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日本最果ての地で父と迎える誕生日

昨日、与那国島の居酒屋に電話をした。
「はい、土曜日の19時半から2名でお願いします」
京都と日本最西端の地にいる人とつながって会話した数分、その事自体にちょっと感動した。もし子どもに「どうしてそんな遠くにいる人と話せるの?」と聞かれても私は答えられない。
ー空気中の分子の揺れを電子化して遠く離れた相手に届けています。
難し。

電話を置いて、しみじみ思う。
19時半から2名で行く与那国島の小さな居酒屋。
その日は私の誕生日。
2名の内訳は、私と父。

ーーー
思春期の頃、私は結構ひどかった。
温厚な父に対して、特にきつく当たっていたことを記憶している。
仕事場に行くついでに毎日駅まで車で送ってもらっていたけれど、助手席でイヤホンで音楽を聞いて、話しかけられても知らんふりをしたり、心無い言葉を投げかけたりしていた、と思う。確か。
それでも父はずっと優しかった。
父以外女性4人の家族で、肩身は明らかに狭そうだったけれど、充実した面持ちでいた。何より仕事が楽しそうだった。

父の仕事は写真を撮ること。
40年以上京都で活動を続けるベテランのカメラマン。
30代の時に第61回伊勢神宮式年遷宮専属カメラマンに選ばれ、そのおかげで家が建ったと聞いた。
現在は片岡愛之助さんの専属カメラマンを務めたり、皇族の撮影、祇園界隈、建築、お見合い、企業関連など、多岐にわたる仕事の依頼が舞い込んでいる。

お父さんは一流やで。
夫は出会った時から言っていた。
そうかなぁ。なんて濁していたけれど、知ってるよ。
「お父さんは営業したことないなぁ、どうやってするんや?」
と先日言われたときは、心底驚いた。営業の難しさと必要性をひしひしと感じている自営業1年目の私には羨ましい話でしかない。

「育児と家業の手伝いをするために退職の道を選ばせていただきました」
新卒から17年間務めた会社を退職する際に、300人程に送信した退職メールに記載した言葉。
「か、家業があるんや」という反応も少なくなかった。

ーーー
カメラマンになりたいのか?

幾度となく自分自身に投げかけた問い。
私には2人、10才と8才離れた姉がいる。
3人目の正直で、家業を継ぐための男の子を、と期待して産んでみたら
私だった。という話を母から何度か聞かされた。
中学生くらいの頃、「カメラ買ってほしい」と軽く口にしたら、父がすぐに一眼レフのカメラを買ってきた。フィルムの。
でも私はろくに触りもせず、そのうちに父はそのカメラを引き上げた。

結局私は「写真ではなく、書くほう」を選び、大学も社会学部に進学した。大学生で家を出て、家族とは疎遠になった。
ただ、就職の時に決めた会社は、父が「あそこは良い会社やで」と言ってくれた所だった。

その「良い会社」を卒業する決意のきっかけもまた、父だった。
後期高齢者になった父は、毎日の腹筋100回、腕立て30回の甲斐もあり、足腰頑丈で生涯現役だと言っている。
けれど、何があるか分からない。
カメラマンは技術だけでなく、体力や視力、そして最新のソフトを使いこなす力が求められる。
この年でPhotoshopを使いこなし、SNSで発信しコミュニケーションをしているのは立派だけれど、一方で、「PDFにするのはどうしたら良いのか」「Dropboxの設定はどうしたら良いのか」
みたいな事はやっぱり難しかったりする。

今ならまだ間に合う。
教えてもらおう。そして足りない所は私がやろう。

こうして1年前に会社を辞めた。
それからは時々撮影に同行し、荷物持ちをしたり、暗幕を持ったり、ライティングの補助をしたりアシスタント業務をした。
そしてすぐに気が付いた。
間に合った。けれど、カメラマンになるのは無理だ。と。

父は言った。
「見たもののを、見たままに撮ることが一番難しい」
その通りだった。
可愛い子どもやペット、美しい空や海。そんなものよりも
目の前にある美味しそうな料理、凝った茶碗。
そういったものを「ありのまま」写し残すことの難しさ。
さらにカメラマンには、ありのまま以上、それらの良さを最大限引き出す技術までもが期待される。
だから計算された照明、構図がなければ、写真としての価値は高まらない。

カメラマンになるのは無理だ。すぐには。
ただ、私には最高の師匠がすぐ近くにいる。
父の仕事仲間と会う機会も増えた。私が娘だと知ると、多くの人が嬉しそうに父とのエピソードを私にこっそり話に来てくれる。
「すごい方なのに、私は写真屋さんですから何でも撮りますよ、とどんな仕事でもハイハイっと機嫌よく受けてくださる。尊敬しています。」

ーーー
父のスタジオにはいつも手土産のお菓子が必ずある。お菓子好きの父のために、誰かしらが持ってくる。そしてまた、お裾分け好きの父が、それを誰かにいくつかお土産で持って帰ってもらっている。
一緒に暮らしていた時、父が土産に持ち帰る良質なお菓子たちは、撮影で使ったものだったのかなと想像していたけれど、そうではなかった。

父が写真を撮り、私が記事を書くという機会にも恵まれた。こう書くと1行で終わってしまうけれど、奇跡的な話。
そしてその奇跡は継続しており、今月父と与那国島へ出張する。

実家を出て約20年経った今、私は父と働いている。
毎日電話で打合せし、「なんで半角の変換の仕方も分からへんのー!」とか、遠慮のないやりとりをしている。

幼少期を除いて約30年経って、父と最も心身ともに近い距離にいる。
遠回りしたようで、単に戻ってきただけではない。
自分なりの社会経験を身に着け、そのうえで父と新しいことに挑戦しようとしているこの毎日が、私はとても愛おしい。

日本最西端、与那国島へいってきます。
お父さん、私のことお祝いしてや。

おわり

スタジオの看板犬 ぽんちゃん

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