今日の山田君 〜思うこと〜 68
12月は意識せずともしぜんに「区切り」や「終わり」を意識させられる。
走りたいときに走れること
服は自分の内面が表れているなと感じる。
全体のイメージやどこにこだわり、どこをこだわらないのかでその人らしさが出ていておもしろいなと思う。
最近はなぜか動きやすい服を好んで着ていたのだけれど、久しぶりにここ5年ほど自分が好んで着ているスタイルででかけてみることにした。
しっくりくると思いきや着ている間中、違和感がつきまとっていた。
その服で太極拳の練習も少ししてみたのだけれど、なんとも動きにくい服だと感じた。
帰りしなに「このスタイルはもう自分には合わない」そう思った。
翌日クローゼットからそれらを取り出すとスッキリした気分になった。
存在感もあるかさばるそれらの服は、いまの自分には必要なかったようだ。
いまは「いかに動きやすいか」、「すぐにとりたい動きをとれるか」のほうが、自分の好みのスタイルを維持するより重要なのかもしれない。
逆に「動きにくさ」に対して許容できなくなっているとも言える。
それは、子どもの中学校説明会のときに学校のスローガンや校則や生徒の自主性の話を聞いていたときに、すごくモヤモヤしてしまって気づいたことでもある。
たぶんわたしは「あなたのため」といってレールを引かれてしまうことや、「一緒に話し合っている」といって最初から決まっていたであろう答えに誘導されること、「安心や安全のため」といって制限をかけ冒険させないことに違和感を感じてしまうからなのかもしれない。
おとなのそういう偽善的な部分は聞いててうんざりしてしまうし、本音で話せる(信頼関係を築ける)先生や友だちは好きだったけれど、学校という場所が苦手だった理由もながい時を経て(今ごろになって)見えてきた気がした。
まあ、全体をもっていきたい方向にまとめるとなると耳触りのよい言葉は必要だし、ルールでしばられるのも理解はしているで、自分の性分に合わないだけともいえるかも。
太極拳
最近は太極拳クラブの人たちともゆっくり話をする機会もあって、そのときに思ったことがいくつかあった。
年齢が20以上離れた方と話していて、その方が若いときの自分は今の自分が見ても嫌な感じがするほどわがままだったと言っていて、子育てをすることで客観的に物事を見ることができるようになって本当によかったと言っていた。
それまでは自分が1番で自分のことを優先的に考えていればよかったのが、子どもが生まれることで強制的に2番手にならざるを得なくなる。
あるいみ下僕みたいになるあの体験は、不安や苦しみも味わうけどすごくいい経験だよね、と盛り上がったりした。
その方は子どもの息が寝てる間に止まってしまうのではと心配で夜中起きていたと懐かしそうに話していた。
わたしもあの体験がなかったら、自分の意見を曲げることのできないわがままなまま、この歳を迎えていたかもしれない。
その方が「昔の自分を思うとゾッとしちゃうわ」と言っていたけれど、まさにそのとおりだなと思った。
そういう意味では子育ても13年を超えてわたしにとってもひと区切りついたといえるのかも。
人間的に魅力的なひと
太極拳の検定試験のときに初めてちゃんと話した人がとってもすてきな人だった。
おそらく60代なのにやわらかくておちゃめな雰囲気がにじみでていて可愛らしかった。
わたしもこんなふうに歳を重ねていこうと、心のなかで決意したりした。
「暗いのでお気をつけて!」
別れ際にさわやかなあいさつまでいただいてしまった。
my神様と師
わが家には祀っているものが何もない。
実家には神棚があって、義両親の家には仏壇がある。
「家のなかに手を合わせる存在があるとどんな変化があるのだろう?」そんな疑問から神棚を置いてみることにした。
どうしてもこだわりが捨てきれなくて、あまり一般的ではなさそうな神棚を選んでしまった。
神様を感じるための扉。
取り扱い説明書にかかれていた言葉が素敵だった。
神様を感じるための扉。
通常神社では御扉は閉められており、お祀りしてある神様を見ることはできません。
催事など特別な時のみ神主によって開かれます。
本来、神様を見ることは恐れ多いことであり、それゆえに心で感じることができるとされています。
宮大工が神社本殿の御扉の施工をする際は、蝶番などの金具は使用せず、上下の丸い穴に扉板を加工して差し込みます。その際、差し込むホゾ部分の角をノミで削りながら、四角から八角へ、更に十六角へと徐々に丸く加工していきます。
そして、丸くなる少し手前で止めて差し込みます。
その削り加減がちょうど良いと、棒の角が当たり木と木が擦れ合うことにより、開閉するたびに「ギギギィ」と軋むような音が鳴り響きます。
「置き型」に用いたこの技法を「ギリ戸(ぎりど)」と呼び、この音は「神様を軽んじて見ることなかれ。」という音として機能しています。
実際に設置してみると、好きだったばあちゃんがいるような不思議な安心感が広がった。
神具を置いたりしてみたのだけれど、なんだかガチャガチャして違和感があった。
眺めていて思ったことは自分にとっての神様は友だちのような存在で、だからこそ仰々しくしたくない気持ちが出てくるのかもしれないということ。
最初は年のはじめにお札を入れて祀ろうとしてい
たけれど、何も入れたくないな、今はそんなふうに思っている。
何も入れなければ、入ることも出ることも自由だ。
神棚を見て好きな人たちを思い出す。
「見守られている」そんな気分になる。
わたしにとっては師のほうが「神様」のような存在だ。
崇めるのではなく、敬う。
畏敬の念をいだくそんな存在。
無意識のうちに「意地を捨て心静かに真摯に向き合わなくては」そう思わされる。
「言葉で伝えなくても、その存在から伝わるものがある」そんなことも言葉では伝えられていないが教わったように思う。