日本人の特性
権威がきらい??
最近、日本人の特性が気になっていて、そのなかでおもしろい記事を見つけた。
日本
・良いと思う人 → 4.7 %
・悪いと思う人 → 76.1 %
とにかく、地球の全人類の中で、日本人は異常なほど「権威が嫌い」なのです。
それが本当のところのようなのです。
しかし、それが本来なのに、現実の社会や生活がそうなっていない。
だから、精神もシステムも知性もおかしくなる。
渡辺京二著『逝きし世の面影』より
1871年に来日したヒューブナーはこのように記した。「私はこの国(日本)の有力者たちに信仰を持っているかどうか幾度も尋ねてみた。するといつも判で押したように、彼らは笑いながら、そんなことは馬鹿らしいと答えるのだ」。
バードは1878(明治11)年の東北地方縦断の際、久保田(現秋田)の師範学校を見学したが、校長と教頭に対して生徒たちが宗教について教えられているかどうか尋ねると、二人は「あからさまな軽蔑を示して笑った」。
「われわれには宗教はありません。あなたがた教養のおありの方々は、宗教は偽りだとご存じのはずです」というのが教頭の答だった。
リンダウは、「宗教に関しては、日本人は私の出会った中で最も無関心な民族である」と言う。日本には数多くの寺社があるにもかかわらずそうなのである。
日本では僧侶は「いかなる尊敬も受けていない」。
仏教と神道の区別もはっきりしない。民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」。しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。
権威があるからではなく、一種の儀礼として祈りを捧げる日本人。
なんともおもしろい。
権限や権力で動かすのがむずかしい「やっかいな民族」??
わかりやすく言うと、「エラそうなヤツが大嫌い」なんですね。
たとえば、皆さんは「政治家」「社長」「理事長」などと聞いただけで、なんとなく嫌悪感を覚えませんか? 「オーナー社長」なんて、もうそれだけで極悪人みたいに思えてくる(笑)。関係者の方には申しわけありませんが、今回の日大の騒動などは、まさに「役者がそろっている」感じがします。理事長や専務理事という肩書のエラそうなオジサンを見ると、皆で寄ってたかって「やっつけたくなる」わけです。
この話をすると、皆さん意外に思われるんですよね。「日本人は、素直で上の人の言うことをよく聞く民族だ」と思っている人が多い。これ、とんでもない誤解です。私は中国でもビジネスをしています。日本人より中国人のほうが部下として扱いやすいと思います。中国人は、自己主張は強いけど、ガツンと言って納得させれば素直に従います。日本人は、自己主張せず表面上は穏やかだけど、腹の中では何を考えているのかわかりません。皆さん、日本人にだまされてはいけませんよ(笑)。
"日本人は、自己主張せず表面上は穏やかなだけど、腹の中は何を考えているかわかりません。"
この部分を読んで思わず笑ってしまった。
自分に心当たりもあるし、見かける光景でもあるからだ。
たしかに機嫌や思考が表面上から滲み出ている方が対応しやすいのはよくわかる。
腹の中で何を考えてるかわからないって、扱いにくさと妙な怖さがあるのかもしれない。
この記事には日本人を動かすための方法がのっていた。
日本人を動かすため、ガイドラインを活用しよう
こうした「やっかいな日本人」をマネジメントするためには、まず「良き理解者・相談相手になること」が大切です。しかし残念ながら現実には、良き理解者・相談相手になるだけでは対処できない「問題のある部下」が存在します。そのような部下に対しては、処罰したりマイナス評価を下したりするなど、厳しい対応をする必要があります。このような時、ガイドラインは大変便利で有り難い存在になるのです。
権威や権力を嫌う日本人は、必然的に権限や権力で動かされることを嫌がります。たとえば、「私の判断で、こういう処分をした」と言ってしまうと、部下に逆恨みされる危険性があります。このような時は、「ガイドラインに抵触したので、こういう処分をした」と言ったほうが角が立ちません。ちょっと腹黒い感じがしますが、これが現実的な対応です。
子どもが小さかった頃を思い出した。
出かける前には毎回「これからどこに行くのか」と「お出かけルール」を説明していた。
そして守れないときにはすぐに帰るよと伝えていた。
実際守れないときには、怒ったりせずスッと実力行使で連れて帰った。
それをどんなに泣きわめこうが人の目線が気になろうが実行していた。
何かの本で読んでやっていたのだけれど、「〇〇、バッサリ実行」みたいなワードがあった気がする。
〇〇の部分は忘れてしまったけれど、子どもがまだおしゃべりできない頃から続けていて、たぶんそのおかけ「子どもだからわからない」と決めつけないこと、説明することを学んだ気がする。
結果的に親主導ではなく話し合うことが習慣になった。
『日本人は集団主義的』という通説は誤り??
文化ステレオタイプ
多くの文化論は、「日本人は集団主義的、アメリカ人は個人主義的」というように、本質的な対立として「文化差」を描き出しがちである。しかし、心理学における数々の実証的な研究は、人間の行動が状況によって大きく左右される(すなわち、人間は状況に適応的な行動をとる)ことを示している。比較文化研究の実証データを分析すると、通常、文化の影響は予想外に小さいことがわかる。人類の生物学的な共通性は非常に大きく、文化差は表層の差異にすぎないことが多いのである。
にもかかわらず、文化差は「白と黒」のような極端な違いとして描き出され、それはしばしば政治的に利用される。相手の集団を「異質」な存在として認識すると、敵対感情を煽り、敵対行動をとることが容易になるからである。アメリカで「日本人 = 集団主義」説がさかんに唱えられたのも、太平洋戦争と日米貿易摩擦の只中のことであった。
しかし、ステレオタイプ的な文化論の危険性は、日米間だけにとどまるものではない。グローバル化が進展する現代の世界では、異なる文化が接触する機会は飛躍的に増大している。それとともに、異なる文化(たとえば、欧米文化にとっての「イスラム」)を異質化する文化ステレオタイプの危険性も増大していると考えなければならない。文化ステレオタイプについて認識を深めることは、現代の世界にとって重要な課題であると思われる。
東大のホームページはワクワクがつまってておもしろかった。
所得倍増計画??
調べていたらこんなものも見つけた。
日本の経済史においては、1955年から1970年頃までを高度成長期あるいは高度経済成長期と呼び[2]、この間、日本は年平均10%という驚異的な経済成長を遂げた[3]。中でも特に、1960年に首相に就任した池田勇人が打ち出した「国民所得倍増計画」によって、成長体制が整備された[4][5][6]。
農業基本法
池田は「農地法」制定、米国余剰農産物受け入れ、「農業基本法」制定など、日本の戦後農政に深く関与した[175][176][177][178]。農業、林業、漁業の第一次産業に対して近代化を図り[15]、1961年「所得倍増計画」の重要な柱として社会党と対決してまで、戦後農政の憲法といわれる「農業基本法」を成立させた[12][16][121][179][180][181][182]。
1960年11月12日、選挙史上初の三党首テレビ・ラジオ討論会で、池田は「経済成長率が9%なら農村人口を半分以下にすることになる。日本の農業は、ほかの産業が合理化・近代化されているにも関わらず、徳川時代と同じ状態である。農業規模の拡大と、多角経営によって、ひとつの企業として成り立つようにしなければならない」[183]、宏池会の機関紙で「農業人口が日本の総人口の40%を占めているのに、農業所得は国民所得の20%に過ぎないのが問題である。そこで農業人口を鉱工業やサービス業に吸収して、農民の一人当たりの所得を増やす方向に持っていきたい」[41]、「今後10年以内に農林漁業就業人口を3分に1程度に減らす」[184] などと述べ、農業の近代化と合理化、及び農業の発展と農業従事者の地位向上のための施策を定め、「日本を世界の工場にする」という国家目標を打ち出した[179][137][155][180][185]。「所得倍増計画」による農林水産業から重工業への労働力流入によって、働き手が農業から離れることで海外のように大規模で機械を使った効率的な農業を目指した[14][108][186][187][188][189]。商社からの農機具の購入を奨励して機械化を図り、農家の経営規模を拡大して労働の生産性を上げ、農家所得の上昇と他産業への労働力確保を同時に達成しようとする目的を持っていた[190][191]。岸内閣末期の通産大臣時代に民間の農政家だった池本喜三夫に目を付け「農業基本法案」を作成させた[190][191][192][193][194]。
稲作の一貫作業による機械化と耕地の大規模化、すなわち干拓地の開拓が中心的に推し進められた[190]。秋田県の八郎潟を干拓して誕生した大潟村はその象徴であったが[187][195][186]、新しい農業のモデルとされたこの村は、その後国の政策に翻弄された[186]。他地域でも農地の集約は進まず「農業基本法」が後押しした農業機械の普及は、機械の借金返済のために農閑期の出稼ぎを増やし、むしろ零細な兼業農家を増加させた[195][190][196]。「企業として成りたつ農業」を作るため、1.5ha以下の農家に国の指導・援助はしないという施策を定めたため、多くの農家が廃業・転業を余儀なくされた[197]。 重工業の発展によって不足した労働力は主に農村部からの出稼ぎや、若年労働者の集団就職によって補われたのであるが[4][198][199]、この頃に"過疎"という言葉が生まれたといわれる[190]。農家の働き手の男性が高い収入を求めて都会に出るようになり[158]、実家の農作業は妻と老両親(かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん)にゆだねられたことから「三ちゃん農業」と呼ばれた[200]。1963年から64年には農村からの出稼ぎがピークに達し、その数60万人といわれた[190]。革新側は「農地切り捨て論」を訴えたが、結果的に労働力政策としては成功した[201]。
化学肥料や農薬も飛躍的に普及を遂げ[191][202]、農家の所得水準は上昇したが[159]、その後の輸入自由化で主要穀物はアメリカの大規模農業に価格で太刀打ちできず、減反、食の洋風化に伴う米余り、農地の地価高騰などで「農業基本法」は日本の農業を強くするという目的は果たすことができなかった[14][181][182][203]。また農業に関連する公共事業が進められた半面、利益団体と自民党の癒着構造も生まれた[204]。里山の破壊も進行した[191]。戦後の農政が置き土産にしたのは、食料自給率40%(1998年)という主要先進国最下位という数字だった[200]。「所得倍増政策」に於いて、重化学工業化をおしすすめる大きな推進力になったのは「全国総合開発計画」ではあるが、それを実現させるための「労働力確保」という点では、すべての政策は同一ともいえる[197]。池田内閣が強力にリードした「所得倍増政策」により、転職の普遍化、学卒、集団就職など、1960年代に若者の就職状況は激変した[197]。
コロナ後の日本を襲うリスク
コロナ禍になって淘汰圧を感じることが増えた。
これまでそれほど淘汰される気配を感じないでいられたのは、平和ぼけでもあるしある意味生きやすさでもあったのだろう。
自分がどの立場にいるのか、どこから見るか、どの視点を採用するのかによっても見え方はガラリと変わる。
それによって見えているものが救世主にも悪魔にもなり得る。
自分で考えてどの流れにのっていくか決めなくてはならなくなったそんな時代。
善意は歪められたり、利用されたり、搾取されたりしながらわたしたちの前に届くこともあるだろう。
見た目の善意は善意とも限らない。
だからこそ感情的にならずに冷静に見ていきたい。
そして個人や社会の正義は暴力的でもあるから、一定の距離をとっておきたい。
(日本人)
ということでこの本を読み始めてみることにした。
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