素因数分解の一意性

自然数の素因数分解では、任意の自然数がいくつかの素数の積で表され、それは積の順序を除いてただ一通りである、という事実があった。

例えば、
 220=2×2×5×11
という素因数分解である。同じ素数が重複して現れてもよい。

この「ただ一通りに」というのは、中学生でどこまで正確に習うだろう。ある程度具体的な計算をやっているうちに、素因数分解したら「当然」一通りの答えしかない、という感覚にならないだろうか。では、その当然と思われる分解はただ一通りであるということを証明できるのだろうか。

一般に、複数の方法があるかもしれないところが、「ただ一通りである」というのは、意識したい性質である。この性質を一意性(いちいせい)という。英語ではuniquenessという。


まずは、分解の一意性が成り立たない世界もあることをみよう。

今、3で割って1余る自然数の集合をAとおこう:
 A={1,4,7,10,・・・}

このAの中に、自然数の乗法と同じ乗法を定義すると、Aは乗法について閉じている。実際、
  (3n+1)(3m+1)=3(3mn+m+n)+1
となることからわかる。また、乗法は当然可換で、1は単位元で、可逆元は1のみである。Aはこの乗法について可換な単位的半群である。

次に、このAにおける”素数のようなもの”を考えよう。素数の定義に倣って、1とそれ自身以外に約数をもたないようなAの数を考える。そのような数を小さいものから書き並べてみると、
 4,7,10,13,19,22,25,31,34,37,43,
 46,55,58,・・・
という具合になっている。例えば4は自然数の中では素数ではないが、それは
 4=2×2
と2を約数に持つからであるが、2はAの中には属さない。従って4はAの中では”素数のようなもの”である。

今、このような”素数のようなもの”をAにおける既約元(きやくげん)という。

少し話しはずれるが、自然数の素数が無数にあるように、Aの既約元も無数にあるのだろうか。自然数の素数が無数にあることのユークリッドによる証明法をまねればできそうだ、Aの既約元が無数にあることも言えるだろう。

【証明】
Aにおける既約元は高々有限個であると仮定して矛盾を導く。既約元が全部でn個あるとする。それらをp(1),・・・,p(n)とおく。

p=p(1)・・・・p(n)+3という数を考えると、pはAの元で、これらn個の既約元よりも真に大きい。そしてこれらの既約元で割り切れない。よって、pは既約元である。

これは既約元がn個しかないことに矛盾する■

これでAにおける既約元は無数に存在することが示された。

話がそれたが、Aの中にある220という数は
 220=10×22=4×55
という既約元への2通りの分解方法ができる。

このように自然数の素因数分解はただ一通りしかないという事実は、実は当たり前のことではなく、何か特別な状況にあるのだということが分かる。

既約元という定義そのものに分解の一意性は導かれない。一意性を言い表すのに、新たに素元(そげん)という言葉が生まれた。

既約元pが素元であるとは、
 pを割り切る任意の元xについて、xの任意の2つ分解x=abについて、pはaまたはbの少なくとも一方を割り切る
という性質でもって定義する。

上記の定義で実はpが「既約元」という条件は不要とわかる。つまり、ここは単にpは「可逆元でない元」とすればよいことが論理的に導かれる。

そこで、日本語を少し縮めながら素元を再定義しよう。

 可逆でない元pが素元である
⇔可逆でない元pがabを割り切るならば、pはaまたはbを割り切る

と簡単化される。この概念によって、既約元がすべて素元であるとき、既約元への分解は一意的であることが示される。

日常の中でも何かを分解するようなとき、それが根源的なモノへの分解ができたとしても、本当に一意的であるかという観点は意外と盲点かもしれませんね。


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