ぼくが漁師を選んだ理由
こんにちは。僕は社会人3年弱までずっと滋賀県で生まれ育ったわけですが、沖島に来るまで琵琶湖に漁師さんがおられることすら知らなかったくらい琵琶湖や漁師さんに関して無知でした。
そんな僕がいつから漁師さんのどこに魅力を感じ始め、なぜやることを決断したのかを、綴っておこうと思います。
(よく質問してくださるので、自分のためにもまとめておきます。笑)
いつからどこに魅力を感じ始めたのか
沖島に通いだして気が付いた時には沢山の方々と知り合っていて、湖魚をいただく機会が増えていました。
「琵琶湖にはこんなに魚がいるんだ!」「刺身でも食べられるの!!?」
と、鮒寿し以外ほとんど目に口にしたことがなかった僕にとっては、驚きの連続でした。
これまでスーパーで切り身になっているか、飲食店で調理されている魚しか食したことがなかった僕にとって、漁師さんが自ら獲ってこられた湖魚をその場で食べられることなんか未体験も未体験。常々驚きっぱなしでした。。さらに、そのような湖魚料理には各家庭によって味の違いがあることに楽しみや温かみを覚え、「大事にいただく」ことをより深く想うようになりました。
この頃から、獲り手の想いや、湖魚との長きにわたる付き合いの中での、垣間見える漁師さんの姿に魅了されていたように思います。
(これが、1次産業を支えていてくださる方々への考え方の変化と、食に対しての価値観が一層変わったタイミングでした。)
なぜやることに決断したのか
①-全国の島々が集まる祭典、にて-
2019年秋、東京にて。全国の島々が集まる祭典に、沖島も何度目かの参加をされるとのことで、お手伝いに同行させて頂けることになりました。
そちらのイベントでは各島々がブースを設け、島のPRや物販を行うコーナーがあり、沖島ブースでも湖魚の物販や沖島のPRを行いました。
この時期には僕自身少しは知識を備えていたので、出来る範囲でご来場くださった方々とお話をさせていただき、沖島の紹介をさせていただいていました。その中で、佃煮などの物販品の説明もさせていただいていました。
そんな中、それなりに喋れているにも関わらず、自分の中では何故か、しっくりきていない。
なんでだろう?と、考えていると、一つの答えにたどり着きました。
漁師さんたちが毎日、汗水たらしながら、ある時期は雨や寒さに耐えながら、ある時期は雷・ある日は突風、また船や操業中のトラブルなどの危険性を伴いながら、朝早くから、夜遅くから、漁業の衰退と向き合いながら etc.
こういった中で漁業に従事されている事を知っているにも関わらず、
自分の言葉には全く実感的な想いが乗っていなく、発している言葉がとても軽いなと感じていたんです。それに気づいたと同時に恥じらいを強く感じました…。
こんなん、漁師さんの目の前で同じような説明、ようできひんわ、と。
なので、湖魚を獲るということを自分自身が身をもって感じ、堂々と湖魚をお届け出来るようになりたいと思いました。
また、普段から当たり前のように食している湖魚が、どういった経緯で手元に届いているかの体感を常にもっていたいと同時に思いました。
(ここで実際に漁師をやるという選択肢が自分の中に浮上してきました。)
②-決断-
思い立ったが吉日。さっそく周りの方々にも伝え、組合長に漁師の諸々を伺いました。伺ったところ、やらない理由が全く見つからなかったので、やることに決断しました。(とても、シンプル。)
頭で覚えてすぐ出来るような世界ではなく、時間がかかることも承知だったので、同線が繋がっている間に少しでも早く飛び込んで習得しないといけないと感じたことも即決できた大きな理由の一つです。
と、いうことで島々の祭典の3ヵ月後から乗り始めました。
お世話になっている沖島の方々への最大の恩返し
どこのタイミングで思ったのかは覚えていませんが、こちらもやることを決断した理由の一つです。
歴代の沢山の方々が長年かけて継承されてきた沖島の漁師文化。そこには、みなさんの想いや誇りが想像なんて到底出来ないくらい詰まっているように僕には感じられます。
その反面、漁業環境の変化や、それに対しての将来の不安定さなどで、若手漁師が現れるのが中々難しい現況です。
そのような漁業を途切れることなく次世代へ継承出来ることで、現役の漁師さんたちにも安心して次世代へとバトンを繋いでいっていただけるのではないかと思いました。
それがお世話になっている沖島の方々への最大限の恩返しになるのかなと思いました。
まず、目指す地点は…!?
島の方々に安心してもらえるような、一人前の漁師になる。
以上です。
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