協力して上信の軍勢を集め、信長が勝頼の後を追って甲斐に侵攻したら後詰をして欲しい」と言い、信豊を小諸へ行くよう促しました。しかし信豊は「どこまでも勝頼と行動を共にし、その行末を見届けたい」と言って頑なに拒んだと甲乱記は記しています。結局信豊は、勝頼の説得に負けて小諸城へ向かいますが、そこで家臣の裏切りにあい、切腹して最期を迎えます。
この様に勝頼の信豊への信頼は厚く、信豊の働きは比類なく、軍事にも外交にも長けた優れた人物であったと言えるでしょう。
是非みなさんにも覚えていただけたら嬉しく思います。
2023.8.31
【参考文献】
武田信玄の子供たち(宮帯出版社)
武田氏家臣団人名辞典(東京堂出版)
武田勝頼/丸島和洋(平凡社)
武田氏滅亡/平山優(角川選書)
*聊爾【りょうじ】とは?
聊爾:いいかげん、うかつ、無思慮で無謀な事